第75話 起死回生?のベリーソースと、魔王、家主と謁見す
【異世界・王宮大厨房】
厨房は、アドレナリンと、生クリームと、かすかな絶望の匂いで満たされていた。陽人の『緊急作戦・即興デザート』は、まさに時間との戦い、いや、もはや秒読み段階の爆弾処理に近かった。
「リリア! クリーム泡立てすぎだ! 角が立ちすぎてる! もっとこう、ふんわりと! 天使の羽のように!」 「て、天使の羽!? わ、私、天使見たことないですぅ!」 「イメージだ、イメージ! ギギ! ベリー潰しすぎ! ジャムじゃない、ソースだ! 宝石の輝きを失うな!」 「ひぃぃ! す、すみません! 優しく…優しくですね…!」 「バルガス! そのクルミ、粉々だ! 粉末じゃない、食感を残すんだ! …いや、もういい、それはそれで何かに使おう…」 「……ウス」
陽人は、グラントから恵んでもらった(という名の押し付けられた?)最高級の生クリームとベリーを前に、額に汗して指示を飛ばす。ジュレに使えなかったフルーツも刻んで加え、彩りは悪くない。だが、何かが足りない。ただ甘いだけの、ありきたりなデザートになってしまう。王宮の舌の肥えた貴族たちを、そして何より、この絶望的な状況を、ひっくり返すだけの「何か」が。
(くそっ…! 時間だけが過ぎていく…!)
壁の時計が、無情にも最後の数分を刻み始める。大広間からは、デザートを待ちわびる人々のざわめきと、食器の触れ合う音が微かに聞こえてくる。もう、限界か――。
陽人が唇を噛み締めた、その時だった。 彼の脳裏に、ふと、今は亡き日本の祖母の顔が浮かんだ。優しくて、いつも美味しいお菓子を作ってくれた、料理の原点ともいえる存在。彼女がよく言っていた言葉。
『はるとや、本当に美味しいものはね、ちょっとだけ冒険しないと作れないんだよ。甘いものには、ほんの少しの塩、とかね』
「……塩?」
そうだ、塩じゃない。もっと、この状況にふさわしい「冒険」を。 陽人は、エプロンのポケットを探った。そこには、彼が魔界からこっそり持ち出し、お守りのように常に持ち歩いていた、小さな小瓶が入っていた。中身は、魔界産の希少なスパイス、『微光ペッパー』の粉末。辛味はほとんどなく、舌の上で僅かに弾けるような、爽やかな刺激と、星屑のような微かな光を発するのが特徴だ。普段は肉料理の隠し味に使うのだが…。
(……やるしかない!)
陽人は、迷いを振り払い、完成間近のベリーソースに、微光ペッパーをほんのひとつまみ、振り入れた。 瞬間、ソースが淡い光を放ち、甘い香りの中に、弾けるような、清涼感のある香りが加わった。
「シェフ!? 今、何を…!?」 「企業秘密だ! よし、これをクリームと合わせるぞ! 急げ!」
陽人の号令一下、チームは最後の力を振り絞る。光り輝くベリーソースを纏った即席デザートは、急ごしらえとは思えぬ、神秘的な輝きを放っていた。名前をつける暇などない。ただ、『マカイ亭・魂のデザート』とでも呼ぶべきか。
「できた! 運べ! 頼む!」 バルガスが、その巨大な体躯に似合わぬ俊敏さで、完成したデザートが乗ったトレイをひったくるように受け取り、大広間へと疾走していく。リリアとギギも、残りの皿を手に、必死に後を追う。
厨房に残された陽人は、その場にへたり込み、荒い息をついた。 (……やった。……できることは、やったはずだ) だが、その顔に達成感はない。ただ、まな板の上の鯉のような心境で、大広間からの「審判」を待つだけだった。
【日本・横浜】
魔王ゼファーは、己の人生において、これほどまでに理不尽な存在と対峙したことがなかった。 目の前に座っているのは、アパートの大家である、小柄で、人の良さそうな、しかし、その目には一切の情も妥協も宿っていない老婆だった。
「……それで? ゼファーさんと仰ったかね。お家賃、今月分まだ振り込まれてないんだけど?」 大家は、通帳らしきものをパラパラとめくりながら、事務的な口調で尋ねる。傍らでは、ギギが「ひぃぃ…! ごめんなさいごめんなさい…!」と、なぜか自分が悪いかのように縮こまっている。
