未来の扉
黎は次第に自分のペースを取り戻しつつあった。心の中で抱えていた不安や迷いも、少しずつ薄れていった。楓と過ごす時間が、日々の中で確かな支えとなり、黎にとっては「自分らしく生きること」の意味が少しずつ見えてきた。
でも、それでも時々、胸の奥で不安がざわめくことがあった。自分がどんな存在で、どこに向かっていくのか、未来のことを考えると怖くなる瞬間がある。
ある日の放課後、黎は久しぶりに一人で美術室に向かった。空気がひんやりとしていて、室内は静かで、誰もいなかった。黎は机に置いてあったスケッチブックを広げ、何も考えずに手を動かし始めた。すると、ふと昨日の夜に楓と交わした言葉が頭をよぎった。
「君は君でいいんだって、俺は思ってる」
その言葉が、黎の心の中で優しく響いていた。楓が言ってくれたこと、その温かさに、少しずつ自分も応えられるようになりたいと思った。
スケッチブックには、楓と一緒に過ごした日々のことが自然に描かれていった。彼とのセッション、静かな夜のLINE通話、そして二人で歩いた放課後の道――どれもが大切な思い出として、黎の中に刻まれていった。
しばらくして、ドアが開く音がした。振り返ると、楓が静かに顔を覗かせていた。
「こんにちは、黎。今日も描いてる?」
黎は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作って答えた。
「うん、ちょっとだけ。楓もここに来るの?」
楓は少し照れくさそうに頷いた。
「うん、少しだけ。あ、もしよければ、ピアノ弾いてもいい?」
黎は少し考えてから、頷いた。
「もちろん。今日も一緒に演奏する?」
楓はその言葉を聞いて目を輝かせた。
「うん、いいね。じゃあ、ピアノを弾く前に、少しだけギターを弾いてみてくれない?」
黎は、心の中で一瞬不安がよぎったものの、深呼吸をしてギターを手に取った。音楽室には二人だけの空気が広がり、ギターの音色が部屋に響き渡った。
楓はピアノの前に座り、静かにその手を鍵盤に置いた。
その時、黎は少しだけ自分の気持ちを整理することができた。楓と過ごすこの時間が、彼にとってどれほど大切か。もしも不安があるとしても、それを恐れる必要はないということが、少しずつ実感としてわかってきた。
「じゃあ、演奏しようか」
黎が言うと、楓も頷いて鍵盤に手を置いた。
ギターとピアノが重なり、静かな音楽が二人の間に流れた。お互いに目を合わせながら、心地よいメロディーを奏でていく。黎のギターの音色と楓のピアノの響きが、徐々に一つに溶け込んでいった。
演奏が終わった後、二人はしばらく無言でお互いを見つめ合った。
「なんか、すごく心地よかったね」
楓が言った。
「うん、すごく落ち着いた。でも、なんだかちょっとだけ切ない気持ちもあるんだ」
黎は言葉を続けた。
「こんな風に、誰かと一緒にいることが、こんなにも大切なことだって気づけた気がする。僕は、楓と一緒にいるとき、自分が少しずつでも楽になれる気がする」
楓は静かに微笑んだ。
「それが大事なことだよ、黎。君が自分を大切にできるように、僕もずっと側にいるから」
黎はその言葉を聞いて、ほんの少し涙がこぼれそうになるのを感じた。楓がいなければ、きっと今の自分はなかっただろう。
そして、その時黎は思った。自分を大切にすること、そして、周りの人々と一緒に歩んでいくことが、これからの未来を明るくする力になるんだと。
その日は、ふたりで過ごす時間が、さらに深い絆を生むひとときとなった。