第25話 争いか、対話か――最後の大鍋
凍りつくような緊張感の中、陽人はふたたび鍋をかき混ぜ、火の加減を調整していた。荒野を吹き抜ける風が一段と強くなり、舞い上がる砂塵があたりを覆う。けれども、そのざわめきの中心にはひときわ濃厚な煮込みの香りが漂っている。
「……そろそろ、いい頃合いか」
陽人は短く呟き、鍋に蓋をして火を止めた。魔族兵が半ば惹きつけられるように鍋へ近づき、思わず鼻をヒクつかせる。リーダーは腕を組んだまま視線をそらしているが、時々落ち着かない様子で陽人の動きを伺っている。
「俺は、これをただ“食べてほしい”だけです。戦う前に、腹を満たして、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれたら……。そうしたら、きっと話し合えることもあるはずです」
荒野の中央で、陽人はゆっくりと腰を落とし、大鍋の横に座り込んだ。その姿勢は、まるで相手を待ち受けるホストのようでもあり、あるいは武器を持たぬ無防備な証のようでもあった。
「バカな……」
リーダーの低い唸り声が聞こえる。周囲の魔族兵も「こんな状況で食事なんて……」と疑問を口にするが、陽人の動じない姿を見ていると、妙に刃を向けづらい空気が生まれていた。
ゼファーも静かに見守っている。彼の背後に控える四天王や兵士たちも、あえて剣を収めている様子だ。人間界から来た騎士団の青年やエリザも、陽人の提案をサポートしようと腕まくりをしながら構えている。
「……さあ、いつでもどうぞ。俺はここで待っています。もしそれでも、戦う道を選ぶなら……料理人としては残念ですが、止めることはできません。でも、願わくば、食事を挟んだあとの世界がちょっとでも違って見えてくれれば……」
陽人の声は、荒野を吹き抜ける風にかき消されそうになる。しかし、その言葉の端々に込められた強い決意は、決してぶれることがない。
リーダーは苦渋の表情で、握り締めた拳をほどこうとしない。だが、匂いは逃れられない。鍋から立ち上る湯気と、辛味の刺激に潜む甘酸っぱさ――それが彼の鼻腔を攻め続け、空腹の胃を静かに揺さぶり続ける。
(ここで折れれば、誇りが……だが、このまま戦えば、結局は血を流すことになる。そもそも、俺たちが求めていたものはなんだ? 魔王への忠誠? 勝利の栄光? それとも、ただ“満たされる”ことだったのか……?)
リーダーの思考が幾重にも巡る中、周囲の魔族兵たちが大きく息を呑んだ。彼らもまた、長き戦いに疲弊していた。いつ終わるとも知れない戦争、それを途中で止められたことで、行き場のない感情を抱えたまま彷徨ってきたのだ。
「……リーダーさん」
陽人が再び声をかける。その穏やかな口調には、相手を咎めるでもなく、嘲るでもなく、ただ受け止めようとする優しさがあった。
「あなたが戦いを強く望むのは、誇りや忠義があるからだと分かります。でも、そういうあなただからこそ、本当はもっと幸せになっていいんじゃないかって、俺は思うんです」
思わずリーダーの肩が震えた。魔族兵たちも視線を交わし合い、息を詰める。ゼファーは無言のまま、リーダーの反応を見守っている。
――そして、ついにリーダーの口からかすれた声が零れ落ちた。
「……俺は、もう分からなくなったんだ。戦う理由も、誇りの在処も……。だけど、こんな形で魔王に屈服するのも、どうにも納得がいかない」
するとゼファーが静かに口を開き、リーダーへと歩み寄る。
「屈服だと? 違うな。俺は、お前たちの苦しみを放置してきたことを詫びたいと思っている。むしろ、俺が侵略を止めた時点で、勝手にお前たちを取り残したのは事実だ……。その罪は認めよう」
衝撃的な言葉に、従来派の魔族兵が動揺する。ゼファーは誇り高き魔王として、滅多に謝罪の言葉を口にしないはずだからだ。リーダーも目を見開き、愕然とした様子を浮かべる。
「……魔王様……?」
