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第68話 聖者の厨房と、魔王の私服

【異世界・マカイ亭】


 マカイ亭の日常は、一夜にして崩壊した。

 店の前には、早朝から黒山の人だかり。彼らはもはや「客」ではなかった。ある者は病の癒やしを求め、ある者は一攫千金を夢見て奇跡の残滓ざんしにあやかろうと、そしてまたある者は、ただ熱狂の渦に浮かされたいだけの野次馬。その誰もが、狂熱の宿った瞳で、店の扉を睨みつけている。


「ひぃぃぃぃ! シェフ! 扉が、扉がミシミシ言ってます! 突破されたら、私たち、聖者のご利益りやくとして食べられちゃいますぅぅ!」

「落ち着けギギ! 誰も俺たちを食ったりしない! ……多分!」


 厨房の奥で、陽人は青い顔で怒鳴り返した。店の扉は、バルガスが内側からその巨体で押さえつけているおかげで、かろうじて原型を保っている。だが、いつまで持つか分からなかった。


 そこへ、オルロフ公爵がもたらした「王宮からの召喚状」という名の、事実上の爆弾投下。陽人の精神は、いよいよ限界を迎えようとしていた。


「……無理だ。終わった……」

 陽人は、厨房の椅子に力なく崩れ落ちた。

「奇跡の肉じゃが……? 王宮の晩餐会……? 俺は、聖者なんかじゃない。ただの料理人だ。嘘つきなんだ……。今にバレて、ギロチン行きだ……」

 その瞳からは、昨日までの自信の光が消え、絶望的な諦観が浮かんでいる。


「シェフ……」

 リリアが、心配そうに陽人の顔を覗き込む。彼女とて、王宮からの召喚という事態に足がすくむ思いだった。だが、ここでリーダーが倒れるわけにはいかない。

「……弱気にならないでください! シェフは嘘つきなんかじゃありません!」

「嘘つきだろ! 魔王様は肉じゃがになんてなってない!」

「そ、そこは嘘ですけど! でも、シェフの料理が騎士団長様を感動させたのは本当です! ボルドア子爵を追い返したのも本当です! それは、奇跡じゃないんですか!?」


 リリアの必死の言葉に、陽人は顔を上げられない。

 その時だった。

 ぬっ、と。

 陽人の肩に、岩のように大きく、そして不器用で温かい手が置かれた。バルガスだった。彼は店の扉を押さえるのをやめ(なぜか群衆は、彼が出てきただけで静かになった)、陽人の隣に、静かに立っていた。


「……シェフ」

 バルガスが、低い声で言った。

「……一人じゃない」

 その、あまりにも短い言葉。

 だが、その一言に、全てが込められていた。


 陽人は、はっと顔を上げた。

 目の前には、泣きそうな顔で、それでも自分を励まそうと拳を握るリリアがいる。

 テーブルの下からは、怯えながらも、心配そうにこちらを見上げるギギの瞳がある。

 そして、隣には、言葉少なに、しかし絶対的な信頼を寄せてくれる、無口な戦友がいる。


(……そうか。俺は……一人じゃないのか)


 じわり、と目の奥が熱くなる。

 プレッシャーも、恐怖も、消えたわけではない。だが、共に背負ってくれる仲間がいる。その事実が、砕け散りそうだった陽人の心を、強くつなぎ止めた。


「……ああ。……そうだな」

 陽人は、乱暴に顔を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。そして、壁に掛けてあった、愛用の包丁を手に取った。ひやりとした柄の感触が、彼の手に馴染む。ここが、自分の戦場だ。


「……分かった。やってやるよ」

 その声は、もう震えていなかった。

「奇跡なんて起こせるか分からない。聖者なんてガラでもない。でも……俺は料理人だ。文句のつけようがねえ、最高の料理を作って、あいつらの度肝を抜いてやる。……それだけは、できる」


