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ACT1 ある晴れた日の病棟で

『ロスト・リミット症候群についての記述』


 人間の体は本来、親指一本で六十キロの質量を持ち上げるだけの構造を備えている。

しかし常にそれだけの力を発揮していては純粋に肉体が持たないため、平常人は脳自身の働きにによって自然とその力はセーブされている。「火事場の馬鹿力」と呼ばれる、緊急時に人が普段からは信じられない力を発揮することは有名で、父親の危機に高校生の娘が車一台を一人で持ち上げた事実も過去にはある。これは危機に直面した際に、持ち主の脳が肉体の制御を外したという目に見えて分かりやすい一例だ。


 ロスト・リミット症候群とは、何らかの先天的または後天的な異常により、その制御を失った人の状態を指す用語である。

 力の加減が非常に困難で、常に百パーセントの力を使用してしまうため、物の破壊や肉体の酷使が著しく、日常生活を送るだけでも深刻な苦労を要する。

また、肉体の疲弊や消耗は日々の生活だけで蓄積していき、先天的な発症者に至っては十代で車椅子の生活になることも珍しくなく、三十代以降の生存率に関しては極めてゼロに近いという過酷な統計も現されている。

 患者自体、世界では数千人、日本では数百人と言われるほど症例も少なく、その原因や治療法の研究は未だほとんど進んでいない。

 そのため医療機関でも診断できるところは少ない上、医師からの指導は痛み止めや普段の力のセーブといった消極的なものに留まるため、どんな世界の先進医療でも画期的な治療法は今のところ存在していないのが現実である。



 ACT1 ある晴れた日の病棟で


 私立西條せいじょう大学病院の整然とした廊下を、パジャマ姿の小柄な少年が歩いていた。年の頃は中学生くらいで、右手の手首から先に包帯を巻いている。三日前に腕の傷から黴菌が入ったことによる高熱で担ぎ込まれたが、処置が早かったためすぐに熱も下がったし傷も抗生物質だけで対処が可能と診断された。すぐにも退院できそうなものだったが、彼には実のところここでかかりつけの持病があったため、経過観察も必要だと主治医の判断で滞在を伸ばされていた。

 しかし病院での生活は、子供にとってあまりにも刺激が少なかった。


(退屈だ……)


 親からタブレットは与えられていたが、動画を見るのにも周囲の会話にも飽きて特に目的もなく廊下をふらふらと歩いていた。談話スペースを通りかかると、大きなテレビ画面にニュースが流れていた。最近流行りの闇バイトの強盗事件の内容が聞こえて来て、同世代として周囲からちらちら見られているような気がして居心地が悪くなり、階段で下の階まで下りると、外が見通せるガラス張りの渡り廊下までたどり着いた。

 ここならしばらく一人になれそうだと、ポケットの小銭で紙パックのいちごオレを買うと、近くのソファに腰掛けた。パックの裏に斜めに付いているストローを外そうとして、片手で、しかも利き手ではない方の手でそれをやるのが意外と大変であることに気が付いた。はがすのは無理そうなので、椅子に置き包帯巻きの右の手でパックを押さえて左の指でストローを押し出そうとしたが、勢いがつきすぎてあらぬ方向に飛んで行ってしまった。


「あ……っ!」


 窓の方に飛んで行ったストローは、落ちることなく不意に現れた人の手でキャッチされた。それは珍しい空色の制服らしいブレザーを着た高校生くらいの少年で、自身よりも明らかに年上に見えた。黒髪でチャラついた様子もない真面目そうな相手は、こちらに近寄ると受け止めたストローを躊躇いなく差し出した。

「はい」

「あ、ども」

 愛想のない礼をして改めてストローを挿そうとしたが、左だとどうにもうまく行かない。見かねたその高校生は隣に座るとストローといちごオレを受け取り、挿してから手渡してくれた。

「ありがとう……ございます」

 もごもごと再び礼を言って受け取ったが、今度はパックを強く握りすぎて噴水のようにピンク色の液体が噴き出した。


「わっ……」


 顔にかかった液体を思わず右手で拭うと、包帯が軽くピンクに染まった。さすがに隣の被害を気にしたが、相手はいち早く飛び退って難を逃れていた。その俊敏さに呆気に取られていると、当の相手が再び近づいて来た。

