表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/52

第45話 長くて騒々しい一日

 陽人の「勘弁してくれ……」という心の底からの呻きは、幸か不幸か、冒険者の男には届かなかったらしい。しかし、陽人が天を仰いで固まっている様子は伝わったのか、男は少しだけ気まずそうに頭を掻いた。


「あ、いや、悪かったな、もう終わりなんだろ? ならいいんだ、気にしないでくれ……」

 言いながらも、その目は未練たっぷりに厨房の方をチラチラと見ている。よほどあの緑色のスープが気に入ったらしい。


 その時、疲れ切っていたはずのリリアが、ぱっと顔を輝かせた。

「シェフ! スープ、まだ寸胴ずんどうに少し残ってましたよね!? せっかくお客様がお求めなんですから、お出ししましょうよ!」


 その目はキラキラと輝き、「お客様は神様です!」とでも言いたげだ。純粋な善意、あるいはただの接客ハイ状態なのか。どちらにせよ、陽人にとっては強力なプレッシャーである。


「……はぁ~~~~~~~~」

 陽人は、今日一番長い(そして深い)ため息をついた。

「……わーったよ! 一杯だけだぞ! 特別サービス……ただし有料だ! 正規料金いただくからな!」

「おおっ! 悪いな、助かるぜ!」

 男は現金なもので、さっきまでの気まずさはどこへやら、嬉々としてカウンター席に陣取った。ギギは「ま、まだ帰らないんですか……」とカウンターの陰で小さく呟いている。


 陽人は、もはや体に鞭打つような感覚で厨房へ向かい、寸胴に残っていた緑色のスープを温め直した。見た目は相変わらず「沼地の粘液」のようだが、数種類のハーブと滋養のある野菜を煮込んだ、身体に優しいスープなのだ。魔界では二日酔いの朝の定番だったりする。


 カウンター越しにスープを差し出すと、男は待ちきれない様子でスプーンを手に取り、ふーふーと冷ましながら一口すすった。


「はぁ~~~~~~っ……染みるぜ……五臓六腑に染み渡る……」

 男は恍惚こうこつとした表情で、深く息をついた。よほど今日一日、酷い目に遭ってきたらしい。


「いやー、今日はホント、ツイてなくてよぉ。朝イチで受けた依頼がゴブリン退治だったんだが、行ってみたらただの家出ゴブリンでさ。お袋さんと喧嘩しただけだって。退治も何もねえだろ?」


 男はスープをすすりながら、ぶつぶつと愚痴をこぼし始めた。

「昼過ぎに潜ったダンジョンじゃ、罠にかかって泥まみれになるし、宝箱は空っぽだし、出てくるのは最弱のスライムばっか。挙句の果てには、依頼主に『成果がない』とかケチつけられて報酬半分だぜ? やってらんねえよな、ホント」


 陽人は黙って男の話を聞いていた。最初に会った時の尊大な態度はすっかり消え、今はただの疲れ果てた労働者の愚痴だ。


「……でもよ、シェフ」男はスープの最後の一滴まで飲み干すと、ふう、と息をついた。「このスープ飲むと、なんか、こう…全部どうでも良くなるっつーか、落ち着くんだよな。見た目は、まあ、びっくりするほどマズそうだけどよ」


「……そりゃどうも」

 陽人は苦笑いするしかなかったが、その言葉に、昼間の疲労が少しだけ報われたような気がした。


 男は律儀に代金を支払い、「また来るぜ、緑のスープ!」と言い残して、今度こそ本当に帰っていった。


 カラン――。


 三度みたびベルの音が鳴り、今度こそ本当に静寂が訪れた。


 陽人たちは、急いで閉店作業に取り掛かった。リリアがテーブルを拭き、ギギが(震えながらも)食器を洗い、バルガスが椅子を上げ、陽人がレジ(という名の木箱)を締める。


「……ふぅ。みんな、今日は本当にお疲れさん」

 作業を終え、陽人はスタッフたちに向き直った。

「色々、本当に色々あったが……まあ、初日としては……奇跡的に店が火事にならなかっただけでも上出来か」


 陽人の冗談に、リリアが「もう、シェフ!」と笑う。

「すっごく疲れましたけど、でも、すっごく楽しかったです! 明日からも頑張りましょうね、シェフ!」

「ぼ、僕、お皿割っちゃってすみませんでした……明日からはもっと気をつけます……」

 しょんぼりするギギに、陽人はポンと肩を叩いた。

「気にするな、ギギ。誰にだって失敗はある。それより、床掃除、隅々までピカピカにしてくれて助かったぞ。お前、掃除の才能あるんじゃないか?」

「えっ!? そ、そうですか……?」ギギは少しだけ顔を赤らめた。

「バルガスも、力仕事本当にありがとうな。お前がいなかったら、開店すら危うかった」陽人はバルガスに向き直る。「……ただ、頼むからもう少しだけ、客を睨みつけるのはやめてくれ。心臓に悪い」

「……努力する」バルガスは、ほんの一瞬だけ、真剣な表情で頷いた。


 スタッフたちは、疲労困憊ながらもどこか満足げな表情で、それぞれの家路についていった。陽人は店の外に出て、木の扉に古い鍵をかける。見上げれば、満月が煌々(こうこう)とアルネリオンの街を照らしている。ふと隣の貴族の館に目をやると、いくつかの窓にまだ明かりが灯っていた。その明かりが、まるで自分たちを監視しているかのように思え、陽人は思わず眉をひそめた。


(明日からも、気が抜けないな……)


 店内に戻り、一人になった陽人は、静まり返ったホールを見渡した。昼間の喧騒が嘘のようだ。厨房へ向かい、明日の仕込みを少しだけでも進めておこう、と考える。だが、調理台の前の椅子に腰を下ろした途端、まるでスイッチが切れたかのように、強烈な睡魔が襲ってきた。


(……ダメだ、もう、限界……)


 抗う間もなく、陽人はカウンターに突っ伏し、あっという間に穏やかな寝息を立て始めた。その傍らでは、昼間にバルガスが生けた素朴な野の花が、カウンターの隅で静かに夜の闇を見守っている。疲労困憊のシェフを起こさないように、そっと。


 マカイ亭の、長くて騒々しい一日は、こうしてようやく、本当の終わりを迎えたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