第53話 甘くない現実
リュミエール・キッチンの輝くガラス扉の向こうに、一条輝の自信に満ちた背中が消えていく。後に残されたマカイ亭一行の間には、なんとも言えない重苦しい空気が漂っていた。
「なっ……! なんなんですか、あの人っ! 感じ悪いにも程があります! キザで! ナルシストで! しかもシェフのこと馬鹿にして!」
最初に沈黙を破ったのは、やはりリリアだった。彼女は頬をぷっくりと膨らませ、拳を握りしめて憤慨している。その剣幕は、まるで自分のことのように怒っているかのようだ。
「こ、怖かったですぅ……。目が、目がキラキラしてて……なんだか、こう、全部見透かされてるみたいで……。あと、いい匂いがしました……」
カウンターの陰から顔を出したギギは、まだ小刻みに震えている。最後の感想はよく分からないが、とにかく一条のオーラに完全に気圧されてしまったらしい。
バルガスは、相変わらず無言だった。だが、普段は感情の読めないその緑色の顔に、今は明らかに不快感と、そして静かな闘志のようなものが浮かんでいるように見えた。彼がこれほど感情を表に出す(ように見える)のは珍しい。
陽人は、握りしめた拳が白くなるのを感じていた。悔しい。腹立たしい。そして、心のどこかで、一条の言葉が棘のように刺さっているのも事実だった。
「……ああ、ムカつく野郎だ。間違いなくな」
陽人は吐き捨てるように言った。
「だが……あいつの言うことにも、一理あるのかもしれん。俺たちの店は、あいつの店に比べたら、地味で、古臭いのかもしれない……」
「そ、そんなことないです!」
リリアが、今度は陽人を励ますように声を張り上げた。
「マカイ亭には、マカイ亭の良さがあります! シェフの料理は美味しいし、温かいし! バルガスさんは力持ちだし、ギギだってお掃除上手だし! 私だって……私だって、一生懸命やってます!」
最後は少し涙声になっている。
その真っ直ぐな言葉に、陽人はハッとした。そうだ。自分には、この仲間たちがいる。店の見た目や派手さでは負けるかもしれないが、ここには確かに「心」がある。
「……ああ、そうだな。ありがとう、リリア」
陽人は、少し照れたように頭を掻いた。そして、スタッフたちを見渡し、決意を込めて言った。
「……よし、決めた。あいつのキラキラした土俵で勝負する必要はない。俺たちは、俺たちのやり方で、このマカイ亭の味で勝負するぞ!」
「はいっ!」「は、はいぃ!」「……(力強く頷く)」
三者三様の返事が、小さな店に響いた。重苦しい空気は消え、代わりに、逆境に立ち向かうための、静かな闘志が満ち始めていた。
しかし、現実は甘くなかった。
数日後、リュミエール・キッチンの華々しい評判は瞬く間に下町にも広がり、マカイ亭の客足は目に見えて減り始めたのだ。特に、新しいもの好きの若い客層や、少し裕福な客は、こぞってリュミエールに流れてしまったようだった。
「よう、シェフ。大丈夫か?」
常連の労働者の一人が、昼食を食べ終えた後、心配そうに声をかけてきた。
「あの新しい店、うちの若い衆も行ってきたらしいが、なんかすげえらしいな。料理が光ったり、煙が出たりするんだって?」
「はは……まあ、うちは光ったりはしませんけどね」
陽人は力なく笑うしかない。
気になって、陽人は何度かリュミエール・キッチンの様子を遠巻きに偵察した。ガラス張りの店内は、常に多くの客で賑わっている。そして、オープンキッチンの中心では、一条輝がまるでスターのように、派手なアクションで調理を行っていた。
フライパンから高い炎を上げ、液体窒素(のような魔道具?)で煙を立て、完成した料理には金箔を振りかける。客たちは歓声を上げ、スマホ(のような魔道具?)で写真を撮っている。
(……確かに、すごいな。エンターテイメントとしては、完敗だ)
陽人は認めざるを得なかった。だが同時に、どこか違和感も覚える。一条の動きは完璧だが、どこか機械的で、料理そのものよりも自分を見せることに集中しているように見える。客も、料理の味よりも、その場の雰囲気やパフォーマンスを楽しんでいるようだ。
(……でも、あれが今の流行りなのか? 俺の料理は、やっぱり古いのか……?)
