崩れる日常
四月の風はまだ少し冷たく、校舎の窓ガラスを鳴らすたびに、黎は小さく肩をすくめた。
高校に入学してから数週間が経つ。教室では誰とも深く話さず、昼休みはいつも屋上へと続く踊り場の階段で、スケッチブックを広げていた。誰にも見られないように。誰からも話しかけられないように。
「紗那、ちょっと……話したいことがあるんだけど」
ある日の放課後、小学校からの親友である紗那にそう声をかけた。紗那の目は丸くなり、すぐに笑って「いいよ」と言ってくれた。その笑顔に、黎は少しだけ救われる気がした。
言葉を選びながら、ゆっくり話した。性別のこと、自分の“わからなさ”のこと、「僕」という一人称が時々他人を戸惑わせること。そして、それでもこうして話せるのは、紗那だからだと。
紗那は一瞬だけ黙り込み、それから軽く笑って言った。
「うん、そっか。でも、黎は黎だし? 気にしすぎじゃない?」
――そのとき、ほんの少しだけ胸の奥がざらりとした。でも、言葉にできなかった。
数日後、変化は静かに、しかし確実に始まった。
すれ違う同級生たちの視線が、どこか刺さるように感じられる。教室で何かが囁かれている。SNSの裏アカで、誰かが自分の噂をしているのを見つけてしまった。
「性別、曖昧って……意味わかんないよね」
「そういうのって、なんか気持ち悪くない?」
教室の隅で聞こえたひそひそ声に、黎は笑おうとしたけれど、喉の奥が詰まって声にならなかった。
放課後。教室に戻ると、机の上に置いていたスケッチブックが床に落ちていた。
ページは無惨に開かれ、何枚かは破かれていた。鉛筆で描いた線が、裂かれた紙の端で途切れていた。周囲には誰もいない。でも、誰かが見た。誰かがやった。それだけは、はっきりとわかった。
翌朝。靴箱で上履きを履こうとした瞬間、足元に冷たいものが流れた。中を覗くと、絵の具が流し込まれていた。真っ青に染まった中敷きが、笑うようにこちらを見ていた。
何も言えなかった。何も、できなかった。
帰宅後、居間のテーブル越しに父と目が合った。
「なんだ、その顔は。高校、入ったばかりで何を悩んでるんだ」
「……別に」
「別に、じゃない。お前な、もっと“普通”にしてくれ。世間体ってもんがあるんだよ」
「普通って、何……?」
ぽつりと漏れた言葉に、父の顔が強張る。
「男なら男らしくしろ。女なら女らしく。それだけだ」
その夜、布団の中で、黎は息をひそめながら枕を濡らした。誰にも聞かれないように。誰にも、見つからないように。
身体が言うことをきかなくなったのは、それからすぐだった。
朝、立ち上がろうとすると、目の前がぐらぐらと揺れる。呼吸が浅くなり、手足が冷たくなっていく。
「学校? 行かないの?」
母が言う。口調は柔らかいが、目はどこか遠い。
「ちょっと、しんどいだけ……」
その言葉に、母はそれ以上何も聞いてこなかった。まるで、見なかったことにするかのように。
起き上がれない日が続いた。布団の中から天井を見上げながら、「どこで間違ったんだろう」と何度も思った。
でも、きっと間違ったんじゃない。最初から、「こう」だったんだ。
ただ、それが「受け入れられない」ということに、黎はようやく気づき始めていた。