第51話 売られた喧嘩
『お前の作る料理は、我らが目指す和平の、重要な鍵なのだからな!』
魔王ゼファーの言葉が、陽人の頭の中で反響する。和平の鍵。その言葉の重みに一瞬たじろいだが、次の瞬間、陽人の胸には奇妙な高揚感が込み上げてきた。
(そうか……俺の料理が、鍵、か。なら、やるしかねえよな!)
ただ流されて異世界に来て、魔王軍のシェフになり、今また人間界で店を開いている。自分の意思とは違うところで、大きな流れに翻弄されていると思っていた。だが、魔王は見ていてくれた。そして、自分の料理に、この世界を変えるかもしれないほどの価値を見出してくれている。
(上等じゃねえか!)
陽人の目に、料理人としての、そしてこの異世界で生きる一人の男としての、強い光が宿った。腰の痛みも、公爵の謎も、隣の貴族の嫌がらせも、今は些細なことに思える。今の自分にできる最高の料理を、ただひたすらに作る。それが、きっと「鍵」としての自分の役割なのだ。
厨房に戻った陽人の動きは、明らかにそれまでと違っていた。迷いが消え、活力がみなぎっている。次々と入る注文を驚くべきスピードで捌きながらも、その表情はどこか楽しげだ。鼻歌交じりにフライパンを振り、時には新しい魔界スパイスの組み合わせを即興で試してみたり、盛り付けに遊び心を加えてみたりする。
その変化は、スタッフたちにも伝わったようだ。リリアは陽人の勢いに引っ張られるように、さらに明るく、テキパキとホールを動き回る。ギギも、まだおどおどしてはいるものの、以前より明らかに落ち着いており、客からの簡単な質問にも小さな声で答えられるようになっていた。連携ミスでリリアが熱い皿を落としそうになった瞬間、いつの間にか背後にいたバルガスが、巨大な手でそれをふわりと受け止める、なんていうファインプレーも飛び出す。マカイ亭のチームワーク(?)は、確実に向上していた。
店の評判は、口コミとオルロフ公爵の訪問の噂によって、さらに広がりを見せていた。昨日までの労働者や冒険者に加え、今日は身なりの良い商人風の男や、好奇心とほんの少しの警戒心を滲ませた裕福そうなマダムまでが来店し、小さな店内は多様な客層で賑わっている。
だが、そんな店の活気に水を差すように、事件は起こった。
午後の日差しが少し傾き始めた頃、店の入り口付近がにわかに騒がしくなったのだ。見ると、柄の悪そうな、チンピラ風の男たちが三人、店の前に陣取り、中を覗き込んではニヤニヤと下卑た笑いを浮かべている。そして、店に入ろうとする客に絡み始めた。
「おいおい、あんたら、こんな魔族の店なんかに入って大丈夫かぁ?」
「ここの料理食ったら、呪われて夜中にうなされるって噂だぜ?」
「ゲテモノしかねえって話じゃねえか! やめとけ、やめとけ!」
大声で店の悪口を叫び、入店しようとする客の肩を押したりして、明らかに営業を妨害している。昨日までの地味な嫌がらせとは違う、直接的な行動だ。
「てめえら、何しやがる!」
陽人は、愛用のフライパン(一番頑丈なやつだ)を手に、怒りに燃えて厨房から飛び出した。料理人としての誇りを、そしてささやかな自分の城を踏みにじられた怒りが、陽人を突き動かす。
(体格差も人数差もある! 勝てるわけない! でも、ここで引くわけにはいかねえんだよ!)
「や、やめてください! 他のお客様のご迷惑です!」
リリアも、恐怖で顔を引きつらせながらも、陽人の隣に立ち、震える声で抗議する。
「ひぃぃぃぃぃぃ!」
ギギは、もはや声にならない悲鳴を上げ、一目散にカウンターの下へと避難した。彼の生存本能は、こういう場面で最大限に発揮されるらしい。
店内にいた客たちも、ただならぬ様子に気づき始めた。
「なんだなんだ、騒々しいぞ?」
「おい、あいつら、店の邪魔してるんじゃねえか!」
昨日も来ていた労働者たちや、たまたま居合わせた屈強そうな冒険者風の客が、眉をひそめて立ち上がる。
チンピラたちは、陽人やリリアの抗議など意にも介さず、さらに調子に乗って野次を飛ばす。
「なんだぁ? このチビの兄ちゃんがシェフか? こんなんで美味いメシが作れるのかよぉ?」
「そこの姉ちゃんは可愛いけどな、魔族に誑かされてんじゃねえのか?」
リーダー格の男が、下卑た笑いを浮かべてリリアに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
ぬっ、と。
厨房の入り口に、巨大な影が現れた。バルガスだ。彼は何も言わず、ただ静かにチンピラたちの前に立ちはだかった。その岩のような体躯と、全てを見透かすような冷たい瞳の威圧感に、さすがのチンピラたちも一瞬、言葉を失い、怯んだように後ずさる。
「な、なんだよ、このデクノボウは……!」
リーダー格の男が虚勢を張って睨みつけるが、バルガスは微動だにしない。ただ無言で、ゆっくりと、その巨大な拳を握りしめ――
ボキリッ!!
自身の指の骨を、嫌な音を立てて鳴らしてみせた。それは、魔王軍の戦士が戦いの前に見せる、威嚇の作法の一つだった。
「ひっ……!!」
チンピラたちの顔から、完全に血の気が引いた。彼らは本能的に、目の前の存在が自分たちとは次元の違う危険な生物であることを悟ったのだ。
「お、覚えてろよぉっ!!」
リーダー格の男が、震える声で捨て台詞を残すのがやっとだった。三人は文字通り蜘蛛の子を散らすように、我先にと逃げ出していった。
あっけにとられていた店内は、一瞬の静寂の後、わっと歓声と拍手に包まれた。
「すげぇぞ、バルガスさん!」
「頼りになるなぁ!」
「シェフ、気にするな! あんな奴らは俺たちが許さねえからな!」
労働者や冒険者たちが、口々にバルガスを称え、陽人を励ます。下町の住人たちの、思いがけない連帯感だった。
陽人は、客たち一人一人に頭を下げて礼を言いながら、バルガスの背中を頼もしく見つめた。そして同時に、今回の件が隣の貴族の仕業であると確信し、彼らとの対立が避けられない段階に来たことを悟る。
その日の営業は、騒動の後も続き、無事に終了した。
疲れ果てて店の片付けをする陽人の顔には、しかし、昨日までとは違う、何か吹っ切れたような、あるいは腹を括ったような決意の色が浮かんでいた。
(やっぱり、ただ料理を作ってるだけじゃダメなんだな……。この店を、俺の居場所を、そして……この仲間たちを、守らないといけないんだ)
陽人は、厨房の隅に置かれたフライパンを、強く握りしめた。それはもはや単なる調理器具ではなく、彼の決意の象徴のようにも見えた。店の裏の、まだ芽も出ていないささやかな家庭菜園の土に、丁寧に水をやりながら、陽人は静かに闘志を燃やす。面倒事はごめんだが、売られた喧嘩は、買ってやる。マカイ亭のシェフ、橘陽人の戦いは、まだ始まったばかりだ。




