第63話 王の初陣(厨房編)と、料理人の初陣(謀略編)
【日本・横浜】
魔王ゼファーは、己の人生で初めて、これほどまでに一つの金属の箱と真剣に向き合ったことがなかった。
目の前にあるのは、炊飯器。鈍い銀色に輝き、「剛熱羽釜」という、何やらものものしい称号が刻印されている。
「ギギよ。この『剛熱羽釜』と名乗る魔導具……間違いない。陽人のアパートにおける、最重要戦略兵器だ」
「は、はいぃ! きっと、ご飯という聖なる糧を錬成する、古代のアーティファクトなんです!」
ゼファーとギギは、スーパーで買ってきた米袋を前に、炊飯器を遠巻きに囲み、小声で軍事会議を開いていた。彼らにとって、この未知の機械は、昨夜の「水神TOTO」以上に謎めいた存在だった。
「説明書によれば、まずこの銀色の釜を取り出し、『洗米』なる儀式を行うとあるが……」
ゼファーは、陽人が残していった炊飯器の取扱説明書を、古代の魔導書でも解読するかのように睨みつけている。もちろん、書かれている日本語の半分も理解できていない。
「『せんまい』……? きっと、米に宿る不浄なマナを洗い流す、清めの儀式なのでしょう!」
「うむ。理にかなっておる」
二人は、見よう見まねで米を釜に入れ、水を注いだ。米を研ぐ、という文化のない彼らは、ただ釜の中で米をジャブジャブとかき回すだけ。やがて、白く濁った水を捨て(これも説明書のイラストから推測した)、炊飯器に釜を戻す。
「よし……。ギギよ、最後の仕上げだ。この『炊飯』と刻まれた、紅蓮の封印を解き放て」
ゼファーが厳かに命じると、ギギは「わ、私が……!? このような大役……!」と震えながら、炊飯器のスイッチに指を伸ばす。
「い、行きます! 魔王様! 我が忠誠、今ここに!」
ピッ、という軽い電子音と共に、炊飯器は静かに稼働を始めた。予想外に静かな反応に、二人は拍子抜けする。
「……終わった、のか?」
「分かりません……。ですが、魔導具は、沈黙をもって我らの儀式を受け入れたようです……」
炊飯器との死闘(?)を終えた二人は、次にレトルトハンバーグと卵に取り掛かった。こちらは湯で温める、茹でる、という単純な工程だったため、比較的スムーズに準備は進む。とはいえ、ガスコンロの自動点火にギギが「火の精霊がっ!」と叫んでひっくり返るなど、小さな騒動は絶えなかった。
やがて、ピーピー!という甲高い電子音と共に、炊飯器が「炊飯」の儀を終えたことを高らかに告げる。
蓋を開けると、ふわりと立ち上る湯気と、炊き立ての米の甘い香り。
それは、昨夜のカップ麺とも、工事現場で食べたおにぎりとも違う、素朴で、しかし生命力に満ちた香りだった。
食卓(という名のアパートに備え付けの小さな折り畳みテーブル)には、不格好な茹で卵、湯煎しただけの「金のハンバーグ」、そして、炊き立てのご飯が並んだ。
ゼファーは、生まれて初めて、自分で稼いだ金で、自分で準備した食事を前にしていた。
「……食うぞ、ギギ」
「は、はいぃ!」
一口、ご飯を口に運ぶ。少し芯が残っているのは、米を研がなかったせいだろう。
だが、そんなことは些細な問題だった。
米の甘み。ハンバーグの肉々しい旨味。茹で卵の素朴な味わい。
それらが、空腹の体に染み渡っていく。
(……美味い)
ゼファーは、内心でそう呟いた。
魔界で食べてきた、どんなご馳走よりも、どんな珍味よりも、この不格好な食事が、彼の魂を震わせていた。
それは、ただの食事ではない。己の力で「生」を勝ち取った証であり、王という立場を離れた、一個の存在としての「達成感」そのものだった。
「おいしいです……おいしいです、魔王様……!」
隣でギギが、ボロボロと涙を流しながらご飯を頬張っている。恐怖と空腹から解放された安堵と、温かい食事の喜びが、彼の感情のダムを決壊させたのだ。
ゼファーは、そんなギギの頭を、無言で、大きな手で一度だけ、ぽん、と撫でた。
そして、窓の外の、見知らぬ世界の夜景を見つめながら、静かに二杯目のご飯をよそった。
【異世界・マカイ亭】
陽人とリリアが、重い足取りで店に戻ると、バルガスが店の前で腕を組み、仁王立ちで待っていた。その姿は、まるで帰りを待つ忠実な番犬(あまりにも巨大すぎるが)のようだ。
「……どうだった」
バルガスの低い問いに、陽人は大きく、そして深く頷いてみせた。
「……ああ。味方は、確保した」
店の中に入り、陽人はバルガスに事の経緯を説明した。オルロフ公爵が「影魔王作戦」の最大の協力者になったことを。
「す、すごいですよシェフ! あのオルロフ公爵を味方につけるなんて!」
リリアは興奮冷めやらぬ様子で、自分のことのように喜んでいる。
「ああ。だが、これは始まりに過ぎない。公爵は政治の面で時間を稼いでくれる。だが、俺たちの『魔王様は肉じゃが瞑想中』という嘘を、民や兵士に信じ込ませるためには、もっと強力な『証拠』が必要だ」
「証拠、ですか?」
陽人は、厨房に立ち、壁に貼られたメニュー札を睨みつけた。その目には、先ほどまでの不安はなく、料理人としての、そして謀略家としての(?)鋭い光が宿っていた。
「ああ。俺たちにしか作れない、最高の証拠がな」
陽人は、くるりと振り返り、高らかに宣言した。
「これより、『魔王陛下・食の叡智探求メニュー』の開発を開始する!」
「えいち……たんきゅう……?」
「要するに、期間限定の特別メニューだ。『これは、魔王陛下が瞑想の中で考案された、革新的なレシピの試作品である』と銘打って、店で提供するんだ!」
陽人の突拍子もないアイデアに、リリアは最初きょとんとしていたが、すぐにその意図を理解し、ぱあっと顔を輝かせた。
「な、なるほど! 美味しい新メニューが食べられる上に、魔王様が本当にお料理研究をしているっていう、完璧なアリバイ作りになるんですね! 天才です、シェフ!」
「だろ? しかも、期間限定って言えば、客も食いつきやすい。店の売上にも繋がる。一石三鳥だ」
「……して、何を作る」
バルガスが、静かに、しかし核心を突く質問をした。
陽人は、にやりと笑い、店の奥の食材庫から、一つの奇妙な野菜を取り出した。それは、水晶のようにキラキラと輝く、魔界産の玉ねぎだった。
「名前は……そうだな。『魔王陛下御考案・天上の甘露・水晶玉葱の丸ごと煮』。どうだ、それっぽいだろ?」
「か、かっこいいです!」
「……名前が、長い」
かくして、国家の危機を救うための、壮大で、しかしどこか間抜けな新メニュー開発が始まった。
陽人は、厨房という名の新たな戦場で、国の運命を懸けた一皿と向き合う。
その姿は、もはやただの料理人ではなかった。
魔王不在の王国で、ただ一人、お玉を武器に戦う、孤独な救世主のようであった。




