第8話 噂と混乱
翌日、魔王城の門前には、想像を超える数の馬車や荷車が並んでいた。人間界の商人や役人らしき者たちが、招待状を手に次々と到着している。魔王軍の兵士たちが誘導に当たっており、物々しい空気を感じさせながらも、大規模な宴が開かれる証しでもあった。
一方、陽人は厨房で最後の仕込みに追われていた。見慣れない人間たちが大勢やって来ているという噂を耳にしながらも、鍋をかき混ぜ、焼き物を取り出し、盛り付けを行う。魔族の助手たちも総動員で、息つく間もない忙しさだ。
「兄貴! こっちのソースはこんな感じでいいのか?」
「うん、それでOK。味見してみて、ちょっと甘みが足りなかったらあの茶色い粉を少しだけ足してくれ」
「了解!」
小柄な魔族が笑顔で応え、調理台に向かう。厨房には緊張感が漂いながらも、どこか活気に満ちた雰囲気があった。誰もが「美味しい料理を作りたい」という思いで一丸となっているからだ。
しかし、陽人の心には一抹の不安があった。市場からの噂によると、人間側が「魔王軍が侵略を止めたのは謎の料理人が暗躍しているからだ」という話を盛んにしているという。その“謎の料理人”が自分だとバレたら、どうなるのだろうか。
「うーん、スパイ扱いとか……あり得る話だよな」
陽人は包丁を握り直す。もしそうなったとしても、今さら立場を誤魔化すわけにはいかない。料理を通して平和を実現する――なんて大それた話、昔の自分なら絶対に信じなかったが、今はそれを背負い込まざるを得ない状況だ。
「陽人様、もうすぐ準備は整いますか?」
城の執事風の魔族が慌てた様子で駆け込んできた。どうやら大広間には既に来賓たちが集まり、魔王ゼファーが開宴の挨拶をするところらしい。
「あともう少しでできるよ。運んじゃって大丈夫なものから順番に持って行ってくれる?」
「はい、かしこまりました!」
魔族の使用人たちが大鍋や皿を慎重に運び出していく。陽人は出来立ての料理を見送りながら、最後の仕上げに取りかかった。
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大広間には色とりどりの料理が並び、そこかしこから驚嘆の声が上がっている。魔族と人間が同じテーブルを囲む光景は、まさに歴史的なものだった。
「これが……魔王軍の宴だと?」
人間界の貴族らしき初老の男性が目を丸くしている。攻撃的な飾り気を想像していたらしく、実際に目にした上品な盛り付けや香ばしい匂いに面食らったようだ。
「これは美味そうだな……。しかし、なぜ人間にここまで似た料理が……?」
別の若い商人が訝しげに首を傾げる。だが、いざ口に運んでみると、そんな疑問はどこへやら、深い味わいに舌鼓を打つばかりとなる。
「……う、うまいっ!」
思わず叫んだ声があちこちで響く。魔族たちは得意げに笑い合い、まるで自分が作ったわけでもないのに陽人の料理を自慢し出す者もいた。
「どうだ、人間の料理でもこんなにうまいんだぜ!」
「いや、だからこれを作ったのは魔族じゃなくて、我々と同じ人間なのでは……?」
そう返されると、魔族たちはいつも陽人を称えるときに使う「料理の魔術師」の二つ名を得意気に口にする。いつしか人間界の客たちも、その呼び名に興味をそそられ始めていた。
「料理の魔術師……一体どんな男なんだ?」
「どうやら、この宴を仕切っているらしい。魔王軍をも黙らせる圧倒的な腕があるとか……」
噂話が飛び交う中、陽人が厨房から出てきた瞬間、多くの人間が注意深く彼を見つめた。その視線には、驚きや期待、そして疑いが入り混じっている。
「あなたが、料理の魔術師……?」
人間の貴族夫人らしき女性が声をかける。陽人は咄嗟に作り笑いを浮かべ、深々と頭を下げた。
「はい、橘陽人といいます。大したことはできませんが……料理を気に入っていただけて嬉しいです」
「本当に、魔王軍が侵略を止めるほどの力をあなたが持っているのですか?」
