第66話 聖なる肉じゃがと、王の探求
【異世界・マカイ亭】
マカイ亭の前に、空気が張り詰めていた。
ボルドア子爵が引き連れてきた十数名の王都騎士団。その鎧が立てる、冷たい金属音。噂を聞きつけ、遠巻きに事の成り行きを見守る下町の住民たちの、不安げな囁き。店の前は、さながら公開処刑場の様相を呈していた。
「――魔王陛下が料理研究に没頭されているだと? 片腹痛いわ!」
ボルドア子爵の甲高い声が、緊張を切り裂くように響き渡った。彼は扇子で自身の口元を隠し、ねっとりとした侮蔑の視線を陽人に送る。
「貴様のような素性の知れぬ料理人が、陛下を誑かし、城から連れ出したのであろう! これは国家を揺るがす一大事! 神聖なる騎士団の名において、貴様を拘束する!」
ボルドアの背後で、騎士たちが一歩前に出る。だが、その足取りは重い。彼らの表情は、ボルドアへの忠誠心ではなく、命令と良心の間で引き裂かれる苦悩に満ちていた。
しかし、陽人は動じなかった。
彼の背後では、リリアが不安げに立ち尽くし、バルガスが厨房の入り口で静かな殺気を放っている。だが、陽人自身は、奇妙なほどに落ち着いていた。手にした皿の上で、まだ温かい湯気を立てる「奇跡の肉じゃが」が、絶対的な自信の源となっていた。
「お待ちください、ボルドア子爵」
陽人は、凛とした声で言い放った。
「貴方が仰ることは、全て憶測に過ぎません。そして、陛下への、そしてこの料理への侮辱です」
「な、なんだと……!?」
「これは、陛下が瞑想の中で我々にお示しくださった、叡智の一皿。貴方がそれを毒と疑うのなら……結構。この場で、証明しましょう」
陽人はそう言うと、子爵ではなく、彼が率いる騎士団の長――白銀の兜を被った壮年の騎士団長――に向かって、ゆっくりと一歩進み出た。
「騎士団長殿。貴方ならば、お分かりのはずだ。我らが陛下を貶めるような真似をするはずがないことを。……もしよろしければ、貴方のその舌で、この一皿が『叡智』か『毒』か、お確かめいただきたい」
ざわ、と野次馬たちがどよめく。あまりに大胆不敵な提案。
騎士団長は、しばし沈黙していた。彼の兜の下の表情は窺えない。ボルドアが「団長! そやつの挑発に乗るな!」と焦ったように叫ぶ。
やがて、騎士団長はゆっくりと兜を外し、その歴戦の顔を露わにした。
「……よかろう。私が、毒見役となろう」
その声には、揺るぎない覚悟が宿っていた。彼はボルドアの命令に従ってはいるが、心までは売り渡していない。自らの正義で、ことの真偽を確かめるつもりなのだ。
騎士団長は、陽人から皿を受け取ると、フォークでジャガイモを一つ、静かに口へと運んだ。
周囲の誰もが、息を呑んでその瞬間を見守る。
次の瞬間。
騎士団長の目が、信じられないものを見たかのように、カッと見開かれた。
「こ、これは……っ!?」
彼の口から、驚愕の声が漏れる。
味が、美味い。そんな次元の話ではない。一口食べただけで、連日の警備で蓄積した疲労が、霧が晴れるように消えていく。体の内側から、温かい力が漲ってくるのだ。脳裏には、故郷の家族の笑顔や、若き日に誓った騎士としての誇りが、走馬灯のように駆け巡る。
「……う、おお……」
騎士団長は、言葉を失い、ただ震える手で皿を握りしめていた。その目からは、一筋の涙が流れ落ちている。
「ど、どうしたのだ、団長! やはり毒が……!?」
狼狽するボルドアに、騎士団長はゆっくりと首を横に振った。そして、燃えるような瞳で、子爵を真っ直ぐに睨みつけた。
「……黙れ」
「なっ……」
「これは、毒などではない。……これは……」
騎士団長は、一度言葉を切り、天を仰ぐように深く息を吸った。そして、全ての者に聞こえるよう、朗々と宣言した。
「――これは、聖餐だ! 陛下の慈悲と叡智が込められた、聖なる料理だ! ボルドア子爵! これ以上、この店とこの料理人を侮辱することは、魔王陛下への反逆と見なす! 即刻、剣を収めよ!」
