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第62話 王の対価と、公爵の茶

【異世界・王都貴族街】


 沈黙は、永遠に続くかのように感じられた。

 陽人とリリアは、巨大な鉄門の前で、ただ固唾を飲んで立ち尽くす。陽人の手には、先ほどまでの必死なやり取りでかいた汗がじっとりと滲んでいた。


(ダメか……やっぱり、ただの料理人のハッタリじゃ、ここまでか……)


 陽人が諦めかけた、その時だった。

 ギィィ……と重い音を立てて、閉ざされていた門が、内側へとゆっくり開いていく。


「――公爵様が、お会いになります。こちらへ」

 先ほどの門番が、表情を変えぬまま、しかし口調は明らかに丁寧になっていた。

「あ……ありがとうございます!」

 陽人は慌てて頭を下げ、リリアと顔を見合わせる。リリアも、安堵と緊張が入り混じった複雑な表情で、こくりと頷いた。


 屋敷の中は、外観の威厳に違わず、静謐せいひつで、品の良い空気に満ちていた。磨き上げられた床には自分たちの姿が映り込み、壁には歴史を感じさせる絵画がいくつも飾られている。下町の喧騒とはまるで別世界の、息が詰まるような空間だ。


「し、シェフ……絨毯が、ふかふかです……。土足で、いいんでしょうか……」

「俺に聞くな……」


 リリアの小声の囁きに、陽人も小声で返す。長い廊下を抜け、案内されたのは、壁一面が本棚に囲まれた、広々とした書斎だった。中央には、重厚な木の机。そして、その向こうの革張りの椅子に、あの老紳士――オルロフ公爵が、静かに腰かけていた。


「……よく来たな、マカイ亭のシェフ殿。そして、そちらの元気な看板娘殿も」

 公爵は、読んでいた本から顔を上げ、穏やかな笑みを二人に向ける。だが、その眼鏡の奥の瞳は、全てを見透かすように鋭い。


「こ、これは、先日はどうも……。本日は、その、急な訪問、失礼いたします!」

 陽人は、社畜時代に叩き込まれた完璧な角度でお辞儀をした。

「うむ。して、ただの挨拶ではあるまい。その顔には、『国家機密』と書いてあるぞ」

「えっ!?」


 図星を突かれ、陽人の心臓が跳ね上がる。公爵はくつくつと喉を鳴らして笑い、従者に紅茶を運ばせた。


「まあ、座りたまえ。……それで? 君が、我が屋敷の屈強な門番を前に、あの『切り札』を切らねばならなかった理由を聞こうか」

 その言葉は、陽人がハッタリでカードを使ったことなど、全てお見通しだと言っているようだった。


 陽人は意を決した。この人を信じるしかない。

「……公爵様。単刀直入に申し上げます。昨日、我が店で……魔王ゼファー様が、姿を消されました」

 場の空気が、凍りついた。

 リリアが息を呑む音が、やけに大きく響く。


 公爵の笑みが、すっと消えた。彼は紅茶のカップをソーサーに置くと、その鋭い瞳で、真っ直ぐに陽人を見据えた。

「……消えた、とな。それは、穏やかではないな。詳しく話してみよ」


 陽人は、昨日起きた事件の全てを、正直に話した。ボルドア子爵の妨害の可能性、暴走した魔法、そして、自分を庇ったゼファーと、巻き込まれたギギが消えたことを。そして、今、「肉じゃが瞑想中」という、あまりにも苦しい言い訳で時間を稼いでいることも。


