揺れる心と未来
文化祭の準備が本格的に始まり、黎は美術部の手伝いとして忙しい日々を過ごしていた。放課後に集まって、部室で飾り付けをしたり、展示する作品をまとめたりする中で、黎は少しずつ「自分がここにいていい」という感覚を持ち始めていた。それでも、心の中のモヤモヤは完全には晴れず、特に楓との関係に対する不安が消えなかった。
「ちょっと待って、これをこうした方がもっと綺麗になるんじゃない?」
黎が話しかけると、楓は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに優しく微笑んで言った。
「確かに、そうだな。さすが、黎のアイデアだ」
楓のその言葉が、黎には嬉しかった。普段、楓はどこか遠慮がちなところがあり、たとえ同じように手伝っていても、黎の意見を尊重してくれることが多かった。そんな楓との距離が、少しずつ縮まっている気がして、黎は心の中で安堵を感じると同時に、何かが胸の奥でざわつくのを感じていた。
文化祭の準備が終わるころ、楓と黎は互いに顔を合わせるたびに、どこかしら微妙な空気が漂っていた。二人の間に言葉にできない何かがあって、それが直接的な言葉ではなく、行動や目線に現れるようになっていた。
ある日、準備が一段落して、ふとしたタイミングで楓が言った。
「ねえ、黎。文化祭の夜、どうしても話したいことがあるんだ」
その言葉に、黎は一瞬どきっとした。楓が言う「話したいこと」が何なのか、心の中でわからないまま、黎はただうなずいた。
「うん、わかった。話す場所があれば、どこでも」
その言葉に楓は少し微笑み、静かに頷いた。
*
文化祭の夜、イベントも終わりに差し掛かっていた。黎と楓は、文化祭の後片付けをしながら、他の参加者と少しずつ別れていった。夕方から夜にかけての薄暗い校舎で、二人は無言で歩きながら、どこか心地よい疲れを感じていた。
楓が歩みを止め、黎もそれに続いた。二人は静かな廊下に立ち、灯りのない音楽室の前で足を止めた。
「ここで、少しだけ話せる?」
楓が静かに言うと、黎は黙ってうなずいた。彼の顔を見上げると、楓の目はいつもよりも真剣で、どこか少し照れたような表情を浮かべていた。
「僕、ずっと思ってたんだ。君はどうして、そんなに優しいんだろうって」
黎は驚き、言葉を探す。しかし、楓はそのまま話を続けた。
「だって、僕のことをいつも気にかけてくれて、でも、君は自分がどんなに辛いかって、ほとんど言わないじゃないか」
その言葉に、黎の胸は痛んだ。自分の辛さを楓に打ち明けられずにいたことが、どこかで楓を悩ませているのかもしれないと思った。でも、そんな風に気にかけてくれる楓の存在が、黎にはとてもありがたかった。
「でも、僕も、君のことが好きだよ。特別だって思ってる」
その瞬間、黎の心臓が大きく跳ねた。楓が言った「好きだよ」という言葉が、黎の中で何かを爆発させた。
「でも、僕、まだそれが“好き”なのか、“ただ救われた”だけなのか、わからない」
その言葉を発した瞬間、黎は自分でも驚いた。自分の気持ちがまだよくわかっていない。それでも、楓には何かを伝えたかった。だから、言葉にできる限りの正直な気持ちをぶつけた。
楓は少しだけ黙って考えた後、静かに言った。
「その気持ち、大切にしていいと思うよ」
その言葉を聞いた瞬間、黎は胸の中で少しだけ楽になった。楓は決して焦らせたり、答えを急かしたりしなかった。それが、黎にとっては一番の救いだった。
「ありがとう。僕、少しだけ楽になったよ」
黎は微笑んだ。その微笑みが、楓には何よりの答えだった。
*
翌日、黎は再び家に帰る途中で思い出した。楓とのやりとり、そして自分の気持ちが少しずつ整理されてきたような気がする。けれど、心の中にはまだわからないことがたくさんあった。自分が本当に求めているもの、そしてどうしてこんなに揺れているのか。
それでも、黎は少しだけ未来に希望を持てるようになった。それは、楓がそばにいてくれるからかもしれない。彼の言葉が、黎の心にしっかりと根を張り始めていた。
帰り道、空を見上げると、やっと秋の風が冷たく吹き始めていた。黎はその風を心地よく感じながら、少しだけ前を向いて歩き出した。
――これから、どんな自分を見つけるのだろうか。
その思いを抱きながら、黎は足を速めた。