第70話 決戦の厨房と、理論の食卓
【異世界・王宮大厨房】
その日、王宮の大厨房は、二つの全く異なる国が領土を分け合う、緊張感に満ちた戦場と化していた。
厨房の右半分は、静寂と秩序の世界。王の宮廷料理人グラント率いる精鋭部隊が、まるで息を合わせるように動いている。カチャリ、と銀の調理器具が触れ合う澄んだ音。シュン、と野菜が寸分の狂いなく刻まれる音。誰一人として無駄口を叩かず、その白いコックコートは一点の染みもなく、彼らの仕事が芸術の域にあることを示していた。
そして、左半分は、混沌と活気の世界。我らが「マカイ亭」チームの陣地だ。
「わー! シェフ! 見てください、このハーブ! お花みたいで可愛いです!」
「リリア、それは飾り用だ! つまみ食いするな! ギギ、その銀の皿、昨日みたいに『呪いの鏡』とか言って怖がるなよ! ただの皿だ!」
「ひぃぃ! で、でも、僕の情けない顔が映って、魂が吸い取られそうで……!」
「……うるさい」
巨大な寸胴鍋を軽々と運んできたバルガスが、一言だけ呟く。その言葉に、なぜかリリアとギギは「「はいっ!」」と背筋を伸ばした。陽人は、この奇妙なチームワークに、もはやツッコミを入れる気力もなかった。
(やばい……アウェー感、半端ない……)
陽人は、敵陣(グラントの厨房)のあまりのプロフェッショナルな空気に、完全に気圧されていた。だが、自分の仲間たちを見渡す。緊張で顔は引きつっているが、その瞳には、陽人への信頼と、これから始まる「お祭り」への期待が混じっていた。
(……そうだ。俺たちは、俺たちのやり方でいいんだ)
陽人は、ふっと息を吐いて、笑った。
その時、グラントが音もなく陽人の隣に立っていた。
「……下町の料理人よ。浮かれている暇はないぞ。今日の舞台は、お前の店とは違う。ここに集うのは、王侯貴族。その舌は、真実の味しか認めん」
その声は静かだったが、鋼のようなプライドが込められていた。
陽人は、グラントを真っ直ぐに見返した。
「はい、承知しています。ですが、俺はこう思うんです。本当に美味しいものを食べた時の『うまい!』って笑顔に、貴族も庶民もない。俺は、その顔を見るために料理を作ります。それは、ここでも、俺の店でも、同じです」
一瞬、グラントの険しい目に、意外な光が宿った。彼は「……ふん」と鼻を鳴らすと、自らの持ち場へと戻っていった。
「シェフ! 今の、かっこよかったです!」
「だ、大丈夫ですか!? 石にされませんでしたか!?」
リリアとギギが駆け寄ってくる。
「お前らなあ……! よし、開宴前に腹ごしらえするぞ! 特製まかないだ! これ食って、気合入れるぞ!」
「「「はいっ!(……ウス)」」」
陽人が作った、あり合わせの食材による温かいスープを囲み、四人は最後の作戦会議(という名のただの雑談)を始める。その光景は、これから国家の運命を左右する晩餐会に挑むチームには、到底見えなかった。
やがて、遠くから、晩餐会の開宴を告げる、壮麗なファンファーレが鳴り響いた。
陽人は、最後の一口を飲み干すと、にやりと笑った。
「よし、行くぞ、お前ら! 最高の料理で、最高のわがままを聞かせてやろうぜ!」
【日本・横浜】
魔王ゼファーは、アパートの小さな台所で、腕を組んで深く頷いていた。
彼の前には、昨日デパ地下で手に入れた食材――ジャガイモ、ニンジン、牛肉、玉ねぎ――が、まるで謁見を待つ諸侯のように、行儀よく並べられている。
「……ふむ。理解したぞ、ギギよ」
ゼファーは、傍らで正座して待機しているギギに向かって、講義を始めた。
「昨日のデパ地下での視察、そして図書館での研究の結果、我は一つの結論に達した。料理とは、魔術である、と!」
「ま、魔術、ですか!?」
「うむ。食材という名の『触媒』を用い、加熱という『儀式』を経て、栄養素と旨味という『マナ』を最大限に引き出す、高度な錬金術なのだ!」
ゼファーの頭の中は、もはや完全に『調理科学』と『魔術理論』が融合した、独自の料理哲学で満たされていた。
「見ておれ。この『男爵』と名乗るジャガイモ……その魂は、煮込むことでホクホクとした食感へと昇華されることを望んでおる!」
ゼファーは、まるで神託でも受けるかのように、ジャガイモを両手で恭しく掲げた。
「魔王様……! ジャガイモと、お話が……!?」
「対話だ、ギギ。素材との対話こそが、魔術の第一歩なのだ」
ゼファーは、図書館で得た知識――「男爵いもは煮崩れしやすいので、面取りをすると良い」――を、彼自身の壮大な世界観で再解釈し、実践し始めた。ピーラーでジャガイモの皮を剥き、包丁で律儀に角を落としていく。その手つきは、不慣れだが、驚くほど真剣だった。
「ニンジンよ、貴様の望みはなんだ? ……ふむ、『乱切り』によって、味が染み込む表面積を増やすことを望んでおるか。よかろう、許可する!」
「牛肉よ! 貴様は炒めることで、『メイラード』という名の封印されし香りを解放するのだ!」
ゼファーの奇妙で、しかし妙に理論的な調理は続く。
ギギは、主君が野菜や肉と真剣に会話する姿を、尊敬と、ほんの少しの畏怖の念をもって見守っていた。
やがて、全ての「対話」を終えた食材が鍋に投入され、ゼファー流の「理論派肉じゃが」が完成した。
見た目は、ごく普通の肉じゃが。だが、その香りは、前回の奇跡の時とは違う、計算され尽くした、知的な芳香がした。
「……うむ。完成だ」
ゼファーは、自らの魔術の成果を、満足げに見下ろす。そして、ギギと共に、その一口を味わった。
「……なるほどな」
ゼファーは、深く頷いた。
前回の、魂を揺さぶるような奇跡の味ではない。だが、ジャガイモは完璧にホクホクとし、ニンジンには味が染み込み、牛肉は柔らかい。全ての食材が、彼が「対話」で理解した通りに、その持ち味を最大限に発揮していた。
技術と知識が、確かに味を創造したのだ。
「おいしいです、魔王様! 今日の肉じゃがは、なんだか、すごく『ジャガイモの味』がします!」
ギギの素直な感想が、ゼファーの理論が間違っていなかったことを証明していた。
満足げに食事を終えたゼファーの元に、陽人が置き忘れていったスマホから、陽気な着信音が鳴り響いた。
画面には『オヤカタ』の文字。
「……む?」
ゼファーが、おそるおそる通話ボタンを押すと、電話の向こうから、オヤカタのガラの悪い、しかしどこか楽しげな声が聞こえてきた。
『おー、ゼファーさん! 生きてたか! 明日、現場の連中と河原でバーベキューやるんだが、アンタも来ないか? 肉、食い放題だぜ!』
「……ばーべきゅー……?」
ゼファーは、未知の単語を、訝しげに繰り返した。
計算され尽くした室内での「錬金術」とは違う、野外での、原始的な「儀式」。
彼の料理探求者としての魂が、新たな挑戦の予感に、静かに震えるのだった。




