第73話 デザートは甘くて危険な香りと、魔王、肉を焦がす
【異世界・王宮大広間】
大広間は、メインディッシュを巡る静かな熱狂に包まれていた。グラントの完璧な仔羊のローストを称賛する声と、陽人の温かくも奥深い牛肉の煮込みに驚嘆する声が、テーブルのあちこちで交錯している。その様相は、もはや単なる食事ではなく、二つの異なる文化と価値観の代理戦争のようだった。
「…信じられん。この煮込み、確かに家庭的ではあるが、ソースの深みは宮廷料理にも劣らんぞ」 「いや、仔羊の火入れこそ至高。下町の料理など、所詮は付け焼き刃…」 「何を言うか! この煮込みには『心』がある! 食べただけで故郷の母を思い出したわ!」 「まあまあ、どちらも素晴らしいということで…ねえ?」
貴族たちの間で、熱っぽい(そして少しだけ険悪な)料理談義が繰り広げられる。その様子を、ボルドア子爵は扇子で顔を隠しながら、苦々しく見つめていた。彼の派閥の貴族たちでさえ、陽人の料理を前にして素直に「美味い」と漏らしてしまう者がいる。計画が、明らかに崩れ始めている。
(おのれ…! あのような下賤な料理が、なぜこれほどまでに…!)
一方、オルロフ公爵は、隣席の貴婦人と穏やかに談笑しながらも、その目は会場全体の空気を正確に捉えていた。彼は、陽人が給仕を手伝うリリアに、そっと耳打ちするのに気づく。
「…どうだ、リリア? 会場の雰囲気は」 「は、はい! すごいです、シェフ! グラントさんの料理も絶賛されてますけど、シェフの煮込みも、『なんだか泣ける』って言ってるご婦人がいました!」 「泣けるって…どんだけだよ…」 陽人は苦笑しつつも、確かな手応えを感じていた。グラントの料理が「頭で味わう芸術」なら、自分の料理は「心で味わう温もり」。ベクトルは違えど、その力は決して劣っていない。
「…ふん。やるではないか、下町の料理人」 不意に、背後から低い声がかかる。振り返ると、そこにはグラントが、空になった皿を手に立っていた。彼は、陽人の煮込みを、人知れず味わっていたらしい。 「…ありがとうございます。グラントさんの仔羊も、完璧でした。あのソース、どうやって…」 「企業秘密だ」
グラントはぶっきらぼうに答え、すぐに踵を返した。だが、その横顔には、ほんのわずかながら、ライバルを認めるような複雑な色が浮かんでいたように、陽人には見えた。
やがて、メインディッシュの皿が下げられ、会場の期待は最後のデザートへと集まっていく。厨房では、陽人とグラント、両陣営が最後の仕上げに取り掛かっていた。
「よし! 『希望の夜明け・フルーツと光苔のジュレ』、最終工程だ! ギギ、その光苔パウダー、震えずに、均一に振りかけるんだぞ!」 「は、はいぃ! わ、私の人生で、一番集中します!」 「バルガス! 飾り用の飴細工、頼む! 粉々にしたら許さん!」 「……ウス」
陽人のデザートは、魔界産の珍しい発光性の苔を使った、見た目にも華やかなジュレ。甘酸っぱいフルーツとの組み合わせで、食後の口直しにぴったりの一品だ。対するグラントは、濃厚なチョコレートと王都産の高級ベリーを使った、芸術的なムースを用意している。まさに、光と闇、革新と伝統の対決だった。
だが、陽人がジュレを器に盛り付け始めた、その時だった。 厨房の隅、食材が積まれた棚の影で、カサリ、と何かが動く気配がした。
(…ん?) 気のせいか? 陽人は一瞬手を止めたが、開宴前の緊張感で神経が過敏になっているだけだろうと思い直し、作業に戻った。 しかし、その直後。厨房の照明が、一瞬、フッと瞬いた。まるで、何者かが魔法的な干渉を試みたかのように。
「……今…?」 リリアが不安げに呟く。 「気のせいだろ。ほら、急ぐぞ!」 陽人は、胸騒ぎを覚えつつも、自分と仲間を叱咤した。決戦の舞台は、もう目の前なのだ。
