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第40話  開店前夜、あるいは天井と野望

 夜明け前の冷気が、アルネリオン下町の石畳を白く濡らしていた。


 その中でも一際、厨房の窓だけが温かな橙色だいだいいろの光を灯している。店名は「マカイ亭」。看板はまだ、墨が乾ききっていない手書きのものだ。


「……あと玉ねぎ50個、ジャガイモは……コンテナ3箱分か」


 厨房の主、たちばな 陽人はるとは、目の下に濃いクマを作りながら、仕入れリストと睨めっこしていた。よわい二十五にしては、その背中には妙な貫禄と、それ以上に深い疲労が滲んでいる。


 元・日本のサラリーマン。現・異世界の料理人。そして、元・魔王軍専属シェフという、数奇な肩書きの持ち主だ。


 魔王ゼファーのお墨付きを得て、魔族たちの胃袋を鷲掴みにし、「食による和平」の礎を築いた――と、世間では評価されている。


 その実績を引っ提げ、今度は人間界の、それも王都の下町で一旗揚げようというのだから、無謀と笑う者は少なくない。陽人自身、時折「俺、何やってんだろ」と我に返る瞬間がある。


(日本に帰りたい……あったかい風呂に入って、ふかふかの布団で寝たい……)


 脳裏をよぎるのは、懐かしい故郷の風景。だが、包丁を握る手は止まらない。寸分の狂いなく野菜を刻むその動きは、もはや職人の域に達している。


 日本人的な完璧主義とサービス精神は、異世界に来ても健在……いや、むしろ悪化しているかもしれなかった。結果、睡眠時間は日に日に削られている。


「シェフ、運びます」


 背後から、地の底から響くような低い声がかかる。振り返ると、岩のような体躯を持つオークのバルガスが、麻袋を軽々と担いで立っていた。彼は、魔王軍時代からの陽人の部下であり、今はマカイ亭の貴重な(そして無口な)スタッフの一人だ。


「ああ、頼む。そっちの棚に……って、おい! もう少し静かに置けないのか、棚が軋んでる!」


 ドンッ!と地響きのような音とともに麻袋が置かれ、陽人は思わず声を荒らげる。バルガスは大きな緑色の顔で、きょとんとした表情を陽人に向けた。悪気は全くない。ただ、力の加減という概念が、彼らの文化には希薄なのだ。


「……ウス」


 短い返事とともに、バルガスは次の作業に取り掛かる。こういう文化の違いが生む小さな衝突は日常茶飯事だ。これもまた、異文化交流の一環、と陽人は自分に言い聞かせる。


 陽人は厨房を出て、まだ薄暗いホールを見渡した。元は貴族の屋敷だったというこの建物は、格安だっただけあって相当な年代物だ。壁の漆喰しっくいは剥がれ落ち、床板は歩くたびに悲鳴を上げる。


 不動産屋の「修繕はDIYで!」という軽い言葉を信じたのが運の尽き。開店準備の大半は、料理ではなく大工仕事に費やされた。


(レジ周りの配線、今日中に終わらせないと……)


 脚立に上り、天井近くの配線をいじり始める。その時だった。


 メリメリッ……!


 嫌な音が頭上で響く。陽人が「え?」と顔を上げた瞬間、天井の一部が派手に崩落した。


「うわっ!?」


 間一髪で脚立から飛び降りた陽人は、降り注ぐ埃と木屑にまみれて盛大に咳き込む。


「ゴホッ、ゴホッ……! なんだよ、もう!」


 埃まみれの顔で天井を見上げると、ぽっかりと穴が開き、屋根裏の薄汚れたはりが覗いている。開店は、明日に迫っているというのに。


「……シェフ、大丈夫ですか」


 いつの間にか隣に来ていたバルガスが、心配そうに(少なくとも陽人にはそう見えた)見下ろしている。


「大丈夫……に見えるか? これ」陽人は力なく笑う。「いっそ、料理人辞めて大工に転職しようかな……」


 冗談めかして言ってみるが、内心はそれどころではない。開店資金は既にギリギリだ。お隣の、いかにも「魔族嫌い」を公言している保守派貴族からは、連日無言の圧力を感じる。市場の八百屋のおばちゃんは、野菜を卸してくれるとは言ったものの、「魔族と関わるなんてねぇ……」と最後まで不安げだった。


(本当に、この店はやっていけるのか……?)


 魔王軍での名声なんて、人間界では何の役にも立たない。むしろ、「魔王の手先」と警戒されるだけだ。それでも、陽人はこの場所を選んだ。「戦うより、美味いものを食う方がずっと幸せだ」という、シンプルな真実を証明するために。魔族も人間も、美味いものの前では同じ顔をする。それを、この下町で、自分の料理で示したいのだ。


「……バルガス、悪いがほうきと塵取り(ちりとり)持ってきてくれ。あと、そこの板と釘も」


 陽人は埃を手で払いながら立ち上がった。その目には、深い疲労の色と共に、諦めることを知らない頑なな光が宿っていた。


「開店までに、何とかするしかないだろ」


 日本に帰る日を夢見ながらも、今はまだ、この異世界マカイの厨房が彼の戦場だった。マカイ亭の波乱万丈な一日は、こうして幕を開ける。

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