その声は、王都の空に、威厳をもって響き渡った。
ボルドア子爵は「ば、馬鹿な……何を……」と顔面蒼白になり、後ずさる。他の騎士たちも、敬愛する団長の言葉に、迷いを振り払ったようにボルドアから距離を取り始めた。
形勢は、完全に逆転した。
「お、覚えていろ……!」
ボルドアは、それだけを絞り出すと、屈辱に顔を歪ませながら、ほうほうの体で逃げ去っていった。
後に残されたのは、呆然とする野次馬と、そして、静かに頭を下げる騎士団長だった。
「……シェフ殿。……いや、橘殿。……我々の非礼を、許してほしい。そして、この奇跡の一皿に……感謝する」
陽人は、ただ静かに、微笑んで頷いた。
【同時刻・日本・横浜】
魔王ゼファーは、空になった鍋を前に、深遠なる思索の海に沈んでいた。
傍らには、ギギがうっとりとした表情で、食後の余韻に浸っている。
「魔王様……すごいです……。あんなに美味しいものが、この世にあったなんて……」
「……うむ」
ゼファーは、生返事をしながら、自らの手のひらを見つめていた。魔力が、明らかに回復している。肉じゃがが、ただの栄養補給ではない、霊薬としての効果を発揮したのだ。
(なぜだ……? 我が魔力が料理に影響を与えたのは間違いない。だが、どのように? 意識はしていなかった。無意識の魔力操作が、食材の持つ潜在的な生命エネルギーを抽出し、増幅させたというのか……?)
ゼファーは、統治者として、そして学者として、この未知の現象を分析しようと試みていた。もし、この「魔力料理」を意図的に再現できるのなら、それは魔力の使えないこの世界で生き抜くための、そして、いずれ元の世界へ帰還するための、最強の武器となりうる。
「よし、ギギよ! もう一度作るぞ! 再現実験だ!」
「は、はいぃ! 喜んで!」
ゼファーは、再びキッチンに立ち、先ほどと全く同じ手順で、第二の肉じゃが作りを開始した。だが、今度は、鍋に向かって「むんっ!」とか「ぬんっ!」とか、気合を込めて魔力を練り込もうと試みる。
数十分後。完成した第二の肉じゃが。
ゼファーは、期待を込めて、その一口を味わった。
「……………普通の、肉じゃがだ」
美味い。普通に美味い。だが、先ほどの、魂を揺さぶるような奇跡の味は、どこにもなかった。魔力回復の効果も感じられない。
「なぜだ! 再現性がない! これでは安定したエネルギー供給ができぬではないか!」
ゼファーは、まるで予算通りに研究が進まない科学者のように、頭を抱えて呻いた。
「ま、魔王様、元気を出してください! 普通に美味しいですよ! おかわりください!」
ギギの能天気な声が、虚しく響く。
(何が違ったというのだ? 材料か? 火加減か? それとも……)
ゼファーは、傍らに置かれた料理本『誰でも作れる!基本の和食』を、再び手に取った。パラパラとページをめくる。そこに書かれているのは、手順や材料といった、物理的な情報だけだ。
だが、ふと、本の冒頭に書かれた、著者の言葉が目に留まった。
『料理は科学であり、愛情です。大切な誰かの「美味しい」という笑顔を想うこと。それが、最高の隠し味になるのです』
「……あい、じょう……?」
ゼファーは、その言葉を、怪訝そうに呟いた。
魔王である彼が、最も理解しがたい概念の一つ。
(……想い……だと? 馬鹿な。料理の味が、そのような非科学的なもので左右されると……?)
だが、彼は思い出していた。最初の一杯を作った時、彼の頭にあったのは、飢えと、そして、隣で腹を空かせていた、忠実な部下ギギの姿だった。ただ、温かいものを食わせてやりたい。その、ごく単純な想い。
「……まさか、な」
ゼファーは鼻で笑い、その仮説を打ち消した。
だが、彼の探求心は、もはや「魔力」という物理現象だけでなく、「料理」という行為の、さらに奥深い精神世界へと、その一歩を踏み出そうとしていた。
彼の新たな戦いは、コンロの火を前に、今、始まったばかりだった。




