一人、一人。
「ねえちゃんはっ!?」
武志は目を覚ますやいなや、そう叫んで上体を起こした。
弾力のある物の上にいたらしく、飛び起きた反動で身体がゆれる。
「わっ、」
「大丈夫ですか!?」
すかさず、後ろに倒れそうになった身体を支えられた。大切そうに背中にそっと手を添えられて、「気をつけて下さい」と囁かれる。同時に、ずり落ちた柔らかい布を身体に掛けられた。
「あ、ありがと……じゃなくて!」
反射的にお礼を言ってしまい、そんな場合じゃないと武志は目の前の男に詰め寄った。
「ここ、どこだよ!ねえちゃんは……あんなことして、あんた、あんなことして!今、姉ちゃんは無事なのか!?」
男の、銀の瞳を睨みつけながら詰るように言うと、ふい、と視線を逸らされる。
「イーシャ様の、お連れの方は――まだ、ここに着いてはいません」
「だから、ここって!どこなんだよ!」
「神殿です」
言われて、そういえば、と武志は気を失わされる直前の会話を思い出す。
この、目の前のアレックスとか言う騎士は、姉を信じられないとかなんとか文句をつけて『守護騎士』かどうか試す、だなんて言って。姉をあの森に一人、置き去りにしやがったのだ。
「なんで、オレたちを信じられない、だなんてっ……、」
「私はイーシャ様が……あなたさまが、信じられないと申し上げたのではありません。私が信じられなかったのは、あの男です」
「でも、でも、あの人は、ほんとに血のつながったきょうだいでっ」
「それが信じられない、と言っているのです」
悔しさのあまり、アレックスの胸倉をつかむ――が、非力な今の武志ではまるで縋るような仕種になってしまった。
ぎゅうっと握りしめた手の上に、大きな男の手がそっと添えられる。
「あまりきつく握られては、手が痛んでしまいますよ」
「……っだれの、せい、で!」
あくまでも穏やかに声を掛けてくる男に、己の意が通じない苛立ちが募る。
やんわり外された手を振り払い、今度はアレックスの胸を叩いた。
「きょうだいだって、言ってるだろ!なのに、全然信じてくんねーで!!ねえちゃんを、あんなところで一人にするなんて……ッ」
きっと下から顔を見上げていると、アレックスの顔がじんわりと赤らんでいく。
整った顔立ちなのに口だけへの字に曲げて、なんとも複雑な表情になった。
どんどん、と力強く叩いたつもりだったが、ポカポカとまるで子供がじゃれているように思われたのだろうか。
――失礼なやつ!!
武志はせめて彼の頑固な誤解を解こうと、再びぐい、と詰め寄った。
動いた拍子にまた、はらり、と上掛けが落ちる。それをやはりアレックスがすっと掴んで武志にかけた。
先ほどより赤みが増したアレックスの顔が、今度は誤魔化しようがないくらいしかめっ面になる。
「なんだよ!――そんな怖い顔したって、む、無駄だからっ」
「その……、あまり……、近寄られては、」
「は?聞こえないんだけど!」
――不機嫌な顔したって、言いたいことは言ってやる。ちゃんとオレと麻耶姉ちゃんは二人でこっちに飛ばされてきたんだって、納得してもらわないと!
武志は決意も新たに、座り直すと、びしっと言い渡すつもりでアレックスに口を開いた。
「何度も言ったけど!オレと!あの人とは!ちゃんとした、きょうだいです!あの人は、麻耶ねーちゃんと言って、正真正銘、オレの大切な姉貴です!この世界に来る前、オレも姉ちゃんも、多分神様みたいな人に会う夢だって見ました。オレも、姉ちゃんも、です!!」
――決まった!
ちゃんと言えたぞ、とこのとき、武志は若干ドヤ顔になっていたかもしれない。
だが、それはすぐさま水を差されることになった。
「だから――『それ』です」
「へ?」
「あなたの、……イーシャ様の、そのお言葉が、あの方をどうしても信じられない理由なのです」
「それって、どういう――」
「あなたは、あの方を『姉』と呼ぶ」
「しかし、どう見ても、あの人は我々からすると立派な成人男性です」
――え、そこぉおおおッ!?