 その顔には、悲壮な決意と、プロとしての揺るぎない覚悟が宿っていた。

 陽人は、召喚状を睨みつけると、不敵に笑った。

「王宮晩餐会、上等じゃねえか。俺の厨房キッチンで、後悔させてやる」


【日本・横浜】


 魔王ゼファーは、己の肉体を襲う、未知の感覚に眉をひそめていた。

「……む……。体の節々が、軋む……。これが、オヤカタの言っていた『筋肉痛』という状態か」

 工事現場での労働は、彼の鍛え上げられた肉体にも、確かな負荷を与えていた。だが、その心地よい疲労感は、彼にとって新鮮な感覚でもあった。


 今日は、労働がない休日。

 ゼファーは、昨夜の「愛情の定量実験」の結果について、深く思索していた。

(技術的には劣る焦げた卵が、ギギの心を『ポカポカ』させた。……つまり、料理の価値は、味や見た目といった物理的な要素だけでは測れぬということか)


 彼の探求心は、今や完全に「食」へと向いていた。

 だが、そのためには、まず解決すべき問題があった。


「……この服装では、行動が制限される」

 ゼファーは、自分の身なり――異世界から着てきた、今や少し薄汚れた魔王の正装――を見下ろした。これでは、街を歩くだけで悪目立ちし、彼の「研究」の妨げになる。


「ギギよ。出かけるぞ。我々も、この世界の迷彩服めいさいふくを手に入れる必要がある」

「め、めいさいふく……!? 我々も、あの緑色の……?」

 ギギの頭には、自衛隊の迷彩服が浮かんでいた。


 二人が向かったのは、駅前の、庶民向けの衣料品店だった。

 色とりどりの服が所狭しと並べられ、賑やかなポップミュージックが流れる店内。その情報の洪水に、ゼファーは眩暈を覚える。


「な……なんだ、この空間は……! 布、布、布! あらゆる種類の布が、無秩序に陳列されている……!」

「ひぃぃ! ま、魔王様! あの人形、目が合いま

 す! 魂を吸い取られますぅ!」

 ギギが、マネキン人形に本気で怯えている。


 ゼファーは、王としての威厳を保ちつつ(内心ではかなり動揺しながら)、服の分析を始めた。

「ふむ……このTシャツという名の胸当て……『Enjoy Smile Happy Day』……? いかなる呪文だ?」

「こちらのズボンとかいう脚衣……我の脚には、少し窮屈か……?」


 試着室という名の狭い個室で、ゼファーは、生まれて初めて「ジーンズ」という物体と格闘していた。硬い布地、謎の金属のボタン、そして、最大の難関であるジッパー。


「ぬんっ! ええい、上がらんか! この金属のギザギザめ!」

 個室の中から、ゼファーの呻き声と、何かが引きちぎれるような不吉な音が聞こえてくる。


 数十分後。

 全ての闘いを終えたゼファーが、試着室から姿を現した。

 そこにいたのは、もはや魔王ではなかった。

 白い無地のTシャツ(彼の筋肉で、はち切れそうだ)、色落ちしたジーンズ、そして、なぜかギギが選んだ『横濱』と刺繍された野球帽。

 それは、いささか強面で、体格が良すぎる、ごく普通の「街の人」の姿だった。


「……どうだ、ギギよ」

「……ま、魔王様……! かっこいい、です……! とても、普通です!」

 ギギの最大限の賛辞に、ゼファーは満足げに頷いた。彼は、生まれて初めて「匿名性」という名の自由を手に入れたのだ。


 新しい「私服」を手に入れ、街に溶け込めるようになったゼファーが、次に向かった先。それは、本屋ではなく、より広く、静かな知識の殿堂――市立図書館だった。


 彼は、料理本のコーナーで足を止めると、以前とは違う種類の本を手に取り始めた。

『栄養学入門』『世界の食文化史』『発酵の科学』

 彼はもはや、単なるレシピを求めてはいなかった。料理という行為の背景にある、歴史、科学、そして哲学そのものを、学び取ろうとしていた。


 ゼファーは、図書館の硬い椅子に腰を下ろし、分厚い本を広げた。その真剣な横顔は、もはや魔王でも、労働者でもない。

 未知の真理を探求する、「学者」の顔をしていた。

 失われた魔力の代わりに、彼は今、この世界で最も強力な武器――「知識」を手に入れようとしていた。

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