第47話 真価の一皿
「ふむ……ここが噂の、魔界の料理を出すという店かね?」
穏やかな声だったが、その響きには自然な威厳がこもっていた。陽人は思わず背筋を伸ばし、ぎこちないながらも笑顔を作る。
「い、いらっしゃいませ! ようこそ、マカイ亭へ!」
「シェフ殿、君が?」
老紳士は銀縁眼鏡の奥から、陽人を値踏みするように見つめる。
「噂はかねがね。魔王軍の厨房を預かっていたとか。面白い経歴じゃな」
「あ、はあ……まあ、色々とありまして」
陽人は曖昧に笑うしかない。開店二日目にして、早くもそんな情報が出回っているのか。
「どうぞ、お好きな席へ!」
リリアが、いつもより少しだけ淑やかさを意識した(つもりの)声で案内する。しかし、その瞳は好奇心でキラキラと輝いており、隠しきれていない。
老紳士は、杖を片手にゆっくりと店内を見回した。
「ふむ、面白い内装じゃな。手作り感があるが、悪くない。温かみがある」
彼は、店の奥で黙々と作業を続けるバルガスと、カウンターの陰からおずおずとこちらを窺うギギに目を留めた。
「ほう、噂通り、魔族の方も働いておられるのか。これは興味深い。彼らは……?」
「は、はい! こちらはバルガス、力仕事が得意で! こっちはギギ、掃除がとっても丁寧なんです!」
リリアが、少し誇らしげに紹介する。ギギはその言葉にビクッと肩を揺らし、バルガスは軽く会釈……というよりは、顎をわずかに動かしただけだった。老紳士は特に驚いた様子もなく、「ふむ」とだけ頷いた。
紳士は窓際のテーブルを選ぶと、ゆっくりと腰を下ろした。そして、手渡された手書きのメニューを一通り、じっくりと眺めた後、ふと顔を上げて陽人に向き直った。
「シェフ殿」
「は、はい!」
「ここはひとつ、君に任せようかの。ありきたりのものではなく、この『マカイ亭』の真価がわかるような……そんな一皿を頼む」
(真価、だと……!?)
陽人はゴクリと唾を飲んだ。試されている。明らかに、ただの食事をしに来た客ではない。しかし同時に、料理人としての血が騒ぐのを感じた。昨日来た冒険者のような、分かりやすい反応を求める客とは違う。この老紳士には、小手先のインパクトではなく、自分の持つ技術と、魔界料理の奥深さ(?)で勝負すべきだ。
「……承知いたしました。少々お時間をいただけますでしょうか」
陽人は深く一礼し、厨房へと戻った。
選んだのは、あえて見た目の派手さはないが、丁寧な仕事が求められる一品。「深淵魚のポワレ・苔ソース添え」。深淵魚は魔界の淡水魚で、繊細な白身を持つが、下処理を間違えると泥臭さが残る。ソースに使うのは、魔界の洞窟に自生する特殊な苔(もちろん食用だ)で、独特の香りと風味がある。これに、昨日好評だった「沼地の粘液風スープ」を前菜として組み合わせることにした。
緊張感の中、陽人は持てる技術のすべてを注ぎ込んで調理を進めた。
やがて、料理が老紳士の元へと運ばれる。
まず、緑色のスープ。紳士は眉一つ動かさず、スプーンで静かに一口すすった。
「……ふむ。これは……見た目に反して、実に滋味深い。数種類のハーブが使われておるな。この独特の清涼感は……もしや、魔界産の『癒し草』か?」
「(なっ……!? なんで分かるんだ!?)」陽人は内心で絶叫した。癒し草は、魔界でも一部の地域でしか採れない薬草だ。
「お、お詳しいですね……」
次に、メインのポワレ。紳士はナイフとフォークを手に取り、丁寧に魚の身を切り分け、苔のソースを絡めて口に運んだ。しばしの沈黙。陽人の心臓が早鐘のように打つ。
「ほう……」紳士はゆっくりと口を開いた。「この魚は……深淵魚じゃな? 火入れは悪くない。皮はパリッと、身はふっくらと仕上がっておる。そしてこのソース……面白い味じゃ。この苔は、王都近郊のものではあるまい?」
「(そこまで分かるのかよ!?)」陽人はもはや驚きを隠せない。
「さ、さすがでございます……」
紳士は満足げに頷き、ワインでも嗜むかのように、ゆっくりと食事を進めた。
「ふふ、長年、美味いものには少々うるさくての。食は人生の喜びじゃからな。……それにしても、驚いた。このような下町の一角で、これほどの料理に出会えるとは。王都中央の、見栄ばかりで中身の伴わぬレストランより、よほど心がこもっておるわい」
その言葉に、陽人は胸が熱くなるのを感じた。この老紳士は、本質を見抜く目を持っている。
店内の他の客たちは、老紳士のただならぬ雰囲気と、陽人とのやり取りに、やや気圧されつつも興味津々といった様子で聞き耳を立てている。昨日も来ていた労働者たちが、「おい、あの爺さん、何者かねぇ?」「やんごとないお方かもしれんぞ……」と小声で囁き合っていた。
やがて、老紳士は綺麗に皿を空にし、ナプキンで口元を拭った。
「シェフ殿、実に良い経験をさせてもらった。感謝する」
彼はすっと立ち上がり、会計を済ませる。その際、釣り銭は受け取らず、「これは、美味い料理へのチップじゃ」と微笑んだ。
「また近いうちに来るとしよう。その時は、また君の『真価』とやらを見せてくれたまえ」
そう言い残し、彼はテーブルの上に、一枚の小さなカードのようなものをそっと置くと、杖をつきながら静かに店を出て行った。
カラン――。
ドアベルの音が、やけに大きく店内に響いた。
陽人は、吸い寄せられるようにテーブルに近づき、そのカードを手に取った。厚手の上質な紙で作られたカードには、名前は書かれていない。ただ一つ、中央に精巧な紋章が金の箔押しで刻印されているだけだった。
それは、歴史の教科書で見たことがあるような気がする、古式ゆかしいデザイン。そして、陽人の記憶が正しければ、それは王家に古くから仕え、王都でも指折りの権勢を誇る、ある高名な公爵家の紋章――。
「こ、これって……まさか……」
陽人はカードを持つ手が微かに震えるのを感じた。隣に来たリリアも、紋章を見て息を呑んでいる。
「シェフ……この紋章、私、見たことあります……たしか、オル……」
「な、な、なんですか、それ? 宝の地図ですか!?」
ギギがカウンターの陰から怯えながらも、好奇心に負けて覗き込んでくる。バルガスも、珍しくその紋章に興味深そうな視線を向けていた。
マカイ亭に、突如として舞い込んだ、貴族社会との厄介そうな繋がり。陽人の異世界レストラン経営は、開店二日目にして、早くも新たな、そして予測不能な局面を迎えようとしていた。