第1章第1話
僕は、22歳になっていた。
両親も亡くなってしまったから、特にこの街にいる必要もなかったのだけどどこか別の場所へ行きたいと言う気持ちもなく、生まれ育ったこの街で一人暮らしを始めていた。
大学を卒業して新卒で地元の郵便局に勤めていた。
兄が、郵便局に勤めていたからだ。
人手が足りているような場所ではなかったから、突然兄がいなくなって郵便局は大変だったと思う。
罪滅ぼしの気持ちで兄がいなくなってからバイトが出来る年齢になったらバイトをして、そのまま正社員にさせてもらった。
「そういや今日は、スーパーブルームーンの日ですなぁ」
「そうでしたね、娘が朝から騒いでいましたよ。スーパーブルームーンの日は不思議な出来事が起きる、幸せになれるなんて言う迷信があるんだとか」
「へぇ。最後に見えたのは、10年前でしたっけ」
「確か、蒼汰さんが辞めたのも10年前でしたねぇ」
「もうそんなに経ちますか」
他の店員とお客さんがそんな会話をしているのが聞こえてきた。
会話の内容は、スーパーブルームーンから兄へといつの間にか変わっていた。
兄は、お客さんからも従業員たちからも好かれていたのだ。
みんな、兄が辞めたと知るととても悲しそうな顔をしていたのを覚えている。
10年経ってもこうして話題に上がる兄は、未だにみんなに愛されているのに真実を伝えられないのがもどかしい。
「海流さん、お兄さんとは連絡を取っているんですか?」
「え、あ、まあ、時々……」
急に話しを振られて、変な声が出てしまったし嘘をついてしまった。
兄とは連絡を取っていない。メッセージを送ろうとしてもエラーになってしまうのだ。
だけど、兄は生きていると信じている。
みんなには、兄は夢を追いかけるために東京に出たと言ってある。
「元気でやっているなら良いんですけどね」
「たまには帰って来てくれると嬉しいよねぇ」
「そうですね」
僕は適当に返事をしておいた。
今日の仕事も無事に終わり、自転車に乗ろうとしている時に声をかけられた。
「海流さん」
声をかけてきたのは、吉川杏樹さん……兄の同期で兄のことを好きだった人だ。
「何ですか?」
「本当に、蒼汰さんと連絡取ってますか? 本当のところ、蒼汰さんはどこへ行ってしまったんですか?」
まるで、僕が嘘をついているのを見抜いているかのような口ぶりで僕の心臓は変に高鳴った。
別に、本当のことを話したからと言って何かが起きるとかそう言う訳ではないけれど、何となくこのことは兄と2人だけの秘密にしておきたかったのだ。
「何でそんなこと聞くんですか。兄とは連絡を本当に時々ですけど取っています」
「……そう、ですよね。すみません。疑うようなことを言ってしまって。気にしないでください」
お疲れ様でした、と言って吉川さんは去って行った。
僕は何とも言えない気持ちで、自転車を漕いで家への道のりを走った。
僕が生まれ育った街は本州最南端の街、和歌山県串本町。
海と緑に囲まれたとても長閑で落ち着いた良い街だ。
何となく真っすぐ家へ帰る気持ちになれなくて、お気に入りの潮岬へと向かった。
潮岬は、ちょっとした公園になっていてベンチや東屋があり、ぼんやりするには打ってつけの場所で僕はよく来ている。
自転車を近くに置いて、ベンチに座り、海を眺めた。
陽が暮れる前の海は、美しくて何となく写真を撮った。
物心ついた頃から眺めている海で、飽きるほど見ているはずなのに綺麗だなと言う感情は薄れることはない。
ぼんやりしていたら陽はすっかり暮れて、噂のスーパーブルームーンが姿を現した。
青い、青い、大きな月。
月の中へと吸い込まれてしまいそうなくらい幻想的で、美しくてこんな月が見える日には確かに不思議な出来事が起きてもおかしくはないかもな、なんて思った。
ふっと月から海へと視線を下ろした時に、見慣れないものが目に入った。
「ん? あれ、何だ……?」
スーパーブルームーンの真下にぽつん、と見たことの無い島が突然現れたのだ。
僕は思わず、ベンチから立ち上がった。
さっきまではなかったはずだ。僕は先ほど撮った写真を見た。
やっぱり、そこには何もなかった。
だけど、今は確かに目の前に島がある。
「もしかして……」
あの島が、兄が見つけたと言っていた〝ネペンテス島〟だろうか。
僕は、慌てて10年前に兄から届いた写真をスマホのフォルダから遡って探した。
「あった」
写真をタップして遠くに見える島と見比べてみた。
確かに、兄から送られてきた写真に写っている島と同じだ。
特徴的な断崖絶壁の丸い島。
あんな島が普段からあれば、話題になっているはずだし気づかないはずがない。
僕は今、初めてその島を見た——
だから、きっとあの島が〝ネペンテス島〟なのだろう。
そう、僕の中で確信づいた時にポケットに入れていたスマホが震えた。
何となく僕は兄からではないか、と思いながらスマホを取り出し、通知の名前を確認した。
「兄さん……」
やっぱり、届いたメッセージは兄からだった。
この10年何度か試してみても送れなかったのに……何故、突然?
僕は震える指で、メッセージを開いた。
『久しぶりだな、海流。今、お前にもネペンテス島が見えているはずだ。この島は最高に良いぞ。俺は、この10年幸福すぎる日々を送っている。今日を逃すと、お前が再びこの島を見られるのはまた10年後だ。若い内に来ておいた方が良い。俺は、愛する弟に会えることを願っている。お前ならきっと来てくれるはずだと信じている。待っているからな!』
届いたメッセージはこれだけだった。
今、兄はどこで何をしているのか。ちゃんと生きているのか。兄はどうして戻ってこないのか、ネペンテス島とは何なのか。
疑問はたくさんあるのに、何一つ疑問に対する答えはメッセージには書かれていないし、これ以上のメッセージが届く感じもなかった。
僕は、もう一度スーパーブルーム―ンの下に浮かぶ島を見つめた。
ちょっとだけ怖い、と言う気持ちもある。
だけど、その気持ちよりもずっと疑問の答え合わせをしたい、と言う想いの方が勝ってしまっていた。
僕は、兄に似て好奇心旺盛なのだ。
気になったことは、そのままにしておけない。
このまま、見過ごしたら次にネペンテス島を見られるのは10年後だと書かれていた。
10年、また悶々としたまま過ごすなんて耐えられる気がしなかった。
「兄さん、決めたよ」
僕は、兄さんがいるネペンテス島へ向かう。
僕は、兄さんにメッセージを送った。
『そっちへ向かうよ。でも、どうやって行けば良いの?』
10年ぶりのメッセージのやり取りとは思えない簡素な内容だな、と思ったけれどこれから会えるのだから今は必要最低限のことだけで良いのだ。
すぐに返信はきた。
『岸に渡り舟が置いてあるはずだ。それに乗れ。お前が乗ったら自動で動くようにしてもらっている』
意味が分からない内容だけど、今は気にせずに言われた通りにすることにした。
潮岬公園の下の海岸に、渡り舟が置かれているのが目に入った。
きっと、あれのことだろう。
幸いにも、今は夜でこの辺り人はいない。
だけど、いつ人が来るかも分からないので僕は早歩きで海岸へと向かった。