心の居場所を探して
黎は次第に、朝起きることができなくなった。目を開けると、窓の外には曇った空が広がっている。昼過ぎの光が部屋の隅に届く頃には、ようやく布団を抜け出す気力が湧く。それでも、身体は重く、足元がふらつく。
学校に行かなくても、何も言われなかった。母は相変わらず、遠くから見守っているだけだった。
そんなある日、黎がひとりで歩いていた校内の廊下に、あの声が響いた。
「おい、黎」
振り返ると、そこには楓が立っていた。背が高く、眼鏡をかけた楓は、いつものように静かに、しかし確かにその目を向けていた。黎は小さく息を呑んだ。どうして楓が、自分に声をかけるんだろう。
「どうしたんだ? 最近、あんまり見かけないけど」
その一言に、黎の胸がぎゅっと締め付けられた。楓は小学校からの幼馴染。ずっと、何も言わずに自分を見守ってくれていた。けれど、最近は、楓の存在があまりにも遠く感じるようになっていた。
「……ちょっと、体調が悪くて」
そう言ってみたが、楓は黙って頷くと、「無理しなくていいからな」と、いつもの穏やかな笑顔を見せてくれた。その笑顔が、黎の胸にじわっと温かさを広げる。
「ありがとう、楓」
「じゃあ、またな」
その言葉を最後に、楓はまた歩き出した。けれど、黎はそのまま立ち尽くしていた。どこか、楓の気遣いがひときわ痛かったから。
美術室や音楽室は、黎の心の隠れ家だった。どちらも人が少なく、誰にも干渉されない。黎は静かにスケッチブックを広げ、思うがままに絵を描いた。心の中に広がる空白を、色と線で埋めるように。
その日も、絵を描くことに没頭していると、ドアの音がした。見上げると、楓がドアの前に立っていた。
「また来たの?」
「……何してるんだ?」
楓は少し戸惑いながらも、その場に立ち尽くしていた。黎は言葉に詰まった。
「別に……描いてるだけ」
楓はそのまま黙って部屋に入ると、黎の隣に座った。何も言わず、しばらく静かに絵を見守っている。その時間の中で、黎は楓がどこか優しく、そして遠く感じられることに気づいた。
「楓、最近……何かあった?」
黎は意を決して尋ねた。楓が自分に気を使っていることはわかっている。でも、楓もまた、何かを隠しているような気がしてならなかった。
楓は一瞬、眉をひそめたが、すぐに表情を戻して言った。
「別に。俺は、いつも通りだよ」
その言葉に、黎は何かを感じ取った。でも、何も言えなかった。楓が無理していることに、気づくのは怖かったから。
紗那との関係は、日に日に遠くなるばかりだった。
最初は、何も変わらないように見えた。けれど、学校での話題が少しずつ変わり始め、いつの間にか紗那との会話も減った。彼女はどこか他人行儀で、黎のことをまるで避けるようになった。
ある日、ついにその理由を知った。
「ねえ、黎。ちょっといい?」
放課後、教室で紗那が声をかけてきた。黎は驚いたが、そのまま彼女について行った。
「私、あのときのこと、後悔してる……」
「……何のこと?」
紗那は目を逸らしながら、言った。
「私、あんなことを話しちゃったこと、すごく軽率だったって思ってる。でも、もう遅いよね?」
その言葉に、黎は何も言えなかった。あの日、紗那が他のクラスの女子に話したことがすべてを変えたのだ。自分の“揺らぎ”が、無意識のうちに広まっていた。
「でも、黎は私にとって大切な友達だよ。だから……」
その言葉に、黎は無言で立ち上がった。何も言わず、何も聞かず、ただその場を去ることしかできなかった。
今、黎にとっての“居場所”は、どこにもなかった。
家に帰ると、母がテーブルに座っていた。黎がキッチンで何かを探していると、母の声がかかった。
「学校、どうして行かないの?」
黎は、心の中でため息をついた。けれど、答えることはできなかった。言葉にするのが怖かったから。
そのとき、兄が帰宅した。大学から帰ったばかりの俊介が、冷蔵庫を開けながら言った。
「俺、今日さ、黎のこと見かけたんだ。どこか、元気なさそうだったけど……」
その言葉に、黎は思わず顔を上げた。兄は、いつも自分の気持ちに気づくのが遅いけれど、こうして不意に言うのだった。
「なんでもないよ」
そう言ったものの、心の中でほんの少しだけ、安心する自分がいた。