十月の出来事B面・⑥
「つまらない男だよ」
そう兄は評した。
「つまらない男ね」
これは先日辞めた元同僚からの評判。
「つまらない男性ね」
これは同級生だった頃からの友だち。
「…、つまらん男だ」
この不愛想に断じたのは父だ。
「まあ、つまらない人みたいね」
母までそう言った。しかし決まってみんなはこう付け足すのだ。
「でも真面目でいい人じゃない。それに、二人ともお似合いですよ」
まあ細かな言い回しなどは相手の年齢性別で変化するが、概ね同じ内容である。
(でもそれって、私も『つまらない女』って言われているような気がする)
高橋和子は窓の外を流れる夜の町並みを見おろしながらそう思った。
夜闇を走る国電の窓ガラスには、車内の明るさのせいで自分の顔が映っていた。
たしかに自分は、裕次郎と結婚して引退した北原三枝には程遠い面差しだ。吉永小百合とは同じ性別では無いかもしれない。その二人と共通点を探しても、自分も向こうも目が二つに鼻と口が一つずつ程度である。
こんな女で、相手のクサマさんに申し訳なくなる。
和子の目からは浜田光夫か、昨年亡くなった赤木圭一郎に見えるクサマさんも、学生時代から彼を知っている兄に言わせると、そういう映画スターとは同じ種類の動物と思えないらしいのだが。
自分の容姿を見ていられなくて、顔を車内へ戻す。
そこには中肉中背の男が立っていた。
彼が和子の婚約者であるクサマさんだ。学生時代に柔道をやっていたせいか、ちょっとガニ股(しかも短足)アゴはがっしりと四角く、笑うと目が頬肉に埋もれて無くなってしまう。
いまちょっと顔が赤いのは、今日定年退職する他部署の係長を送り出した飲み会の帰りだからだ。
お弁当箱のような四角い顔が、ニコニコして彼女を見おろしていた。
「和子さん。どうしました?」
声に酔いは感じられない。というか乱れた彼を和子は見たことが無い。和子の前で彼は紳士なのだ。
そんな彼に、まさか自分の容姿に嫌気がさしていたなんて口にすることも出来ず、和子はシートの上で少し尻の位置を変えて誤魔化した。
「ちょっと、いつもより揺れません?」
「ほら地震があったでしょ」
人好きのする笑顔のままで教えてくれた。
「それで遅れているから、もとの時間に戻そうと急いでいるのだよ」
「あれ?」
自分が聞いた話とは違うような気がして、和子は大きな目をパチクリと瞬いた。
「私は、どこかで脱線事故があったって」
「それって仙台より向こうの話しだよ。関係あるのかなあ」
和子の意見を否定するのではなく、やんわりと受け止めてくれる。
「ま、気は優しくて力持ち。ヤツなら和子の事を任せられるよ」
兄が押してくれた太鼓判を思い出す。
柔道家だった割には、男は少しバンカラぐらいが元気のあってよろしいとかいう考えでもなく、さりとて洗練され爽やかなハイカラという感じでもない。長年じっくりと自然と向き合って来た農夫のような優しさを持つ男性。それがクサマさんだった。
「あれだよ、あれ」
近所の口が悪いオバサンなんかは、和子を見てこう評した。
「和子ちゃんもあれよ。番茶も出花って言うじゃない」
(もう出花という歳でもないのだけど)
就職して七年。他の同僚が寿退社で消えていくオフィスで、いつの間にか和子の嫁き遅れを、周囲が心配するようになっていた。
クサマさんの方も、仕事一筋十年目。そろそろ自分のやりたい事が見えてきた働き盛り。
そんな二人が同じ職場にいて、誰かが間を取り持ったのかと思えば然にあらず、いちおうクサマさんの方から告白された形となっていた。
こんな娘のどこに惚れたのか、照れてやたらと頭を掻き掻き、ある日の退社する帰り道に花束を渡されたのだ。
兄の学友として顔ぐらいは知っている間柄であったが、まさかこんな自分に恋心を抱いているなんて、まったく分からなかった。
この時は花束だけを有難く頂戴して、答え自体は保留にしてもらった。
なにせ和子の身の上を心配した部長が、お節介にも用意した見合いの席が、翌週に控えていたからだ。これが学生気分の抜けない就職二年目だったら簡単に自分の都合を優先させるのだろうけど、社会人として上司の顔を潰すわけにはいかないではないか。
そして迎えた見合いの席。ホテルのレストランという慣れない場所で硬くなっていると、自分以上に硬くなっているクサマさんが反対側の席に現れたのだった。
まあこのままでは結婚できないから誰でもいいやと、それまで相手の釣書をちゃんと見なかった自分も悪い。しかし「自分には決めた相手がいるから、断ることが前提です」と和子の釣書を見なかったクサマさんもどうかと思う。
今では共通の笑い話だ。
ここに至って和子も、自分の運命の相手とクサマさんに感じる物があり、晴れて二人は交際を始めた。
付き合い始めてもクサマさんは和子の思った通りの人だった。照れ屋なところがあって並んで歩くのは比較的に嫌がる。そんなところも彼らしいではないか。
一度だけ、彼が思いも寄らない行動に出たことがあった。
上野で映画を見た帰り道。夕暮れの迫る公園で、半ば強引に迫られたことがあった。
「もう結婚するのだから、そういったことも考えておきなさいね」
と母から一箱渡された時は、彼に限ってと思ったものだが、いざ迫られてみると恐怖の一言であった。
なにせ元柔道家。掴まれたら逃げ出せない。
その時は熱い抱擁と、キス程度で解放してくれたが、あれが男の人の腕力かと驚いたものだ。
まあ、いずれ結婚して子作りまで致すことになるのだが、もうちょっとだけ母でもなく妻でもない、女の時間を持っていたかった。
(我儘だろうか?)
