第58話 史上最悪の言い訳
阿鼻叫喚――まさにその四文字が、今の「マカイ亭」にはふさわしかった。
「で、出たー! 魔法だ!」「魔族が暴れたんだ!」「金は払わんぞ! 命あっての物種だ!」
客たちは我先にと出口に殺到し、倒れた椅子やひっくり返った皿が惨状に拍車をかける。その喧騒の真ん中で、陽人は床の焦げ跡を見つめたまま、完全に魂が抜けていた。
(終わった……店も、俺の人生も、多分この世界も終わった……。ああ、日本の俺の部屋の天井のシミ、懐かしいな……)
現実逃避を始めた陽人の肩を、誰かがガクンガクンと激しく揺さぶった。
「シェフ! しっかりしてください、シェフ! 今、魂が半分くらい口から出てましたよ!」
「……リリアか……もうダメだ……俺は明日から、あの焦げ跡を眺めて余生を過ごす……」
「ダメです! 破産します! それに、それどころじゃありません! 魔王様が! ギギが! ポンッて! ポンッて消えちゃったんですよ!?」
リリアは半泣きになりながら、しかし驚異的な早口でまくし立てる。看板娘の気丈さも、国家存亡(?)の危機の前では限界らしい。
「ど、どうするんですか!? 魔王様が失踪したなんて知れたら、絶対に戦争になります! そしたら私のお給金も……じゃなくて、世界の平和が!」
「……」
黙って聞いていたバルガスが、店の入り口に仁王立ちになり、殺到する客の波をその巨体で物理的に堰き止めた。そして、地の底から響くような低い声で一言。
「全員、落ち着け。騒ぐな」
その圧倒的な威圧感に、客たちの悲鳴がピタリと止まる。バルガスは無言で出口を指差した。客たちはまるで、猛獣の檻から恐る恐る逃げ出す小動物のように、静かに、しかし素早く店から去っていった。
「……ナイスだ、バルガス」
陽人は、かろうじて意識を現実へと引き戻す。そうだ、絶望している暇はない。元・社畜として培った危機管理能力(主に上司への言い訳)を、今こそ発揮する時だ。
「よし……いいか、二人とも落ち着いて聞け。まず、魔王様は死んだわけじゃない。多分」
「た、多分!?」
「あれは空間転移系の魔法だ。どこかに飛ばされただけのはずだ。だから、最悪の事態は……まだ起きてないと思いたい。いいね?」
陽人は自分に言い聞かせるように言う。リリアは不安げに頷き、バルガスは「……ウス」とだけ応じた。
「問題は、どうやってこの事態を隠し通すかだ。魔王様が戻ってくるまで……それが明日か百年後かは分からんが……とにかく時間を稼ぐ!」
「ど、どうやってですか!? あの魔王様が、理由もなく姿を消せるわけ……」
そこで陽人の目に、厨房の隅に積まれた異世界のスパイスの山が映った。彼の脳内に、かつて徹夜で考え出した言い訳の数々が稲妻のように駆け巡る。
「……よし、これだ」
陽人は、すっと真顔になった。
「リリア。バルガス。よく聞け。魔王ゼファー様は、俺の料理に深く感銘を受け、食の真理を探求するため――『究極の肉じゃが』を完成させるため、厨房の奥にある特別室に籠られた。いいね?」
「…………は?」
リリアの口が、あんぐりと開いた。
「に、肉じゃが……ですか?」
「そうだ。魔王様は今、醤油とみりんの黄金比について瞑想されている。俗世との関わりを一切断ってな。故に、誰であろうと面会は不可能だ。これが、俺たちの公式見解だ」
あまりに突拍子もない言い訳に、リリアは眩暈がしたのか頭を押さえた。
「そ、そんな無茶苦茶な……! 誰が信じるんですか!」
「信じさせるんだよ! 魔王様が食いしん坊なのは周知の事実だ! これ以上ないくらい、それっぽい理由じゃないか!」
「そ、そうですけど……!」
その時だった。店の扉が荒々しく開け放たれ、武装した王都の騎士たちが数名、雪崩れ込んできた。
「何事だ! この店から強大な魔力の暴発を感知した! 魔王ゼファー殿はご無事か!?」
隊長らしき騎士が、剣の柄に手をかけながら鋭く問う。
(終わった……! 開始5分で詰んだ!)
