第59話 魔王、カップ麺に泣く
騎士たちが去った瞬間、マカイ亭の張り詰めた空気は、まるで風船が割れるように弾けた。
「…………ぷはーっ!」
完璧な営業スマイルを固めていたリリアが、その場にへたり込む。
「だ、騙し通せました……! 『食の悟り』って! 私、自分でも何を言ってるのか分かりませんでした!」
「俺もだ……」
陽人はカウンターに体重を預け、ずるずると床に座り込んだ。全身から力が抜け、どっと疲労が押し寄せる。頭の中では、先ほどの自分の言葉がリフレインしていた。
(昆布と鰹節が織りなす旨味の宇宙……だと? 俺の頭も宇宙に行っちまったのか……)
最悪の言い訳だった。いや、一周回って最高の言い訳だったのかもしれない。だが、その代償はあまりにも大きい。魔王の失踪を隠蔽し、あまつさえ「肉じゃが瞑想中」などという前代未聞の嘘をついてしまった。これはもう、ただのレストラン経営ではない。国家転覆罪レベルの、壮大な粉飾決算だ。
「シェフ……これから、どうするんですか?」
リリアが不安げな瞳で陽人を見上げる。彼女は気丈に振る舞ってはいるが、その声は微かに震えていた。世界の命運(と、自分のお給金)が懸かっているのだから当然だ。
「……どうするって……続けるしかないだろ、この嘘を」
陽人の声は、自分でも驚くほど乾いていた。罪悪感とプレッシャーで、喉がカラカラだった。
(俺のせいで、魔王様が……。あの人は、俺を庇って……)
陽人の脳裏に、自分を突き飛ばしたゼファーの鬼気迫る表情が焼き付いている。王としてではなく、ただ一人の人間(?)として、陽人を守ろうとしてくれた。その信頼を、自分は今、肉じゃがと出汁の宇宙で汚している。
「……大丈夫だ」
静寂を破ったのは、これまで黙って後片付けをしていたバルガスだった。彼は、割れた皿の破片を無言で片付けながら、低い声で続ける。
「……シェフの嘘は、最善だった。時間稼げる。王、戻るまで」
「バルガス……」
「俺、見張る。店の周り」
それだけ言うと、バルガスは巨大なモップを槍のように携え、店の裏口へと向かった。その寡黙な背中には、絶対的な忠誠心と信頼が滲んでいた。彼は、陽人の無茶な作戦を、疑うことなく受け入れたのだ。
「……そう、ですよね! 私たちで、魔王様のお留守を守らないと!」
バルガスの行動に勇気づけられたのか、リリアもぱっと顔を上げる。
「シェフ! この作戦に名前をつけましょう! その方が、こう、チームって感じがします!」
「名前……?」
「はい! 『魔王様は食の探求でお籠り中! 我らはその聖域を守る影の精鋭部隊!』作戦です!」
「長い! あと、聖域とか精鋭部隊とか、どこから出てきたんだ!」
陽人は思わずツッコミを入れたが、リリアの底抜けの明るさに、少しだけ心が軽くなるのを感じた。そうだ、一人じゃない。この最高の(そして少しズレている)仲間たちがいる。
「……分かった。やろう。魔王様が帰ってくるまで……俺たちで、この国を守る」
陽人は床に落ちていたお玉を拾い、固く握りしめた。その目は、もはやただの料理人ではなかった。やむにやまれぬ事情で国を背負ってしまった、悲壮な決意に満ちていた。
【同時刻・日本・横浜】
轟音を立てていた「水神TOTO」は、やがて静寂を取り戻した。
「……ふん。我の王気を前に、沈黙したか」
ゼファーは、戦闘態勢を解かぬまま、尊大に言い放った。彼の王としての尊厳は、トイレの圧倒的な水流パワーによって、かろうじて守られたのだ。
(……しかし、今の衝撃……魔力が万全であったなら、指先一つで霧散させられたものを……)
表面上は平静を装いつつも、ゼファーの内心は嵐が吹き荒れていた。魔力の枯渇。未知の環境。そして何より、腹の底から湧き上がってくる、屈辱的な感覚。
ぐぅぅぅぅぅ〜〜〜〜……。
静まり返った四畳半に、長く、そして情けない音が響き渡った。音の発生源は、魔王ゼファー、その人である。
「なっ……!?」
ゼファーの顔が、生まれて初めて真紅に染まった。王として生まれ、飢えとは無縁の人生を送ってきた。空腹とは、自らが望む美食を、より美味しく味わうためのスパイスでしかなかった。だが、今、彼の体を支配しているのは、選択の余地のない、生物としての根源的な欲求――生存のための「飢え」だった。
「ま、魔王様……! お、お腹の虫が……魔獣となって……!?」
背後で震えていたギギが、怯えた声を上げる。
「黙れギギ! これは……これは戦略的撤退の合図だ!」
ゼファーは、人生で最も苦しい言い訳を捻り出した。
(屈辱だ……! この我がお腹の虫一つ、制御できぬとは……!)
