第44話 怒涛の注文
嵐のような最初の客が去った後、マカイ亭にはしばしの静寂と、濃厚な疲労感が漂っていた。
「……はぁ〜〜〜、びっくりしたぁ……」
リリアはカウンターにへたり込み、大きく息をついた。さっきまでの張り詰めた笑顔は消え、素の少女らしい表情に戻っている。
「で、でも! 美味しいって! 全部食べてくださいましたよ、シェフ!」
興奮冷めやらぬ様子で、彼女は拳を握る。
カウンターの下からは、まだギギのすすり泣くような声が聞こえてくる。
「ひっぐ……こ、怖かったぁ……目が、目が合っただけで呪われるかと思いました……」
「大丈夫だギギ、もういないから。ほら、顔を上げろ」
陽人が声をかけると、ギギは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をそろりと上げた。その姿は、なんとも情けなく、そして少しだけ滑稽だった。
バルガスはといえば、いつの間にかモップを手にし、男が座っていた席の周りを黙々と掃除し始めている。その無駄のない動きは、まるで歴戦の兵士が戦場の後片付けをするかのようだ。彼なりの「任務完了」の表現なのかもしれない。
陽人は空になった皿を手に取り、厨房に戻ろうとした。その時だ。
カラン、カラン!
再びドアベルが鳴った。今度は二人組だ。煤けた作業着に身を包み、日焼けした顔には人の良さそうな笑みを浮かべている。見るからに、この下町で働く労働者といった風体だ。
「よう、兄ちゃん! あんたがシェフか?」
片方の男が、にっと白い歯を見せて陽人に話しかける。
「さっき、広場で昼飯食ってたらよ、例の冒険者のガキが『辛くて死ぬかと思ったが妙に美味かった』とか騒いでたんだ。こりゃ試してみるしかねえと思ってな!」
「おう! 俺らもあの『ゴクエンチキン』?とやらを食わせてくれ!」
もう片方の男も、威勢よく注文する。
それを皮切りにしたかのように、客足は途切れなかった。
「まあ、ここが噂の…魔族の料理を出すっていう…?」
「ちょっと怖いけど、安いんでしょ? 試しに入ってみましょ」
買い物籠を下げた主婦二人組が、ヒソヒソと囁きながら恐る恐る入ってくる。
「ねえ、ここ面白そうじゃない?」
「魔界グルメだって! インスタ映えするかな?」
好奇心旺盛そうな若いカップルも、目を輝かせてやってきた。
あっという間に、店の半分ほどの席が埋まる。店内には、ざわめきと、様々な料理の匂いが混じり合い、活気が生まれ始めた。しかし、それは同時に、新たな混乱の始まりでもあった。
「はいっ! 獄炎鶏おふたつ! 沼地スープもおふたつですね! それから絶望きのこもおひとつ! かしこまりましたー!」
リリアの元気すぎる声が、店内に響き渡る。彼女は懸命にオーダーを取るが、時折、隣のテーブルの注文と混線しそうになり、陽人が厨房から「リリア! 復唱は正確に!」と檄を飛ばす羽目になる。
ギギは、お茶を運ぶという単純な任務にも苦戦していた。客の視線を感じるたびに手が震え、お盆の上の湯呑みがカチャカチャと不穏な音を立てる。客の方が「あ、大丈夫か?」と心配する始末だ。
バルガスは、黙々と空いた皿を下げて回る。その効率は素晴らしいのだが、いかんせん無言で、巨大な影が背後に迫ってくるため、食事中の客は何度か「ひっ!」と小さな悲鳴を上げた。特に主婦の一人は、背後から伸びてきたバルガスの巨大な手に本気で驚き、危うく椅子から転げ落ちそうになっていた。
陽人は厨房で一人、戦場のような忙しさにあった。
「リリア、声がでかい! もう少し抑えろ!」「ギギ、落ち着け! 深呼吸だ!」「バルガス、頼むからもう少し…こう、気配をだな…! 存在感を消す努力を…いや無理か!」
怒涛のように入る注文を捌きながら、ホールの混乱に的確な(あるいはもはやヤケクソ気味な)指示を飛ばし、休む間もなく鍋を振り続ける。
だが、混乱の中にも、確かな手応えがあった。
「うおっ、やっぱり辛ぇ! でもビールが進むな、こりゃ!」(労働者の男)
「あら、この緑色のスープ、見た目はアレだけど、身体がポカポカ温まるわねぇ。薬膳みたい」(主婦)
「このキノコ、変な形! でもコリコリしてて美味しい! アヒージョってやつ?」(若い女性)
「見てみて! 闇色ベリーのムースだって! 魔女のデザートみたいで可愛い!……きゃー! 何これ、甘酸っぱくて超美味しい!」(若い女性、スマホで撮影中)
客たちの様々な反応が、陽人の耳にも届いてくる。中には、「今日の親方、また無茶振りしてきてよぉ…」「まったく、王都の役人ってのは…」などと、この世界の日常的な愚痴をこぼす者もいる。その生活感あふれる会話が、この店が少しずつ下町に受け入れられ始めている証のように思えた。
あっという間に時間は過ぎ、傾いた陽が窓から差し込む頃には、客足も落ち着いてきた。
陽人は汗だくのまま厨房の壁に寄りかかり、スタッフたちもそれぞれ椅子に座り込んでぐったりしている。
「……なんとか、なった、か?」
レジ代わりの古い木箱には、開店前の不安が嘘のように、銅貨と、予想以上の枚数の銀貨が入っていた。
しかし、店の床には、ギギが運ぶ途中で落としてしまった皿の破片がキラリと光り、壁にはバルガスがテーブルを運ぶ際にぶつけたらしい謎のシミが刻まれている。そして何より、陽人の心には、明日の仕入れの算段と、依然として感じる隣の貴族からの無言の圧力という、現実的な憂鬱が重くのしかかっていた。
(まあ、初日としては上々、だよな……)
陽人が自分に言い聞かせ、閉店の準備をしようと立ち上がった、その時だった。
カラン――。
本日何度目かのドアベルが、やや遠慮がちに鳴った。
陽人は反射的に「すみません、もう閉店の時間で……」と言いかけ、入り口を見て言葉を失った。
そこに立っていたのは、なんと、昼間に嵐のようにやって来て「獄炎鶏」に悶絶していた、あの貧乏冒険者の男だったのだ。彼は少し気まずそうに頭を掻きながら、言った。
「よう。悪ぃな、もう終わりか?」
「……ええ、まあ……」
「そうか……いや、実はな」男は視線を泳がせながら、「さっき食った、あの……緑色のスープあっただろ? あれ……どうもクセになっちまったみてえでよ。もう一杯だけ、飲ませてくれねえか? ダメか?」
陽人は、ぐったりとした体で、思わず額に手を当て、天井を仰いだ。塞いだはずの天井の穴が、また開いていやしないかと錯覚するほどの脱力感。
「…………勘弁してくれ…………」
マカイ亭の、長くて、騒々しくて、そしてほんの少しだけ希望の見えた一日は、まだ完全には終わらないらしい。