第42話 ついに開店!
「……バルガス、お前、もしかして花が好きなのか?」
陽人が呆れ半分、興味半分で尋ねると、岩のようなオークはむすっとした表情で(それでも普段とあまり変わらないが)そっぽを向いた。
「……別に」
その短い否定が、逆に肯定しているように聞こえるのは気のせいだろうか。隣では、腰を抜かしていたギギが、まだ小刻みに震えている。
「で、でもシェフ! あの花、図鑑で見た人食い花にそっくりで……噛みついたりしませんか!?」
「ただの野の花だ、ギギ。噛みつかんし、食いもしない。いいから立て」
陽人は大きなため息とともに、バルガスが持っていた素朴な野の花を受け取った。まあ、殺風景な店内に彩りがないよりはマシか。
「カウンターの隅にでも飾っておいてくれ。バルガス、頼む」
「……ウス」
バルガスは、その大きな体躯に似合わないほど慎重な手つきで花瓶を受け取り、カウンターの端にそっと置いた。その不器用な優しさに、リリアが思わずクスッと笑みを漏らす。バルガスはそれに気づくと、少しだけ耳(?)を赤くしたように見えた。
そこからは、まさに時間との戦いだった。
厨房では、陽人が最終的なソースの味見に集中していた。
「よし、この刺激……! 魔界産の『涙目唐辛子』を使った特製オイル、完璧だ。辛いが、後を引く旨味が人間の舌にも合うはず……」
カウンターには、試作を重ねた「闇色ベリーのムース」が冷やされている。見た目は少々毒々しいが、甘酸っぱさと濃厚な口溶けは陽人の自信作だ。
ホールでは、リリアが持ち前の明るさと手際の良さで、テーブルクロスを皺ひとつなく敷き、ピカピカに磨かれたカトラリーを正確な位置に並べていく。バルガスは、人間用の椅子など彼にとっては小枝同然だろうに、一つ一つを丁寧に運び、等間隔に配置していく。
ギギは、相変わらずビクビクしてはいるものの、床の隅々まで雑巾で磨き上げ、小さな埃も見逃さない丁寧さを見せていた。個性は見事にバラバラだが、開店に向けて、皆がそれぞれの役割を果たそうとしている。その事実に、陽人は少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
(本当に、客は来てくれるんだろうか……)
ふと、陽人は窓の外に目をやった。アルネリオン下町の通り。午後の日差しが降り注いでいるが、人通りはまだまばらだ。魔王軍では、陽人の料理は常に求められ、賞賛された。だが、ここは違う。
ゼロからのスタート。それも、人間界という完全なアウェーだ。「魔族の料理」というレッテルだけで敬遠されるかもしれない。また、あの日本での日々のように、必死に働いても報われないのだろうか……。一瞬、弱気が顔を出す。
「シェフ! 看板、立ててきますね!」
リリアの元気な声が現実に引き戻した。店の顔となる「マカイ亭」の手書き看板。
「おう、頼む! まっすぐ立てろよ!」
「はーい!」
リリアは意気揚々と看板を抱えて店の外へ。しかし、数分後。
「あれ……? シェフー! なんか傾いちゃいますー!」
陽人が慌てて外に出ると、看板は微妙に右に傾いている。
「貸してみろ」
陽人が受け取り、立て直そうとするが、今度は左に傾く。
「くそっ、なんでだ! 地面が歪んでるのか? それとも俺の平衡感覚が……」
「わ、私がお手伝いします!」
リリアと二人で悪戦苦闘し、ようやく看板は(おそらく)まっすぐに立った。額に汗が滲む。
時計の針が、ついに開店時刻を指した。
店内に、緊張した空気が流れる。
陽人は一つ深呼吸をし、スタッフたちを見渡した。リリアは期待と不安が入り混じった表情で扉を見つめている。バルガスは店の奥で腕を組み、微動だにしない。ギギはカウンターの陰に半ば隠れながら、心配そうに目をキョロキョロさせている。
「よし、開けるぞ!」
陽人の声に、リリアがこくりと頷き、ゆっくりと店の扉に手をかけた。
ギィ……という小さな音とともに扉が開かれ、午後の明るい陽光が、まだ真新しい木の床に長く伸びた。アルネリオン下町の喧騒が、微かに店内に流れ込んでくる。
道行く人々が、新しい店の看板をちらりと見る。しかし、誰も足を止めようとはしない。一人、また一人と、店の前を通り過ぎていく。
静寂。
陽人の額に、じわりと汗が滲んだ。リリアの笑顔も少し引きつっている。バルガスの眉間の皺が、心なしか深くなった気がする。
(……やっぱり、ダメなのか?)
陽人がそんな考えに囚われかけた、その時だった。
カラン――。
ドアに取り付けられた小さなベルが、軽やかな音を立てた。
全員の視線が、入り口に注がれる。
そこに立っていたのは――