新しい形
黎は、少しずつ自分を取り戻し始めていた。楓との関係は、どこか不安定でありながらも、確かに温かく包み込むものがあった。彼の言葉や行動、何気ない優しさが、黎の心を支えていた。そして、文化祭が終わった後の静かな日々の中で、黎は自分の将来について少し考え始めていた。
それでも、完全に心の中で整理がついたわけではない。黎はまだ、自分が「普通」とは何か、何が「正しい」のか、という答えを見つけていなかった。それでも、少しずつその答えを探すことはできるようになってきた。
*
ある日、黎は楓と一緒に美術部の活動をしていた。楓はピアノのために作った新しい曲を黎に聞かせたくて、音楽室に誘ってくれた。
「これ、君のために作ったんだ。聴いてくれる?」
黎はその言葉に驚きながらも、興味深げに頷いた。
「え、僕のために?」
楓は照れくさそうに微笑みながら、ピアノの前に座った。指が鍵盤に触れると、静かなメロディが流れ始めた。それは、どこか切なく、でも暖かい感情を呼び起こすような曲だった。
「この曲は、君の“気持ち”を感じながら作ったんだ」
楓の言葉に、黎はその曲が自分へのメッセージのように感じた。音楽を通じて、楓が伝えたかったこと、そして自分に向けられた思いが確かにそこにあった。
黎はしばらく無言でそのメロディに耳を傾け、目を閉じた。曲が終わると、楓は少し照れた様子で言った。
「どうだった?」
「すごく良かった…ありがとう、楓」
黎は心からの感謝を込めて答えた。楓は穏やかな微笑みを浮かべ、軽く頷いた。
「これからも、君が自分らしく生きられるように、僕はずっと応援してるから」
その言葉に、黎は涙がこみ上げてくるのを感じた。楓の言葉、そしてその心からの思いが、黎にとって何よりも大きな支えとなっていた。自分がどんな人間であっても、楓はそのままの自分を受け入れてくれる。それが、黎にとってどれほどの安心感を与えていたか、言葉では表せないほどだった。
*
その夜、家に帰ると、父が居間でテレビを見ていた。黎は一瞬ためらったが、何か言いたくてそのまま声をかけた。
「父さん、少し話があるんだけど」
父は少し驚いた顔をして、リモコンを置いて黎を見た。
「何だ?」
「僕、普通じゃないって思ってたけど、これからは自分で生きていこうと思う」
黎の言葉に、父は静かに考え込んだ。沈黙が続く。黎は、その沈黙の中で自分の思いをさらに言葉にしていった。
「僕がどういう人間であっても、僕が大切にしたいものがある。それを今、少しずつ見つけているんだ」
父は、しばらく何も言わず、黎の目をじっと見つめていた。その眼差しの中には、何かを考えているような、深い思索が感じられた。
やがて、父はゆっくりと口を開いた。
「お前が決めることだ。でも、家の中でも、外でも、自分を大切にしろ。誰かに無理に合わせようとしなくてもいい。でもな、世間の目もある。それだけは覚えておけ」
黎は少し驚きながらも、心の中で安堵感を覚えた。父がどんな言葉をかけてきても、自分が思っていることをしっかりと伝えることができた。そのことが、何よりも大きな一歩だと感じた。
「ありがとう」
黎は父に軽く頭を下げた。
「じゃあ、明日からも自分のペースで生きるよ」
その日から、黎は一層自分の心に正直に生きることを決めた。もちろん、完璧にうまくいくわけではないけれど、少しずつ確実に、自分の道を歩んでいることを実感していた。
*
その後、黎は自分の好きなことにもっと没頭するようになった。絵を描いたり、ギターを弾いたり、詩を書いたりする時間が、黎にとってどれほど大切なものだったかを改めて実感していた。自分の表現方法を見つけ、それを大切にすること。そんな小さな日々の積み重ねが、黎を少しずつ強くしていった。
楓とも、より深く心を通わせるようになり、彼との時間が今まで以上に大切なものになった。二人で一緒に音楽を奏でること、静かな時間を共有すること。それは、黎にとって何よりも心地よいものであった。
そして、黎は再び感じた。自分は、ひとりではないということを。父や母、楓や友達の存在が、黎を支えてくれていることを。自分がどんな人間であっても、受け入れてくれる人たちがいる。それは、黎にとって何よりも大きな力になった。
まだ自分の答えが完全に見つかったわけではない。でも、少しずつ、その答えに近づいている感覚があった。
黎は、新しい一歩を踏み出すことを恐れなくなった。そして、その先に待っている未来を、自分らしく迎える準備が整ったのだ。