第71話 開戦の号砲(スープ皿と共に)
【異世界・王宮大厨房】
戦端は、一皿のコンソメスープによって開かれた。
王宮晩餐会の第一幕、前菜が優雅なワルツのように各テーブルへと運ばれていく。厨房の右半分、グラント陣営からは、宝石のように輝く魚介のテリーヌが、寸分の狂いなく配置された銀の皿に乗って送り出されていく。その完璧な美しさに、厨房の隅で見守る貴族の給仕長が、うっとりとため息を漏らしていた。
一方、左半分、我らがマカイ亭チーム。 「わわわっ! シェフ! スープ皿が熱いです! 指紋がついちゃいます!」 「馬鹿野郎リリア! 指紋より、こぼさない方が百倍重要だ! 落ち着け! バルガス、その皿、あと5ミリ右!」 「……ウス」 「ギギ! パセリのみじん切り、震えすぎて粒子が舞ってる! 吸引力の変わらないただ一人のゴブリンかっ!」 「ひぃぃ! す、すみません! 息止めます!」
そこは、優雅さとは程遠い、活気と…若干のパニックに満ちたカオスだった。陽人は汗だくになりながら、グラントのテリーヌに対抗すべく用意した『闇ホタル茸の温製ポタージュ』を必死に盛り付けている。希少な闇ホタル茸を贅沢に使い、隠し味に魔界クリームチーズを加えた、濃厚でクリーミーな自信作だ。仕上げに、暗闇で僅かに光る性質を持つ茸の胞子(もちろん無害だ)を振りかけ、見た目にも幻想的な一皿を目指した。
「よし、第一陣、行くぞ!」 陽人の号令で、リリアと、なぜか給仕を手伝わされているバルガス(その巨体と無表情さが、逆に貴族たちの間で「あれは魔王直属の近衛兵か?」と妙な憶測を呼んでいた)が、慎重に、しかしどこかぎこちなくスープ皿を運んでいく。
大広間の反応は、すぐさま厨房にも伝わってきた。 グラントのテリーヌには、「さすが宮廷料理長」「芸術品だ」という安定の賞賛。 そして、陽人のポタージュには……。
「な、なんだこのスープは……光っておるぞ?」 「闇ホタル茸…? 魔界の食材か? 毒ではないのか?」 「……む! こ、これは……濃厚で……なんと複雑な味わい……!」 「おいしい! クリーミーで、茸の香りがすごいわ!」
賛否両論。いや、味への評価は驚くほど高い。だが、その出自――「魔界の食材」と「下町の料理人」――に対する偏見が、貴族たちの間で囁かれる声となって厨房にまで届く。ボルドア子爵が、隣の席の貴族に「やはり、品がない」と扇子で口元を隠しながら話しているのが、陽人の席からも(なぜか)見えた気がした。
(……くそっ。だが、まだだ。勝負はメインディッシュ!) 陽人は奥歯を噛み締め、メインの準備に取り掛かった。彼が選んだのは、『水晶玉葱と牛肉のデミグラスソース風煮込み・マカイ亭スタイル』。あの奇跡の肉じゃがの経験から着想を得て、魔王陛下への敬意(と、影魔王作戦のアリバイ作り)も込め、水晶玉葱の甘みを最大限に引き出した、渾身の一皿だ。醤油とみりん風調味料を隠し味に使い、どこか懐かしく、それでいて新しい味を目指した。
厨房の空気が、再び張り詰める。メインディッシュは、晩餐会の華。グラントも、完璧な火入れの仔羊のローストを仕上げにかかっている。まさに、両陣営のプライドが激突する瞬間だった。
【日本・横浜】
魔王ゼファーは、河原に広がる、異様な光景を前に、わずかに眉をひそめていた。 金網の上で、肉や野菜が無秩序に焼かれ、人々はそれを奪い合うように皿に取り、紙コップに入った泡立つ液体を呷っている。陽気な音楽、子供たちのはしゃぎ声、そして、もうもうと立ち込める煙と香ばしい匂い。
「……これが、『ばーべきゅー』という儀式か」 ゼファーは、オヤカタから渡された紙皿と割り箸を手に、その混沌としたエネルギーの渦を分析していた。 「ま、魔王様……! お肉が、焼けております! 炎の上で! まるで地獄のようですぅ!」 ギギは、ゼファーの足元で震えながらも、焼ける肉から目が離せない。
「まあ、固いこと言うなよ、ゼファーさん!」 オヤカタが、顔を赤らめながらゼファーの肩を組んできた。 「難しい理屈はいいんだよ! 青空の下で、みんなで肉食って、酒飲んで、笑う! これが最高なんだって!」 「……ふむ」
ゼファーは、オヤカタから差し出された、タレでテラテラと光る焼き肉を、おそるおそる口に運んだ。 炭火で焼かれた香ばしさ。甘辛いタレの濃厚な味。そして、肉の持つ、原始的な旨味。 それは、図書館で学んだ調理科学とも、彼が目指した理論派料理とも、全く違う次元の「美味」だった。
(……理屈ではない。ただ、美味い。そして……) ゼファーは周囲を見渡した。オヤカタも、他の作業員たちも、皆、実に楽しそうだ。身分も、年齢も関係なく、ただ同じ火を囲み、同じ食を分かち合い、笑っている。 (……これが、陽人の言っていた……食卓を囲む、ということか)
その時、ゼファーは閃いた。 彼は、おもむろに立ち上がると、持参した包みを開いた。中には、彼が昨夜、理論と知識を結集して作り上げた、完璧な比率の「自家製焼肉のタレ」が入っていた。
「オヤカタよ。この肉には、こちらの『秘伝のソース』の方が合うかもしれん」 「お? なんだゼファーさん、自分で作ってきたのか! よっしゃ、試してみよう!」 ゼファーのタレをかけた肉を、オヤカタが豪快に口に放り込む。
「…………ん?」 オヤカタの動きが、止まった。 「……なんだこれ……めちゃくちゃ……複雑な味がする……! 美味い! 美味いけど……なんだか、こう……頭使う味だな!」 「ふふん。我が計算によれば、このタレは、肉のタンパク質をアミノ酸へと分解し、炭火によるメイラード反応を最適化することで、通常の3.7倍の旨味成分を引き出すはずだ」 「……ぜ、ゼファーさん、何言って…?」
ゼファーの、あまりに理論的すぎる解説に、周囲の和やかな空気は一瞬、困惑に包まれた。だが、彼のタレが異常に美味いことは事実。人々は「なんだかよく分からんが、美味い!」と、そのタレに殺到し始めた。
ゼファーは、その光景を、満足げに眺めていた。 (ふふん。やはり、知識こそ力。我が理論は、正しかったのだ……!) 彼が、自らの料理哲学の正しさを確信し、悦に入っていた、まさにその時だった。
「おーい、ゼファーすぁーん! キャッチボール、しましょー!」 オヤカタの息子らしき少年が、グローブとボールを持って、屈託のない笑顔で駆け寄ってきた。
「……きゃっちぼーる?」 ゼファーは、未知の単語を、訝しげに繰り返した。 彼の料理探求者としての休日(という名の現地視察)は、まだ終わらない。 新たな、そしておそらくは、さらに理不尽な挑戦が、彼を待ち受けていた。