「大丈夫か?」

「あ、はい。大丈夫っす。あ、いーです、そんなん」

 取り出したハンカチで顔を拭いてくれようとするので遠慮したが、彼はパックを持っていた手の方まで拭いて最後に渡してくれた。

「やるよ、安物だから気にしなくていい」

「はあ」

 柔和な笑顔に、同年代や付き合いのある年長者とも違った雰囲気を感じて急に落ち着かない気持ちになる。そわそわしていると、相手がくすりと微笑った。

「飲まないのか?」

「あ、じゃあ」

 いくつもの苦難を乗り越えてようやく一口飲むと、心地良い甘ったるさが喉を潤した。視線が注がれていることに気が付いて、躊躇いがちに口を開いた。

「あの……なにか?」

「いや、力加減が相当下手だなと思って」

「それはだって、利き手じゃないから」

 人の事情も知らないでと少しむっとして答えると、高校生は真面目な顔で答えた。


「そういうことじゃなくて、ロスト・リミット症候群――なんだよな?」


 その単語が親や医者以外の口から発せられたのは初めてのことで、思わず息を呑んだ。


「驚く必要はないだろう、ここは数少ないロスト・リミット――ロスリミ罹患者の対応医院だ。きみの挙動を見て俺が気づいたところで、何もおかしいことはない」

 そう言われればそうかもしれない。知り合いや身内に、同じ症状の人間がいればピンと来ることもあるだろう。少し警戒を解いて、少年は高校生を見つめた。

「前にもロスリミを見たことがある?」

「まあな。ストローが飛んできたのはさすがに初めてだったけど」

「だから、利き手がこれだからだよ」

 包帯を巻いた右手を掲げて見せると、相手は宥めるような仕草をしながら頷いた。

「その様子だと、日常生活でも苦労が絶えなさそうだ。体育なんかはどうしてる?」

「見学」

「だろうな、親も医師も大抵はそう勧める。けど俺は、できるだけ参加してたよ」

「え……?」

 首を傾げると、思いもよらないことを言い出した。

「俺もここで、橘先生に診てもらってたんだ。あの先生は、親身になって寄り添ってくれるいい先生だ」

 不意に登場した主治医の名前に、一層驚かされた。

「え、あんたもロスト・リミット症候群……?」

 健康そのものの身体をした目の前の相手の言葉を、少年は受け止めかねて胡乱気に見返した。

「信じられないといった顔だけど、本当だ」

「でも、全然……」

 五体満足で、故障している箇所などどこもないように見える。何歳で発症したのかは知らないが、自分より年長でこれほど普通に生活している罹患者の話は聞いたことがない。ただ――橘医師が、自身のかつての患者の話をしてくれた中で、驚異的に力の加減が上手かった高校生の実例があったことを思い出した。


(だとしても、この人が当人の筈はない)


 何故なら、話の高校生は事故で死んだと聞いている。しかしそう何人もこの希少な症状の患者が同じ時期に同病院に存在するとも考えにくい。何だか気味が悪くなってきて、苦笑しながら冗談交じりに切り返してみた。

「まさか、幽霊ってことはないよね?」

「どうかな。橘先生に確かめてみたらどうだ? 柴田蓮しばたれんと言えば、すぐに分かるよ」

「柴田蓮――それがあんたの名前?」

「そうだよ」

「どこかで聞いたような気もする」

「そうか? まあ俺がどうこうってのは冗談として、幽霊と言えば巷で最近追跡中の犯人が煙のように消えてしまう強盗事件が連続して起きているそうだ。知ってるか?」

「テレビのニュースで何度か」

 内心ぎくりとしながらも、平然とした体で答えた。

「あれについて、どう思う?」

「どうって……別に何も」

「そうかな、きみなら察しがついているかと思ったが。闇バイトの実行犯数人は捕まったが、いつも他のメンバーの証言にある最後の一人だけが逃げおおせている。自慢の俊足で現場から逃走することもあれば、パトカーで袋小路に追い込んだケースでさえ、忽然と姿を消したそうだ。何故だと思う?」

「分かんないよ、そんなの」

「犯人は数メートルの壁を飛び越えて、反対側に逃げた」

「ま、まさか。一体どうやって?」

「そりゃあ、自力で跳躍して飛び越えたんだろう。犯人にとっては、他愛もないことだったわけだ」

「そんな無茶な」

「直近では、防犯カメラの映像からも急に姿が追えなくなったそうだ。最後に映ったポイントから、その先は付近のカメラに一切映っていなかったとか」

「……空でも飛んだ?」

 適当な相槌を入れると、柴田と名乗った高校生は指で床を指しながら答えた。

「今度は、下だ。路地裏のマンホールの蓋を持ち上げて中に入り、内側から蓋を閉めて下水道を逃走した」

(……っ!)

