第60話 公爵への道と、初めての履歴書
一夜が明け、マカイ亭の厨房に差し込む朝日が、昨夜の惨状を容赦なく照らし出していた。ひっくり返ったテーブル、床に刻まれた焦げ跡、そして何よりも、店の中心に漂う重苦しい沈黙。陽人は、ほとんど眠れないまま、その光景を呆然と眺めていた。
(本当に、いなくなっちまったんだ……)
頭では理解している。だが、心がついてこない。いつもなら、今頃はバルガスが力仕事をはじめ、リリアが元気に挨拶に飛び込んでくる時間だ。しかし、今日の静寂は、失われたものの大きさを陽人に突きつけていた。罪悪感が、鉛のように胃に溜まっていく。
「……シェフ」
背後からかけられた声に、陽人はびくりと肩を震わせた。リリアだった。彼女も目の下にうっすらとクマを作っているが、その瞳には不安よりも強い意志の色が宿っている。
「ぼーっとしてる暇はありませんよ。やることは、山積みです」
「……ああ、そうだな」
「バルガスさんは、外の見張りを続けてくれてます。まずは、このお店を片付けないと。それに……」
リリアは言い淀み、ちらりと陽人の顔を窺った。
「……『影の精鋭部隊』、最初の任務を決めないと、ですよね?」
「……やめてくれ、その名前は。心が削れる」
陽人は力なくツッコミを入れつつも、リリアの気丈さに救われる思いだった。そうだ、感傷に浸っている場合じゃない。
「……分かってる。まずは、味方が必要だ。この状況を打ち明けられて、力を貸してくれる…… powerful and influential な味方が」
「ぱわふる……?」
「……強くて、偉い人ってことだ」
陽人の脳裏に、あの穏やかで、しかし全てを見透かすような老紳士の顔が浮かんだ。オルロフ公爵。彼が残していった、あの紋章カード。
「リリア、公爵様の屋敷の場所、分かるか?」
「はい! 王都の貴族街の一角です。でも、私たちみたいな者が、何の紹介もなく訪ねていっても、門前払いなのは確実です……」
「紹介状なら、ある」
陽人は懐から、公爵家の紋章が刻まれたカードを取り出した。それが、この絶望的な状況における、唯一の希望の光だった。
「俺とリリアで行く。バルガスは店の守りだ。もし俺たちが帰ってこなかったら……」
「縁起でもないこと言わないでください!」
リリアにぴしゃりと叱られ、陽人は少しだけ笑みを浮かべた。そうだ、弱気になってどうする。
陽人とリリアは、下町の住人に扮するため、少し着古した服に着替えた。陽人はカードを懐にしまい、リリアは市場への買い出しを装って空の籠を手に取る。二人の間には、言葉はなくとも「これから危険な任務に赴く」という、悲壮な覚悟が漂っていた。
(まるでスパイ映画だな……。俺、ただの料理人なんだが……)
陽人の心境は、複雑骨折していた。
【同時刻・日本・横浜】
魔王ゼファーは、己のプライドと、残酷なまでに正直な腹の虫との間で、激しい内戦を繰り広げていた。
昨夜のカップ麺による一時的な勝利は、朝の空腹の前にはあまりに無力だった。
「ぐぅぅぅ……きゅるる……」
「ま、魔王様……! お腹の魔獣が、昨夜より、凶暴に……!」
「黙れギギ! これは……瞑想の邪魔をする、精神的な攻撃だ!」
ゼファーは、四畳半の真ん中で胡坐をかき、必死に威厳を保とうと試みる。だが、その額には脂汗が滲み、顔色は明らかに悪い。王として、支配者として生きてきた彼にとって、「自分の意思でコントロールできない飢え」は、魔力の喪失以上に、自らの存在を揺るがす屈辱だった。
(陽人の世界は、平和だと聞いた。だが、違う。ここには、腹が減るという、最も根源的な恐怖が存在する……!)
ゼファーが真剣な顔で壮大な勘違いをしていると、彼の視界の隅で、ギギが何やら紙の束を拾い上げ、震える指で広げていた。それは、アパートのポストに溜まっていた、求人情報誌だった。
「ま、魔王様……こ、ここに、たくさんの『しょくぎょう』が……。これをすれば、『おかね』が手に入り、あの……『こんびに』の食べ物が……?」
ギギは文字が読めない。だが、写真やイラストから、それが仕事と金、そして食べ物に繋がるものであることを、本能で理解していた。
「……職業だと?」
ゼファーは眉をひそめた。王が、民草と同じ「労働」に身をやつすなど、ありえない。断じて。
しかし、彼の腹は**「ぐぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」**と、ありえないほどの大音量で、その高貴な思考に反論した。
「……………」
ゼファーは長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。
「……ギギよ。これは労働ではない。陽人の世界の経済構造と、労働対価のシステムを調査する、『現地視察』だ。よいな?」
「は、はいぃぃっ!」
かくして、魔王ゼファーの、生まれて初めての就職活動が始まった。
しかし、その道はあまりにも険しかった。
まず、服装が問題だった。威厳あふれる魔王の正装は、現代日本では単なる「痛いコスプレイヤー」でしかない。喫茶店のアルバEイトの面接では、店長に「あのー、イベント帰りですか? うち、そういうコンセプトじゃないんで……」と丁重に(しかし冷ややかに)断られた。
次に、履歴書が書けない。
ギギがどこかから拾ってきた履歴書の用紙を前に、ゼファーはペンを握りしめたまま固まった。
「……学歴……? 我に師はおらぬ。万物は我に学ぶのだ」
「……職歴……? 魔界統一、北の蛮族平定、混沌竜の討伐……」
「……資格……? 全属性魔法、魔王剣術免許皆伝……」
「……志望動機……? 飢えを凌ぐため……」
これでは、ただの誇大妄想狂だ。
数時間後、公園のベンチで、ゼファーとギギはうなだれていた。手元の求人誌は、赤ペンで×印だらけになっている。
「くっ……この世界は、我を認めぬというのか……!」
ゼファーが悔しさに拳を握りしめた、その時だった。
「おーい、あんちゃんら! 仕事探してんのか?」
声をかけてきたのは、ヘルメットをかぶった、ガタイの良い作業着姿の男だった。近くの工事現場の現場監督らしい。
「見ての通りだ」ゼファーは、ふてぶてしく答える。
監督は、ゼファーの規格外の体格を上から下まで嘗めるように見ると、にやりと笑った。
「そのガタイ、いいな! コスプレか何か知らねえが、力はありそうだ。ちょうど資材運びの人手が足りなくてよ。日給で一万出す。どうだ?」
「……いちまん?」
それがどれ程の価値か分からないゼファーだったが、監督がポケットから取り出した、福沢諭吉の肖像が印刷された紙を見て、ゴクリと喉を鳴らした。この紙があれば、あのカップ麺が……何個も買える。
「……よかろう。その『してぃー』、我に任せよ」
「『してい』じゃなくて『しざい』な! ま、いいや! ヘルメットと安全ベスト、これ着てこい! 名前は?」
「……ゼファーだ」
「ぜふぁー? 変わった名前だな! よし、ゼファーさん、今日から頼むぜ!」
こうして、魔王ゼファーは、生まれて初めて「さん」付けで呼ばれ、人生初のヘルメットと安全ベストを手に取った。
その、あまりにも似合わない姿に、背後でギギが「ま、魔王様が……緑色に……」と、感動しているのか怯えているのか分からない声で、小さく呟いていた。