「俺も魔族の王である以上、お前たちを放置するつもりはなかった。だが、それよりも早く“美味い料理”と出会ってしまった。おかげで戦うこと以上の価値を知り、“征服”以外の道を模索し始めたのだ」
ゼファーの声には、混ざり合った感情がこもっている。リーダーは思わず拳を解き、ただ黙ってその言葉に耳を傾ける。
「……もしお前たちが、まだ俺を魔王と認めるなら、共にこの新しい道を切り開いてほしい。戦うだけがすべてではない。俺自身が、陽人の料理を通してそれを知ったのだからな」
その一言が、荒野に静かな余韻を落とす。従来派の魔族兵たちの間にも、ホッと息をつくような空気が生まれ始めていた。リーダーは震える指先でこめかみを押さえ、長い沈黙の末、震える声で返事をする。
「……分からないままだ。けど、少なくとも今は……腹が、減った」
それは、従来派のリーダーにとっての精一杯の降伏宣言だった。戦いではなく、食事を選ぶという意思表示。すると周囲の兵士が、一斉に息をつめてリーダーを見つめる。
「リーダー、じゃあ……戦わないんですね?」
「まだ、結論を出すには早い。だが、せめてこの場で血を流すのは避けたいと思う」
その言葉を聞いた陽人は、抑えきれない笑みを浮かべ、すぐさま鍋に火をかけ直す。
「やった……! じゃあ、もう少し煮込んで、皆さんに振る舞いましょう。冷めちゃうと味が落ちますからね」
辺りからは戸惑いの笑い声が漏れ出す。魔族も人間も、さっきまで“殺し合うかもしれない”と身構えていたのに、突如として湯気の立つ料理を囲む雰囲気へと変貌しているのだ。ゼファーは目を伏せて小さく笑い、四天王の一人が「いったい何なんだ、これは……」と苦笑混じりに呟く。
「魔王様もどうぞ。新しい道を切り開くためには、おいしい食事が一番の近道ですよ」
陽人が茶化すように言うと、ゼファーは鼻を鳴らしながらも鍋に近づく。続いてリーダーも、まだ何か言いたそうにしながらもスプーンを手に取った。両陣営の魔族兵が固唾を呑んで見守る中、二人がスープを一口すすってみせる。
「……うむ、なかなかに刺激的だが、先ほどよりも甘みとコクが増したな」
ゼファーが感想を洩らせば、リーダーもムッとした顔で飲み込み、わずかに頬を緩める。
「確かに、さっきより旨い気がする……。腹が減ってたからかもしれんが」
一瞬視線が交錯し、ぴりついた空気が解けていく。二人の周囲にいた兵士たちも、やがて「うまそうだな……」と皿を手に取り始め、荒野の戦場は一転、奇妙な“屋外レストラン”へと変わりつつあった。
エリザはそんな光景を少し離れた場所から見つめ、肩の力を抜いて安堵の息を漏らす。
「本当に、この料理で争いが止まるとは……あなたって、奇跡を起こすわね」
彼女が小声で呟くと、騎士団の青年も苦笑しながら同意する。
「陽人が考えた“料理外交”ってやつか。まったく、見てるこっちはヒヤヒヤするばかりだ……でも、どうやら成功みたいだな」
この場で決着がついたわけではない。従来派の不満や、人間界との摩擦がすべて解決したわけでもない。それでも、今まさに起ころうとしていた“殺し合い”だけは回避できた。
「……ありがとう、みんな。それからリーダーさんも」
陽人は大鍋をかき混ぜながら、心の中でそう呟く。争いを完全に止めるのは困難かもしれないが、少なくとも彼らの心に“小さな疑問”を与えることはできた。戦わなくてもいい未来があるのではないか、という疑問を――。
こうして魔族同士が煮込みを食べ合う荒野の一角で、新たな物語が動き出そうとしていた。戦争がなくなるわけではないが、料理を通じて分かり合える道がある。魔王ゼファーと従来派リーダーが向き合い始めた今、それがほんの一歩でも未来へ繋がっていることを、陽人は信じてやまない。
次回、戦闘回避を果たした陽人たちが、さらなる外交のステージへと進む。人間界の過激派や、エリザの秘密など、まだ暗い影は残るが、彼らの“食の力”は確かな希望の灯火となるのか…
(あとがき)
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