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窓の外では大粒の雨が降っている。アクレスは一つくしゃみをすると、窓のカーテンを閉めた。
「あの時から……ずっとこのまま……?」
その言葉に、アクレスは短く「あぁ」とだけ答えた。
ここはシスティアの入院している病室である。ユドラーの事件による負傷者もほとんど退院しており、この病室も随分と静かになった。
「目を覚ます見込みは?」
「なんとも言えんらしい。明日、目を覚ましているかもしれないし、このまま目覚めない可能性もある。」
「そんな……」
彰は白いベッドで静かに呼吸するシスティアを見て拳を握り締める。
「俺のせいで…………」
こうなってしまったのは、敵の罠と知りながら、その中へ飛び込んだからだ。そして、飛び込む決断をしたのは、他ならぬ彰自身だ。
「エリさんは感謝してたぞ。」
アクレスはそう言うと、震える彰の肩を叩いた。
「……え?」
「無事、夫のケイロンさんにも会えたそうだ。お前たちの行動が全て無駄だったわけじゃない。それに……。」
アクレスは一度言葉を止める。
「それに、こうなった原因は俺にもある。だが、それをどれだけ悔やんでも、過去を変えることはできない。」
見上げたアクレスの横顔は、どこか遠くを見つめていた。
五年前、アクレスは多くの戦友を亡くし、名前も知らない敵国の人間をその手で殺してきたのだ。同じような、いや、これ以上に苦しい経験を数えきれないほどしているのだろう。
「俺たちのすべきことは、このまま病室で後悔し続けることだけじゃない。まずはできることをやるんだ。未来なら、まだ俺たちでも変えられる。」
彰は握り締めた拳をほどいて、腰に提げた剣に触れた。
今の彰にできること。
それは、強くなることだ。これ以上失わないために。大切な人を守り抜くために。
「アクレス。」
「なんだ?」
「俺を強くしてほしい。アクレスと同じくらい、俺を強くしてほしいんだ。」
すると、アクレスは彰の頭をガシガシと撫でて笑った。
「同じだと? 弟子なら師匠超えてみな。」
彰は剣の柄を握り締めると、黙って頷いた。
◇◇◇
「こちらでお待ち下さい。」
「ど、どうも……。」
リリアは黒服の執事に礼を言うと、勧められたソファに恐々と腰を掛けた。ギシ、と軋んだ音が鳴る。かなり古いものらしく、ソファの脚を見ると修理した跡が残っていた。
こんな場所に来たのは、大昔に父親が貴族の暗殺を依頼されたとき以来だ。まともに招待されたのは、当然ながら初めてである。
大きな窓の外では、鉛色の雲から黒い雨が降り続いていた。
「紅茶でございます。」
「ど、どうも……。」
目の前の机にティーカップが置かれた。
こういう場には作法があるというのを聞いたことがある。果たして、この紅茶は口を付けても良いのだろうか。何が失礼に当たるのか、全く見当がつかない。
まだ玄関から応接間に通されただけだというのに、既に胃に穴が空きそうだ。
ここは中央都にあるシルヴァの邸宅である。
シルヴァという男から招待されている、とアクレスから聞いたとき、まさかこれほど豪華な館に招かれるとは思ってもみなかった。アクレスの知り合いならば、きっと間の抜けた軍人だろうと高を括っていた自分が恨めしい。
なぜ、招待されたのか。
そこまではアクレスも聞かされていなかったようで、いくら聞いても首を傾げるだけだった。そもそも、なