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色褪せぬ憧れ

作者: 時輪めぐる

佐々木さんは、ご機嫌なようだ。


「おはようございます。佐々木さん、良い事でもあったのですか?」


「ああ、ワシな、さっき憧れの場所に行って来たんだよ」


 私は、その言葉に微笑みを返す。認知症の人の話を否定してはいけない。


「何処へ行ってらしたのですか?」


 問い掛けながら、配膳していく。


「潮が満ちると孤島になり、潮が引くと広い干潟が現れて陸続きになるんだ」


「へぇ、不思議な所ですね」


 隣の席の山野さんにおしぼりを手渡す。山野さんはお気に入りのセーターにソースを垂らしてしまった。


「それでな、大きな石の門や教会があって、修道院もある」


「ん? それって、もしかしたらモン・サン・ミッシェルのことですか?」


 佐々木さんに顔を向ける。


「お、あんた、知っとるのか」


「写真とかで見たことありますが、素敵な所ですね」


「有名なオムレツもあるんだ」


「お詳しいですね」


「そりゃあ、毎日行っているからな」


「……また、お話聞かせて下さいね。お食事終わりましたから、お部屋に戻りましょうか」




 お昼前の散歩の時間に、佐々木さんの車椅子を押してテラスに出た。小高い丘の上に立つ特別養護老人ホームが私の職場だ。このテラスからは、近くの川と川岸の桜並木が見渡せた。


「佐々木さん、桜が綺麗ですね」


「……ん」


「風が冷たくないですか?」


「……ああ」


 反応が薄い。


「今朝のお話の続き、聞かせて頂けますか?」


「……今朝の話?」


「ほら、モン・サン・ミッシェルのお話されていたじゃないですか」


 佐々木さんの顔がパッと明るくなった。


「映画、昔見たフランス映画」


 脈絡がないが、微笑んで流す。


「どんな映画なんですか?」


 水を向けると、佐々木さんは、饒舌に語り始めた。


「三角関係の話なんだが、ドロドロしていない、不思議な関係だった。映画の中で、主人公の妻は、モン・サン・ミッシェルに憧れていてな。ラストシーン、不思議な関係の三人が馬に乗り、彼方に消えていく背景にも登場するんだ。ワシは、この映画で初めて、モン・サン・ミッシェルを知った。孤島になったり、陸続きになったり。何だ、この不思議な島は、ってな。あの独特の形に心を鷲掴みにされ、美しいと思ったんだ」


 佐々木さんは、映画の登場人物と同様に、モン・サン・ミッシェルに魅了され、強い憧れを抱いたという。




 佐々木さんの話を聞いてから、私はその映画についてインターネットで検索してみた。半世紀以上前の古い映画だった。残念な事に、諸事情で、現在は公開されていないということだった。佐々木さんが熱っぽく語ったので、観てみたいと思ったのだが。


 半年前に入所した佐々木さんは、無口で、他の入所者との交流も無く、ぼんやりと過ごしていることが多かったが、昨日の佐々木さんは、まるで別人のように目を輝かせてモン・サン・ミッシェルについて語った。これを糸口に、佐々木さんとのコミュニケーションを改善できないかと私は考えた。





「父が、そんな話をしたのですか」


 数日後、久し振りに面会に来た息子さんに佐々木さんの話をしてみた。


「父は、中学生の時に、その映画を観た様なのですが、その後、モン・サン・ミッシェルのポスターを買って、自室の壁に貼ったそうです。実家を解体する時に処分してしまいましたが、父の部屋には、その色褪せたポスターがずっと貼ってありました」


「そうなのですか」


「高校生で失恋した時も、社会人になって仕事で落ち込んだ時も、ポスターを眺めて、『いつか行くんだ、負けないぞ』って頑張ったのだと、母に聞きました」


「モン・サン・ミッシェルに行くことが、心の支えになっていたのですね」


「ずっと行ってみたかったけれど、仕事や生活に追われて、行けず仕舞いで。定年退職したら、母と一緒に行くのだと言っていましたが」


「が?」


「母が、亡くなったのが退職直後で……」


「……そうでしたか」


「しばらくして、父は倒れ、脳血管障害による認知症になってしまって。後はご存じの通りです」


「何というか、言葉がないですね」


「僕は、都会の大学を出て、そのままそこで就職し、結婚したので、こちらにはあまり帰って来られませんでした。そうしている内に、母が亡くなり、父が倒れて、何の親孝行も出来ずにいます」


 息子さんは悔いの涙を噛み締めた。


「二人が元気なうちに、休暇を取って連れて行ってあげれば良かったと思います」


「……佐々木さん、もう起きたのではないかしら。お部屋に行きましょうか」




「佐々木さん、息子さんが見えましたよ」


 息子さんと一緒にお部屋に入る。


 佐々木さんは、息子さんが誰か分からないようだったが、私に笑顔を向けた。


「またモン・サン・ミッシェルに行ったよ。今度は母さんと一緒にな。二人とも若くて元気だった。ワシは、息子が初任給で買ってくれた帽子を被り、母さんも、息子に貰ったカーディガンを着ていた。干潟に立って、記念写真を撮ったよ。『想っていた通り、素敵な所だわ』って母さんが言った。ずっと、憧れだったモン・サン・ミッシェルに一緒に行ったのだよ」


 佐々木さんの息子さんは、肩を震わせて泣いた。

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