 全てを聞き終えた公爵は、しばらく目を閉じて沈黙していた。やがて、ゆっくりと目を開けると、ふぅ、と長い息を吐いた。

「……なるほどな。ボルドアの阿呆が、また余計なことを仕出かしたか。そして君は、途方もない嘘で、国を一つ背負い込んだ、と」

 その声に、責める響きはなかった。むしろ、どこか面白がっているような、それでいて、事の重大さを正確に理解している深みがあった。


「公爵様……! お力を、お貸しいただけないでしょうか! このままでは、本当に戦争に……!」

 陽人が頭を下げると、公爵は静かに首を横に振った。

「頭を上げよ、シェフ殿。君は、知らずして最善の一手を打った。見事な判断だ」

「え……?」

「魔王の失踪は、最悪の事態だ。だが、その混乱を『食』という、最も穏やかで、最もゼファー殿らしい理由で覆い隠した。その機転、気に入ったぞ」


 公爵は、再び紅茶を一口飲むと、にやりと笑った。

「よかろう。このオルロフ、君の『影魔王作戦』に乗ろうではないか」

「ほ、本当ですか!?」

「うむ。ボルドアの妨害工作の証拠も探らねばならんし、何より、君の料理が食えなくなるのは、この国にとって大きな損失だからな」


 その言葉に、陽人は体の力が抜けるのを感じた。最悪の事態は、避けられた。強力すぎる、味方を手に入れたのだ。


【同時刻・日本・横浜】


 魔王ゼファーは、己の手のひらにある、数枚の紙幣と硬貨を、神妙な面持ちで見つめていた。

 これが「日給一万円」。オヤカタに聞いた話では、この紙切れ一枚で、昨夜のカップ麺が三十個以上も買えるらしい。


「……これが、対価か」

 王として、民から税を徴収し、それを再分配することはあった。だが、自らの肉体を動かし、汗を流し、その働きへの「評価」として金銭を得るという経験は、彼の長い人生で初めてだった。

(我が一日分の働きが、この紙切れ数枚……。だが、なぜか……重い)

 その重みは、魔界の金貨にも、宝石にもない、不思議な価値を秘めているように感じられた。


「ま、魔王様……! それが『おかね』……!?」

 そばで見ていたギギが、興奮した声を上げる。彼の小さな頭の中は、今や「おかね=こんびに=たべもの」という、単純かつ絶対的な方程式で満たされている。

「うむ。我々の、血と汗の結晶だ」

「すごいです、魔王様! これで、お腹いっぱい……!」


 ゼファーは、ギギの期待に満ちた瞳を見て、ふっと口元を緩めた。

「……行くぞ、ギギ。今宵は、祝宴だ」


 二人が向かったのは、煌々と明かりが灯る、夜のスーパーマーケットだった。

 自動ドアが開いた瞬間、ギギは「ひぃっ! 魔法の壁が……!」と怯えたが、ゼファーは「案ずるな。昨夜のコンビニで学習済みだ」と、平静を装って中に入る。


 だが、その内部は、コンビニとは比較にならない混沌カオスが広がっていた。

 色とりどりの野菜、おびただしい数の肉や魚、そして、見たこともないパッケージに包まれた無数の加工食品。


「な……なんだ、この物量は……! 我が魔王軍の兵站へいたんですら、これほどの種類と量を一度に揃えることはできぬぞ……!」

 ゼファーは、統治者としての視点で、スーパーの陳列棚を分析し、驚愕していた。

「見ろギギよ、あの肉の部位の多さ。そして、このキノコの種類の豊富さ。陽人の世界の食料供給網は、一体どうなっているのだ……?」

「は、はいぃ……! キラキラしてて、目が回りそうですぅ……!」


 ゼファーは、生まれて初めて「値段」という概念とにらめっこしながら、慎重に食材を選び始めた。

「む……この『金のハンバーグ』とやらは、一個でカップ麺が二つも買えるのか。贅沢品だな……。しかし、『金』の名を冠するからには、それ相応の価値があるはずだ……よし、買おう」

「こ、この『たまご』という球体は……十個も入って、カップ麺一個分よりも安い……だと? 驚異的なコストパフォーマンスだ……これも買うぞ」


 やがて、カゴの中は、米、卵、レトルトのハンバーグ、そして割引シールの貼られた野菜でいっぱいになった。

 レジでは、バーコードを読み取る赤い光にギギが怯え、自動で出てくる釣り銭にゼファーが「……錬金術か?」と真顔で呟くなど、小さな騒動を起こしつつも、二人は無事に初めての買い物を終えた。


 アパートへの帰り道。ゼファーは、ずっしりと重いレジ袋を提げていた。

 それは、彼が王としてではなく、ただの「ゼファーさん」として、初めて自分の力で手に入れた、ささやかな晩餐の材料だった。

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