第5話 不穏なる影 前編
魔王城の地下深く。石造りの冷たい空気の中、十数名の魔族たちが密やかに集まっていた。
「……まったく。あれほど偉大だった魔王様が、あの人間の料理にかぶれおって」
低く唸るような声で最初に口を開いたのは、古参の軍属らしき男だ。赤黒い肌を持ち、両腕には無数の刀傷が刻まれている。
「こんなことでは、我ら魔族の威厳が地に落ちてしまう。まさか戦略会議が料理談義に化すとは、嘆かわしい……」
周囲からも同調の声が上がる。皆、かつては最前線で血を浴びながら人間を討伐した歴戦の猛者たちばかり。だが今は、あろうことか敗れたわけでもないのに、魔王自ら侵略を先延ばしにしているのだ。
「しかも、人間の商会まで堂々と出入りする始末。魔王軍の誇りをどこへ捨てたのだ?」
目つき鋭い女魔族が吐き捨てるように言う。その言葉には、裏切り者を憎むような激しい感情がこもっていた。
「いや、それだけではない。あの男、陽人とか言ったか……あの人間に気を許しすぎだ」
別の魔族が続ける。彼の声には、悔しさと苛立ちが入り混じっていた。
「戦わずして腹を満たすなど、魔族の在り方とは相容れん。連中は我らを骨抜きにしようとしているのではないか……?」
張り詰めた空気の中、集まった者たちの視線が一点に集まる。そこに立っていたのは、凶悪な雰囲気を纏った大柄な魔族。頭には立派な角があり、その瞳は血のように赤い。彼こそが、魔王ゼファーとは別に“もうひとりの強大な魔族”と恐れられてきた存在らしい。
「皆、このままでいいのか? 魔族がただ食に溺れ、いつまでも人間ごときに尻尾を振っていて良いのか?」
重々しい声が地下の空洞に響き渡る。まるで大岩を転がすようなその言葉に、他の古参たちも緊張を深めた。
「しかし、魔王様に逆らうのは……」
ある者が尻込みするように言うと、大柄な魔族は鋭い目を光らせた。
「我らは誇り高き魔族。魔王様の威光を示すために、戦うことを選んできた。だが、このままでは、その意義すら消え失せる。ならば、我らが動くしかないのだ」
彼の言葉に、集まった者たちが一斉にうなずき、決意を固める。腹を満たすだけで魔族が成長できるわけではない。戦わぬまま満足など、魔族の魂が許すはずもない。
「ここで我らが立ち上がり、あの人間の料理にかまけている幹部どもを正気に戻してやる。それが真の魔族の在り方だろう」
部屋の奥に置かれた灯火が、ゆらりと暗い影を照らし出す。隠密裏に結成された反乱めいた集まりは、これから何を実行しようというのか。
「まずは、あの料理人を排除する。魔王ゼファーに直談判するのも良いが……下手に動いては我らが粛清されるやもしれん」
大柄な魔族は唸るように言い、周囲を見回す。誰も口を開けない沈黙が続いたが、やがて一人がゆっくりと口を開いた。
「ならば、あの男を貶める策を練るべきだ。たとえば、料理に細工をして毒でも仕込めば……」
「ふん、それではただの暗殺ではないか。だが、あの男を殺せば魔王様が黙ってはいないだろう。せめて、魔族の誇りを守るためにも……」
こんな形で暴走することが誇りなのか、それともただの逆恨みか。言葉にこそしないが、彼らの目には複雑な光が宿っていた。もはや単なる侵略よりも、魔族としての存在意義を問う問題へと発展しているのだ。
「まずは様子を見よう。あの人間がどのように魔王や幹部たちを籠絡しているのか、徹底的に探る必要がある。それからでも遅くはない」
大柄な魔族の一声で、古参たちは散っていく。こうして、魔王城の地下で密かに生まれた反抗勢力は、陽人の存在を脅かす深い闇となり始めていた。