 その言葉に下水の臭いと暗闇がフラッシュバックし、その光景を打ち消すように叫んだ。


「そっ……んなこと、人間にできるわけがないよ!」


「そうでもないだろ? きみなら特にそれが分かるはずだ。ロスリミの人間なら、いざという時そのくらいのことは造作もない」

「だ、だけど……その一瞬はいいかも知れないけど、着地の後や蓋を開け閉めした後に必ず反動がある。そしたら逃げるどころか、その場で動けなくなっちゃうだろ。でも逃げた犯人は捕まってないわけだし」

「そうだな、そこは確かにつじつまが合わない」

 相手が矛盾を認めたことでほっとすると、これ以上の長居は不要と少年は慌てて立ち上がった。

「俺、もう病室に帰らないと」

 残ったいちごオレを吸い上げると、ゴミ箱に空きパックを放り込んだ。その手を、素早く掴まれた。

「まあ、待てよ。話はまだ終わってない」

「も、もう話すことなんて……」

 振り払おうとして、びくともしないことに愕然とする。この力が発現してから、自分と同等かそれ以上の力を持つ人間に会ったことはなかった。同年代は言うまでもなく、父親でさえ気を付けなければ簡単に吹っ飛んで行く。それでも、発症した時に説明されたような怪我をしたり筋肉を傷めたりしたことはこれまで一度もなかった。だから恐らく自分は――


「自分はロスリミじゃないって、薄々気づいてるんだろう? 抑え込んで燻る力を持て余して、発散できる場所を求めた。分かるよ、俺も同じだったから」


 ぐい、と握られたままの手首を引き寄せられて、蓮は顔を近づけて囁いた。


「それでも、俺がやったのはせいぜい解体前の廃墟で暴れるくらいだったがな。おまえもそうすれば良かったのに、最悪な方向に力を使った。その手の傷は、マンホールの中を歩き回った時につけたものだろう? 高熱で運び込まれたそうだが、あんな黴菌だらけの場所でその程度で済んだことが奇跡だな――烏丸泰一からすまたいち


「――!!」


「話が聞きたい。俺と一緒に来てもらおうか?」


 言葉が終わるか終わらないかのタイミングで体をひねって全力で壁に腕を叩きつけると、さすがに相手も手を離した。自分の腕だけが壁に衝突して亀裂が入ったが、この際痛みは堪えて一瞬たりとも振り返ることなく廊下をすごいスピードで走り抜けた。通路脇の扉を抜けると、非常階段に辿り着く。このまま病室には戻らず、病院を抜けて家まで帰るつもりだった。自分と同じ力を持っている高校生が一体何者なのかは知らないが、あの若さで警察ということもないだろう。最近流行っている、私人逮捕系ユーチューバーか何かだろうか? 一見おかしな高校生の妄言に、両親が耳を貸すこともないだろう。自宅にさえ辿り着いてしまえば、とにかく自分の勝ちだと思った。一人だけ捕まらずにやり過ごしたのに、こんなところでつまずいてたまるか。

 サンダルで滑りそうになりながら階段を猛スピードでジグザグに下り切ると、一階の踊り場に着地した。追ってくる音が聞こえないことを確認して、息を整えて今一度自分の姿を確認する。スウェットの上下にサンダル、パーカーを羽織った姿はそこまで不自然でもない。このままタクシーで家まで……と出ようとした目の前の扉が勢い良く開いて、逃げて来たはずの相手が涼しい顔で入って来た。


「何……で」


 絶望的な気分になり、その場にへたり込んだ。

「言っただろ、俺も同じだって。あとこの病院は俺の方が詳しい、何しろ三歳から通ってたもんで」

 言いざまネクタイをほどくと、それで泰一の左腕と自分の右腕を結んだ。

「また逃げられると面倒だからな。立てよ」

「いやだ、離せ」

「抵抗するな、どうせ逃げられやしないんだから。やったことの責任は取らないとな」

「警察に突き出す?」

「警察? そんな普通の人間みたいな対応、してもらえると思ってるならおめでたいな」

 シニカルに微笑ったその表情に、ひどく胸騒ぎがした。

「ど、どこに連れてくんだよ?」

「おまえにとっては、地獄かな」

 繋いだ方の手を引きながら、得体の知れない存在に見えてきた高校生があっさりと言った。

「地獄って……」

「表で罪を犯したノンリミがどう扱われるのか、俺も良くは知らない。ただ正式には存在しないことになっている人種が、まっとうに裁かれるなんて期待はしない方がいい」

「さ、さっきから、何言ってんだよ! やっぱりいやだ、家に帰る」

 ぐずり始めた泰一を説得することは諦めて、蓮は懐に持っていた患者が自身で打てる携帯用の注射器を泰一の首筋に打ち込んだ。


 非常階段を使ってそのまま地下駐車場まで下りると、迷わず一台の黒い軽に近づいて行った。窓をノックすると、ドアが静かに開いた。


「お帰り、蓮。守備は上々かな」

 