プライドがズタズタになりながらも、本能には抗えない。ゼファーは、この未知の巣窟に、何か食料がないか、王の威厳をかなぐり捨てて探し始めた。しかし、棚の中は空。冷蔵庫らしき箱の中には、干からびた野菜の切れ端と、謎の茶色い液体が入った瓶(醤油)があるだけだった。
「ぐぅぅ……」
再び、腹の虫が鳴く。もはやこれまでか、とゼファーが膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。
「あ! ま、魔王様! こ、これ……!」
ギギが、棚の奥から、一つの色鮮やかな箱を見つけ出した。そこには、陽人の世界の文字で『濃厚味噌』と書かれている。それは、陽人が日本に帰省した際に、異世界に持って帰ろうとして忘れていった、一個のカップ麺だった。
「なんだ、これは? 乾いた……植物の塊か?」
ゼファーは訝しげにカップ麺のブロックを見つめる。ギギが箱の絵を指差し、「こ、ここに、お湯という液体を注ぐと……このように、なる、と……?」と、か細い声で説明する。
半信半疑のまま、ゼファーたちは部屋にあった魔法瓶(幸い、お湯が残っていた)から、カップ麺に湯を注いだ。蓋をして待つこと三分。それは、魔王にとって永遠よりも長い時間に感じられた。
やがて、蓋をめくると、むわりと湯気と共に、濃厚な味噌と香辛料の匂いが立ち上った。
魔界の高級食材とは似ても似つかない、人工的で、しかし暴力的とも言えるほど食欲をそそる香り。
「……ふん。悪くない香りだ」
ゼファーは尊厳を取り繕いながら、備え付けのプラスチックのフォークを手に取った。そして、縮れた麺を一口、すする。
「…………っ!」
ゼファーの目が、大きく見開かれた。
美味い、とか、不味い、とか、そういう次元の話ではない。
塩辛く、脂っこく、化学的な旨味が凝縮された、暴力的な味の塊。だが、その味が、飢え切った体に、そして枯渇した心に、染み渡っていく。熱いスープが、冷えた内臓を温めていく。
夢中で麺をすすり、スープを飲み干した。額には汗が滲んでいる。
ゼ"ファーは、空になったカップを、ただ呆然と見つめていた。
(なんだ……これは……。我が知る、どの料理とも違う。だが……この満たされる感覚は……)
それは、陽人の作る、心のこもった温かい料理とは全く違う。大量生産され、誰でも手に入れられる、安価な即席の食事。
だが、その一食が、今、力も魔力も失った自分を、確かに「生かして」くれた。
「魔王様……?」
心配そうにギギが覗き込む。
ゼファーは、何も答えなかった。ただ、窓の外に広がる、無数の光が灯る夜景――横浜の街並み――を見つめていた。
「……ギギよ」
「は、はいぃ!」
「我々は……ここで、生きねばならんらしい」
その声には、先ほどまでの絶望ではなく、かすかな、しかし確かな覚悟が宿っていた。
空のカップ麺を片手に、魔王の異世界サバイバルが、今、静かに始まろうとしていた。