【日本・横浜・河原】
「うおおっ! 取れ! ゼファーさん、取るんだ!」 「むんっ!」
魔王ゼファーは、飛んできた白い球――軟式ボール――に向かって、反射的に手を伸ばした。グローブなどという軟弱な防具はない。素手だ。 パシイイィィン!!! 乾いた、しかし破裂するような音が響き渡る。ゼファーの手のひらは、ボールを受け止めた衝撃でジンジンと痺れていた。
「い……っててて……! なんだ、この球は! 見た目に反して、妙に硬いではないか!」 「ははは! ナイスキャッチ、ゼファーさん! でも、普通はグローブ使うんだぜ?」 オヤカタが、腹を抱えて笑っている。ケンタ君も、「おっちゃ…ゼファーさん、すごい!」と目を輝かせている。
ゼファーは、生まれて初めて体験する「きゃっちぼーる」という名の謎の儀式に、完全に翻弄されていた。だが、ボールを投げ、捕る。その単純な動作の中に、奇妙な高揚感があることも、否定できなかった。 (……我が魔王軍にも、このような訓練を取り入れるべきか…? いや、しかし、戦略的意義が…) 真剣に軍事転用を考えるあたりが、彼らしい。
バーベキューは、さらに盛り上がりを見せていた。ゼファーが持ち込んだ「理論派焼肉のタレ」は、作業員たちに大好評。 「ゼファーさんのタレ、美味いけど、なんか食うと頭良くなる気がするな!」 「分かる! 俺、今なら二次方程式解けそうだもん!」 「いや、それは気のせいだろ…」
そんな中、オヤカタがゼファーにトングを差し出した。 「ほら、ゼファーさんも焼いてみろよ! バーベキューはな、自分で焼いて食うのが一番美味いんだ!」 「……ふむ。よかろう。我が『火加減』の理論、実践してみるか」
ゼファーは、図書館で得た知識――『炭火焼肉の極意・強火の遠火で旨味を閉じ込めるべし』――を脳内で反芻しながら、トングで肉を掴み、網の上に乗せた。 (ふむ。炭の配置、空気の流れ、肉の厚さ…完璧だ。我が計算によれば、3分27秒で理想的なミディアムレアに…)
だが、その時。 「あーっ! ゼファーさん! 肉、焦げてる焦げてる!」 ケンタ君の悲鳴に、ゼファーは我に返った。見ると、網の上の肉は、彼の完璧な計算を嘲笑うかのように、一部が真っ黒こげになっていたのだ。
「なっ…!? 馬鹿な! 理論上は、完璧なはず…!」 慌てて肉をひっくり返すが、時すでに遅し。反対側も、無残な焦げ跡が刻まれている。
「あーあ、やっちまったな、ゼファーさん!」 オヤカタが笑いながら、焦げた肉を取り上げる。 「バーベキューってのはな、理論通りにいかねえんだよ。火の機嫌見て、肉の声聞いて、あとは…勘だよ、勘!」 「かん……?」
ゼファーは、己の理論が脆くも崩れ去った事実に、呆然としていた。 (勘…だと? そんな、非科学的な…!)
オヤカタは、焦げた部分を取り除きながら、肉をゼファーに差し出した。 「まあ、食えないわけじゃねえよ。これも、バーベキューの味ってもんさ」 ゼファーは、恐る恐る、その焦げた肉を口にした。 確かに、焦げの苦味がある。だが、炭火の香ばしさと、肉本来の旨味は、しっかりと残っていた。
(……これもまた、悪くない…のか?) 完璧ではない。理論通りでもない。だが、これもまた、「食」の一つの形。 ゼファーの料理哲学に、新たな、そして極めて厄介な変数――『勘』と『失敗の味』――が加わった瞬間だった。
その時、ゼファーのポケットで、スマホが震えた。画面には『ヒツウチ セイカツヒ シキュウ フリコミ ヨロシク オヤチン』という、彼には解読不能なカタカナの文字列が表示されていた。家賃の催促である。
「む……? 新手の暗号か…?」
魔王の、異世界サバイバルにおける新たな試練(主に金銭的な)が、静かに迫っていた。