どこか訝る口調に、周囲の魔族たちが微妙な空気を生み出す。彼らとしては「陽人は偉大だ」というスタンスなのだが、いざ本人がスパイ呼ばわりされるのは看過できないようだった。
「力なんてありませんよ。ただ、みんなに美味しい料理を食べてもらってるだけです」
陽人は苦笑して応じる。しかし、夫人はなおも疑わしげだ。
「それで魔王軍が侵略を止めるものかしらね。私たちからすれば、あなたが魔族に“媚びて”軍備を削がせているようにも見えるのだけれど……」
「ちょっと待ってよ……」
陽人が言葉に詰まる。確かに結果的には魔王軍の侵略意欲をそいでいるわけだが、自分にそんな意図はなかった。思いがけず生まれた誤解に、どう対処するべきか戸惑う。
そこへ、魔王ゼファーが足音を響かせて近づいてきた。
「そこのご婦人。陽人がいなければ、今頃そちらはどうなっていたか分からんぞ?」
魔王ならではの威圧感を伴いながらも、どこか誇らしげだ。人間の客たちは息を呑む。ゼファーの存在感は圧倒的だが、先ほどまで陽人の料理に嬉々としていた彼が、敵意を向けるような雰囲気ではない。
「だが、勘違いするな。俺は人間に媚びるなど全く考えていない。もしこの宴が失敗に終われば、ただちに再び侵略を開始するまでだ。……だからこそ、陽人の料理は重要なのだよ」
その冷ややかな宣言に、貴族夫人の表情が強ばる。一方、周囲の魔族たちは「そうだそうだ」とばかりにうなずいた。
「そ、そういうことでしたの……?」
夫人の声がやや震えている。ゼファーはチラリと陽人を見やると、口元を上げた。
「我々が陽人に魂を売ったわけでも、彼がスパイというわけでもない。単純なことだ――美味い料理で腹を満たす時間が、戦いよりも遥かに心地よいというだけだ」
その言葉に、陽人は胸を撫で下ろす。確かにゼファーらしい強引な物言いだが、人間界の客たちにも納得できるだけの説得力はある……はずだ。
とはいえ、陽人の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。今のところ平和な空気が漂っているが、夫人のように疑いのまなざしを向ける人間は少なくないだろう。もし何かトラブルが起きれば、陽人がスパイだという噂が一気に広まってしまう可能性もある。
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その頃、魔王軍の幹部たちの間でも、妙な亀裂が走り始めていた。陽人の料理にどっぷりハマり、平和に傾倒する者と、従来の侵略の考えを捨てきれない者との間で意見の相違が深刻化しつつあるのだ。
「いいか、俺たち魔族は本来、戦ってこそ価値がある。人間に塩を送るなんて、魔族としての誇りを捨てることになるぞ!」
従来派の一人がテーブルを拳で叩き、声を荒らげる。その隣では、もう一人が肩をすくめていた。
「そんなことを言っても、事実として陽人の料理によって領民も兵も安定しているじゃないか。腹が満たされれば争いも起きにくい。これこそ新しい時代の形だ」
「新時代だと? フン、ただの堕落にしか見えん!」
バチン、と拳を打ち合わせ、険悪な空気が流れる。周囲にいた魔族たちが慌てて仲裁に入るが、料理文化を愛する派閥と、誇り高き戦士としての在り方を貫きたい派閥の対立は簡単には埋まりそうにない。
この言い争いを、たまたま廊下を通りかかった陽人が遠巻きに聞いてしまう。
(やっぱり……料理への興味が高まるほど、これまでの価値観との衝突も大きくなっていくんだな。どうしたらいいんだろう?)
陽人は小さく息を吐き、再び厨房へと戻っていく。宴の最中だというのに、胸の奥に不安がぬぐえない。
こうして、魔王軍内部で高まる対立の火種と、人間界からの疑惑の視線が重なり合い、陽人を取り巻く状況はますます混迷を深めていく。果たして、この宴が終わったとき、魔族と人間は真に理解し合えるのだろうか。そして、陽人の料理はその架け橋となるのか――。