 後部座席に座ったまま朗らかに話しかけて来たのは、サラサラとした明るい髪色の美少年で、ニットのカーディガンにえんじ色のネクタイを締めた制服を着ていた。蓮と呼ばれた黒髪の高校生は、頷いて意識のない泰一を先に乗せながら自身もその隣に乗り込んでドアを閉めた。


「ああ、確保した。お願いします」


 後の言葉は運転席に向けられたもので、それを受けて車がスムーズに発進する。

 シートに背を着けると、柴田蓮しばたれんはようやく任務の緊張を解いて大きく伸びをした。

「久しぶりに全力の鬼ごっこなんてしちまったから、ちょっと疲れたな」

「えー、蓮たら。遊びじゃないよ?」

「何を偉そうに、おまえは何もしなかっただろうが」

 泰一を間に挟みながらじろりと睨むと、水沼海みずぬまうみは肩をすくめて見せた。

「一人で行くって言ったの蓮じゃない」

「だって二人で行ったら目立つだろ? 俺一人の方が、警戒されないと思ったんだよ」

「それでも結局は使ったんだね、あれ」

「あそこで騒がれたら面倒だったからな……」

「年下でも俺たちと同じノンリミだしね、油断したら危ないよ。それよりこれ」

「あ、おい」

 泰一を雑に奥のシートに転がすと、蓮の隣にいそいそと割り込んで海は二人を繋いでいたネクタイをほどいて代わりに特殊鋼の手錠をかけた。ネクタイは元通り蓮の首元に結んで、形を整えると満足そうに微笑った。

「うん、やっぱりこの方が落ち着くね」

「サンキュ」

 右手首を左手で摩りながら、この境遇とは裏腹に穏やかに眠っている泰一の顔を覗き込んでため息をついた。

「それにしても、中学生が闇バイトとはな……世も末だ」

「こんなの最近じゃ珍しくもないよ。ただ問題は、ノンリミによる犯罪だったってことだね」

「事件が明るみになるまで、特調も気づかなかったんだろ? ここまで後手に回るケースがあるとはな」

「西條病院自体は蓮が通ってたころからずっと張ってるけど、こいつは最近になって近所の病院から紹介されたパターンだったからね。認知と闇バイトへの参画がほぼ同時くらい。どのみち間に合わなかった」

「なあ、こいつはどうなるんだ?」

「蓮が言った通り、地獄行きかな」

「聞いてたのかよ」

「もちろん、何があるか分からないから会話は逐一ね」

「……」

「そんな顔しないで、これも仕事だよ」

「で、どうなんだよ。実際こいつの扱いって」

 照れ隠しも含めて強めの口調で重ねて問えば、海は顔色も変えずに事務的な口調で言葉を返した。

「どうもこうも、ノンリミの実験体は貴重だから。薬の治験やサンプルの提供にご協力いただくってことになるんじゃない?」

「……っ!」

「だから、そんな顔しない」

「でも……まだ子供だろ」

「俺たちと大して変わらないよ。それに犯罪者だからね、権利なんて与えられない。地上と違って、俺たちの暮らす地下では本人が示す価値がすべてだ。まっとうに扱われたければ、自身がまっとうな人間にならないとね」

「『自分の価値は行動と成果で示すしかない』……だったか?」

「そう、よく覚えてるね」

 海が要所で口にする彼にとっての特調での指針は、幼い頃に室長から刻み込まれたものだという。残酷なほど冷徹でありながら、絶対的に公平とも言える。今はその理に縋るしかないのかもしれない。


「おまえに示すだけの価値があれば、また別の形で会えるかもな」


 泰一の横顔を見やりながら、蓮は自身のまださほど長くない身の上についてゆっくりと振り返っていた。

以前投稿していた「Lost Limit ロスト・リミット」を再構築・編集して投稿したものです。ストーリーをメインに据えて日常を削ったほか、要所の内容を変更しているためキャラクターの選択や性格も一部変更しています。違った目線で一から楽しんでいただければ幸いです。

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