陽人の背筋を、滝のような冷や汗が流れる。
しかし、その隣でリリアが、すっと一歩前に出た。そして、これ以上ない完璧な営業スマイルを浮かべて、騎士に深々と頭を下げた。
「まあ、騎士様! ご心配には及びませんわ! ゼファー様はご健在でいらっしゃいます!」
「な、ならばなぜお姿が……」
「それが……」リリアは声を潜め、もったいぶるように続けた。「我が店のシェフの『出汁』の奥深さにいたく感動なされ、ただいま厨房の奥で『食の悟り』を開くべく、瞑想に入っておられるのです!」
「……だし?」
騎士は、眉間に深いシワを寄せた。
陽人も必死に話を合わせる。
「そ、そうです! 昆布と鰹節が織りなす旨味の宇宙……その深淵に触れ、魔王様は今、新たな世界の扉を開こうと……」
「……」
騎士は、陽人とリリアの顔を交互に見比べた。その目は「こいつらは何を言っているんだ」と雄弁に語っている。
だが、その時。
「……邪魔、するな」
店の奥、厨房へと続く通路を、バルガスがその巨体で完全に塞いでいた。ただ腕を組んで立っているだけだが、その威圧感は「ここから先は死あるのみ」と告げているようだった。
騎士はゴクリと喉を鳴らし、バルガスの岩のような体躯と、陽人たちの必死すぎる(そしてどこか狂気を帯びた)表情を見比べ、やがて、ゆっくりと剣の柄から手を離した。
「……そ、そうか。……ならば、仕方あるまい。瞑想の邪魔をするわけにはいかんな。……我々は周辺の警備に戻る。何かあれば、すぐに報せろ」
そう言い残し、騎士たちはどこか納得のいかない顔で、しかし足早に店を去っていった。
後に残された三人は、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「い、行きました……?」
「……ああ……なんとかなった……のか?」
「……腹が、減った」
三者三様の呟きが、静まり返った店内に虚しく響いた。
【同時刻・日本・横浜】
「……ん……」
魔王ゼファーは、重い頭を抱えながら、ゆっくりと目を開けた。
視界に広がるのは、見慣れない木目調の天井。鼻をつくのは、微かなカビと埃の匂い。そして、体の下にあるのは、岩のように硬い……いや、それ以上に薄っぺらく、冷たい感触の床だった。
「……ここは、どこだ?」
魔力を失い、全身が鉛のように重い。隣では、ギギが「ふえぇぇん……」と情けない声を上げて気絶している。
ゼファーは、痛む体を叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。
部屋は狭い。窓の外には、見たこともない灰色の建物が密集している。
そして、彼の目に、部屋の隅に鎮座する、白く輝く陶器の物体が映った。
それは、優美な曲線を描き、水面を湛えた、一種の玉座のようにも見えた。
(……祭壇か? あるいは、聖なる泉か?)
魔王として、未知の物体を看過はできない。ゼファーは威厳を取り戻し、その白い玉座――日本の一般家庭によくある水洗トイレ――に、ゆっくりと近づいた。
「何者だ。この我を前にして、名乗らぬか」
返事はない。
ゼファーは眉をひそめ、玉座の横についている、奇妙な銀色のレバーに手をかけた。そして、力を込めて、それを押し下げた。
次の瞬間。
ゴオオオオオオオオオッッ!!
玉座は、凄まじい轟音と共に、内部の水を渦へと変え、すべてを飲み込み始めた。
「なっ……!?」
その圧倒的な光景に、さすがの魔王も目を見開く。背後では、音に驚いて飛び起きたギギが、声にならない悲鳴を上げた。
「敵襲かっ! 水を操る魔物か! ギギ、下がっておれ!」
ゼファーは、ファイティングポーズを取り、便器に向かって鋭く言い放った。
「面白い! 我が魔力を封じられたこの状況で、相手にとって不足なし! かかってこい、水神TOTOよ!」
魔王ゼファーの、現代日本における最初の戦いが、今、火蓋を切って落とされた。