がーん、と。
効果音を入れるなら、ピアノの鍵盤の左側を全部ぶちつけた重低音が鳴り響いていた。
「そ、んなこと、で……」
よろり、と身体がふらついたが、もはや当然のようにアレックスによって支えられた。
驚愕のあまり、武志はしばし呆然としてしまう。
「そんなこと、と仰いますが……。あなたが、あの男に幻術を掛けられたのでないと、どうして断言できますか」
「げん、じゅつ、」
「めくらまし、あるいは洗脳、または単純に騙されているだけ、とも考えられます」
「そんな……」
「あなたは、この世になくてはならない尊い御身。ですから、あの男が、イーシャ様を幻術にかけ、大切な『姉君』を騙っているのやもしれぬ、と。どうしても思わずにはいられなかったのです」
「で、でも、」
「もちろん、」
アレックスは言葉を一旦切って、武志の様子を伺うように慎重に切り出した。
「『異世界』から飛ばされた方々の言葉遣いは独特であり、我々とは異なっていることも、通じないこともある、ということは存じています。だから、あなたが『あね』とお呼びになっているのは我らの世界では『あに』である、もしくは単に言葉慣れぬイーシャ様が言い間違えただけなのでは、とも、考えられました」
アレックスの筋の通った言い分に、ぐうの音も出ない。
しかし、麻耶が本当の姉であることは覆しようのない事実で、そのことを納得してもらわないことには、麻耶を助けることもできない。
――こうなったら、正直に言うべき?
二人の性別がトリップで変わってしまったことを、アレックスに打ち明けようか、と。
「じ、じつは……、」
そこまで言葉が出かかって。
武志は、口を噤んだ。
ここで全てを打ち明けたとして。
武志が、本当は男なんだ、と言ったとしたら。
「あ、の……、」
召喚した聖女が、実はあちらの世界では、女ですらない。
平々凡々とした19歳の男に過ぎなかった、なんてことがばれたら。
「あ……、」
「イーシャ様、どうされましたか」
――言えない!
言えない、と思った。
言える、わけがない。
自分がこんな風に、この男に大切にされているのは、まがりなりにも「聖女候補」だと認められたからだ。
「う、……、」
言えないまま、武志は俯いて。
結局「言い間違えていたんです」、と言った。
「でも、信じて、くださ、い。彼は、本当に大切な人なんです」
小さな声で付け加えたそれを、アレックスはきちんと聞き取ってくれたのだろうか。
「言い間違い、でしたか。……あなたが、そこまでおっしゃる存在を、これ以上疑おうとは思いません」
溜息まじりに、なだめるように声を掛けられ、それがかえって武志に己の無力さをつきつけてきた。
武志には、何もできなかった。
たった一人にされた姉を、助けることすら。
それが、こんなにも、こんなにも。
「く、ゃし、い。……めん、に、ちゃん、ごめん」
麻耶は強い。
強くて、そしていつでも武志を支えてくれる、優しい姉だった。
小さい時に弱虫でなかなか友達ができなかった武志を、豪快に連れ回して世界を広げてくれたのも麻耶だ。
高校卒業するとき、進路はと聞かれて、絵を描きたいと言った武志。学校の先生も家族の皆も、周り中が反対したが、姉の麻耶だけは「やりたいこと、やりゃいいじゃん。後悔するよりよっぽどいい」と言って応援してくれた。
美大か専門学校へ行くお金を貯めるためにフリーターになる道を選んだ時も、姉がいたから家族から孤立することもなかった。
「ね……、まや、にい、ちゃ、ん」
とうとう、ほろり、と。
目から零れていくしずくに、武志自身が驚く。
生理的に流れたものだ、と思い込もうとするが、ほろりほろり、と。
一度流れ始めた涙は、とまらなくて。
武志のせいいっぱいの意地っ張りを台無しにしてしまう。
異世界に飛ばされたって、頼りになる姉がいてくれるからこそ、なんとかなるかもしれない、と思えた。
女性の身体になってしまった!とパニックに陥ったときも、男の身体になった麻耶が存在したことで、異世界トリップってこんなものか、と早々に受け入れられた。
――でも、ひとりになっちゃった。ねえちゃんも、助けられなかった。
「うッ……、っく、ひっく、っく、ふ、」
たまっていたのだ、これでもいろいろと。
事故に遭って異世界に飛ばされて女になって見知らぬ男に聖女と呼ばれて姉を奪われ馬に乗せられ気を失わされて見知らぬ場所で一人きりになった。
一日で全部を体験して、飲み込めって方が無理というものだろう。
「……その、疑ってしまって……、すまなかった」
申し訳なさそうにアレックスに言われ、
――いまさらかいッ!
すかさず突っ込んでしまったけれど。
「泣かないで、くれ」
彼に、そっと背を撫でられると、もうダメだった。
うわあん、と、子供のように盛大に泣いてしまう。
いま、武志に出来ることなんて、ほんとうに何もない。
理不尽に置き去りにされた姉を思えば、自分がこうして神殿に「保護」されているのは、まだましな境遇なのだ。
ならば、せめて、自分にできることは。
姉がここに着たとき、二人の待遇が少しでも良くなるように、せいぜい「聖女らしく」みえるように振る舞うしかないだろう。
――ねえちゃん。どうか、無事でいてくれよ。
わあわあ、とアレックスの胸を借りて泣きながら、武志は麻耶のために男らしく決意した。
――ねえちゃんのために、頑張って媚びるからな!!
武志は最初に「媚びろ」と言われた姉の言葉を律儀に覚えていたのだった。
週末の更新、がんばります。