「『おやちん』とやらは、承知しておる」 ゼファーは、努めて冷静に、王としての威厳を保ちながら答えた。昨日覚えた『前借り』という名の屈辱的な資金調達により、彼の懐には一万円札が数枚入っている。支払うことは可能だ。だが、問題はそこではなかった。 「しかし、問いたい。なぜ我らは、この『巣』に住まうだけで、対価を支払わねばならんのだ? 我らはここを征服したわけでも、所有を宣言したわけでもない。ただ、『存在』しているだけだというのに」
魔王ゼファーは、根本的な疑問を口にした。それは、魔界における「領土」と「支配」の概念と、現代日本の「不動産賃貸借契約」という概念の、致命的な齟齬から生じた問いだった。
大家の老婆は、きょとんとした顔でゼファーを見つめ、やがて、くつくつと笑い出した。 「はっはっは! あんた、面白いこと言うねえ! まるで異世界から来たみたいじゃないか!」 「……む」 図星を突かれ、ゼファーはわずかにたじろぐ。
「ここは日本だよ、あんた。家を借りたら家賃を払う。それがルールさ。払えないなら、出てってもらう。それだけだよ」 老婆の言葉は、シンプルで、揺るぎない。そこには、魔力も、権威も介在しない、ただ「契約」という名の、この世界の絶対的な法則が存在していた。
「……契約、だと?」 「そうさ。あんた、最初にここに来た時、サインしたろ? あの紙切れが、あんたと私の『契約』だよ」
ゼファーの脳裏に、このアパートに来て間もない頃、わけも分からずサインさせられた書類の記憶が蘇る。あれが、自らの居住権を縛る「呪いの契約書」だったというのか。
(……不覚! この世界の『法』という名の結界、侮っていたわ…!)
ゼファーは、己の認識の甘さに、内心で舌打ちした。王としての権威も、魔力(たとえ回復途中であっても)も、この老婆が振りかざす「契約」の前では、何の意味もなさない。
「……承知した」 ゼファーは、観念したように、懐からくしゃくしゃになった一万円札を取り出した。人生で初めて稼いだ、汗と…そしてちょっぴりの焦げた肉の匂いがする金。 「これで、足りるか?」 「はいはい、お預かり。お釣りはこれで…」
老婆は慣れた手つきで金を受け取り、領収書を発行する。その一連の事務的な流れに、ゼファーは言いようのない敗北感を味わっていた。 (……王が、家主に頭を下げ、対価を支払う……。なんという、屈辱……いや、これもまた、この世界の『理』なのか)
家賃の支払いを終え、すごすごとアパートへの帰り道を歩くゼファーとギギ。ゼファーの肩は、心なしか小さく見えた。 「魔王様……大丈夫ですか……?」 「……問題ない、ギギよ。これも『現地調査』の一環だ。この世界の経済システムにおける『不動産価値』と『賃貸契約』の重要性を、身をもって学んだに過ぎぬ」
強がりを言う主君の横顔に、ギギはかける言葉も見つからなかった。 だが、その時。ゼファーの足が、ふと止まった。 彼の視線の先には、夕暮れ時の公園。滑り台で遊ぶ子供たちの、甲高い笑い声が響いている。ブランコに揺られる親子。ベンチで談笑する老人たち。 それは、彼が昨日、バーベキューの喧騒の中で感じたものと同じ、「平和」の光景だった。
(……我は、何を守るために、戦ってきたのだろうな)
ゼファーの胸に、これまで感じたことのない、複雑な感情が込み上げてくる。 力による支配。恐怖による統治。それが、本当に民の幸福に繋がるのか? この、名もなき人々が享受している、ささやかで、しかし温かい日常。これこそが、守るべきものなのではないか?
「……ギギよ」 「は、はいぃ!」 「……今夜は、奮発して、『金のハンバーグ』にするぞ」 「! は、はいぃぃっ!」
少しだけ元気を取り戻した主君の言葉に、ギギの顔がぱあっと明るくなる。 家賃の支払いで心は寒いが、腹は満たさねばならぬ。 魔王の、異世界サバイバルと、そして内面の探求は、まだ続く。 腹ペコのままでは、世界も、自分自身も、変えられないのだから。