電車のシートに座ったまま、相変わらずニコニコと優しい笑顔を向けてくれるクサマさんを見上げる。
おそらく今の心情を打ち明けても、クサマさんなら許してくれる気がする。でも彼も男として、あれやこれや色々と悩んでしまうかもしれない。
慌てることは無い。いずれ結婚して二人で暮らすことになるのだ。
あの時は、見た映画が悪い。石原裕次郎演じた次郎と、浅丘ルリ子が演じた久子に、影響されていたのだ。そう思うことにする。
鉄橋を渡った電車は、駅へ滑りこんだ。
クサマさんは終点で乗り換えて、さらに山手線で二駅行ったところに住んでいる。和子の実家は終点の一つ手前だ。
そういえば二人の新居はどうするか、それでも迷いがあった。
会社の都合を考えれば、事務所に近い江戸川あたりが便利なのだろう。しかし和子の両親が「かわいい娘」を手元に置いておきたいらしくて、両家の中間に位置する鶯谷に物件を見つけてきていた。
クサマ家のご両親は、自分たちとの同居が希望であった。クサマさんは長男なので、いまある屋敷を(といっても豪邸ではなく、二階建てのよくある文化住宅であったが)引き継いでもらいたいと言われた。いまだ学生運動などと落ち着かない末の弟さんは、体よく放り出す寸法らしい。
同居となると、世間で言われる嫁と姑の戦いが和子に待っていることになる。それだけが不安だ。まあ温厚なクサマさんで分かるように、義母となる予定の婦人も温厚な方であるようだが、人は見かけでは分からないとも言うし…。
クサマさん自身は、場所には意見がまだないが、せめて新婚の間だけでも二人で生活したいそうだ。
(そろそろ、そういったことも決めないとなあ)
和子は考え事をするために、また窓の外へ目をやった。
左手にある貨物駅では、こんな夜だというのに、小さな凸形のシルエットをした機関車が、照明塔に照らされてチョコチョコ動いていた。
駅を出るとすぐに右カーブ。それから次の駅まで高架の上に直線だけしかないから、電車は飛ばしに飛ばす。それを分かっているクサマさんは、心持ち足を広げて揺れに備えたようだ。
(そういえば)
決める事は、まだまだある。とくに新居と並んで問題になっているのが、結婚披露宴を行う場所だ。
両家は都内に家があるから、上野辺りのホテルでどうかという話しもある。しかし会社の人間には隣県住まいの者も多い。そういう方々にわざわざお越し願うのも悪い気がする。
そうかと言って、会社の周囲にこれといっていい式場があるわけでもない。
まあ芦屋兄弟と大村崑のテレビ結婚式みたいに派手なことは求めないが、結婚式と言えば女には一生に一度の晴れ舞台である。
「疲れたのかな?」
景色を眺めてばかりいる和子に、クサマさんが心配そうに話しかけてきた。
「だ、だいじょうぶ」
慌てて振り返る。四角いお弁当箱に貼りついたヒジキのような眉が寄せられていた。
「そう? それならいいけど」
和子の一言だけで、安心した笑顔を取り戻すクサマさん。その微笑みに幸せを感じる和子。
(ああ。私は、この人となら一緒に歩んで行ける。きっとこれからも色々と嫌な事もあるのだろうけど、クサマさんなら支えてくれるし、また私も彼の支えになれればいいな。そして…)
和子の脳裏に小さい子供に囲まれる自分の姿が浮かぶ。
(お母さんは男の子と女の子が一人ずつで楽しかったわと言っていたけれど…)
自分とは似ても似つかない兄へ思いが行く。
(小さい頃は振り回されたけど、お兄ちゃんはあれで私を守ってくれた。あんな様になればいいな)
いつだか食事の時に話題にした将来の事。クサマさんは、子供は授かっただけ何人でも欲しいと言っていた。
(けれど、まあ二人から三人が常識よね)
文化住宅の庭で洗濯物を干す自分。足元で妹の世話をする小さな男の子。そんな幸せ。
窓に映る自分に重ねていたそんな夢が、突然のブレーキで打ち破られた。
「うおっ」
慣性のままに前へ放り出されそうになるのを、踏ん張って耐えるクサマさん。シートの背中に爪を立てる和子。
「きゃああ」
誰かの悲鳴。もしかしたら自分が上げていた声かもしれない。
聴覚を圧倒するような電車のタイフォンの音。
なにが起こっているのか瞼を開いた和子の視界に、普段ならありえない物が通過した。
窓の外から投げつけられるように沸き上がる赤い液体、白い肉片、そして人間の部分。手足、指、そして首。驚いた表情のままの顔と、和子は目が合った。
(なにがおきているの?)
疑問が沸き上がった直後、衝撃と共に和子は粉砕され、描いた夢は叶うことはなかった。