一瞬、弱気が顔を出す。
「シェフ! 落ち込んでる暇はありませんよ!」
店に戻ると、リリアが手作りの新しいPOPを壁に貼っていた。「店長おすすめ! 心も体もポカポカ♪ 魔界風ボルシチ」と、可愛らしいイラスト付きで書かれている。
「これ、私が作ってみました! 少しでもお客さんの目に留まればって!」
「ぼ、僕も……新しいメニューの試食なら、いつでも……」
ギギも、小さな声で申し出る。バルガスは、黙って店の前の掃除をいつもより念入りにしていた。
(……そうだった。俺は一人じゃない)
陽人は、仲間たちの存在に改めて気づかされ、奮起した。
「よし! 新メニュー、作るぞ! あいつがやらないような、マカイ亭ならではの料理だ!」
陽人は厨房に籠もり、試行錯誤を始めた。魔界の家庭料理のレシピを引っ張り出し、バルガスにオークの伝統料理について詳しく聞き(相変わらず返事は最小限だったが)、ギギの故郷のゴブリン集落で食べられているという、意外と滋味深い乾燥キノコや保存食の知恵を参考にした。
リリアもホールの飾り付けを工夫したり、常連客との会話を増やして店の温かい雰囲気作りに努めた。ギギは、陽人が作る試作品の味見係として、その繊細な味覚を発揮。「こ、これは、少し塩味が強いかもです……」「このハーブは、もっと後から入れたほうが香りが……」と、的確な(しかし相変わらず小声で遠慮がちな)アドバイスを送る。バルガスは、力仕事に加え、最近では市場での情報収集(?)や、店の周りの見回り(用心棒?)まで、黙ってこなしてくれるようになった。
そんなある日、陽人が市場へ特別なキノコの仕入れに行くと、案の定、そこには一条輝の姿があった。目当ては同じ、マギルの店先に並んだばかりの、希少な「闇ホタル茸」だった。闇夜にぼんやりと光るという、魔界産の珍しいキノコだ。
「おっと、それは僕が来る前から予約しておいた極上品だ」
陽人が手を伸ばそうとした瞬間、一条が横からすっとキノコを取り上げた。
「君のような店の、地味な料理にはもったいない代物だよ」
「なんだと!? 俺が先に見つけたんだぞ!」
「早い者勝ちさ。それに、このキノコの真価を引き出せるのは、僕のような一流のシェフだけだ」
二人は、闇ホタル茸を間に挟んで、バチバチと火花を散らす。
「はいはい、喧嘩しないの!」
見かねたマギルおばちゃんが、二人の間に割って入った。
「もう、若いんだから元気があっていいけどさ! そんなに欲しいなら、仲良く半分こにしな! 勝負は料理でしなさいってんだ!」
結局、マギルの鶴の一声で、陽人と一条は不承不承ながらキノコを分け合うことになった。
地道な努力は、少しずつ実を結び始めていた。
陽人が考案した新メニュー、「心まで温まる じっくり煮込みボルシチ 魔界風」は、「野菜の甘みと肉の旨味がすごい!」「身体の芯から温まる」「なんだか懐かしい味がする」と、特に年配の客や女性客に大好評を得た。
一度はリュミエール・キッチンに流れた客の中からも、「あっちもすごかったけど、やっぱり俺はこっちの味が落ち着くな」「毎日食べるなら、マカイ亭だな」と言って、戻ってくる者が出始めた。リリアの明るい笑顔と心のこもった接客、ギギの(小さな声ながら)一生懸命な「ありがとうございます」も、店の温かい雰囲気を作り出し、客の心を掴んでいた。
そんなある日、街の広場の掲示板に、大きなポスターが貼り出された。
「王都収穫感謝祭・開催! 目玉企画・第一回 屋台料理コンテスト!」
それを見た瞬間、陽人は「これだ!」と目を輝かせた。マカイ亭の料理の真価を、王都中の人々に知ってもらう絶好の機会だ。
同じ頃、リュミエール・キッチンで紅茶を飲んでいた一条輝も、部下からそのポスターの報告を受けていた。彼はカップを置き、窓の外を見やりながら、不敵な笑みを浮かべる。
「フン、屋台料理コンテスト、か。僕の華麗なる料理アートを披露するには、ちょうどいい舞台じゃないか。観客を熱狂させてやろう」
そして、アルネリオンの一角にある、古びた貴族の館では――。
執事が、主であるボルドア子爵に報告していた。
「子爵様、例のマカイ亭、そしてあの成り上がりの料理人(一条輝)も、収穫感謝祭のコンテストに参加するようです。……これは、両者をまとめて潰す、またとない好機かと存じます」
ボルドア子爵は、薄暗い書斎で、チェスの駒を動かしながら、陰湿な笑みを浮かべていた……。
それぞれの思惑が交錯する中、王都収穫感謝祭と料理コンテストの幕が、上がろうとしていた。




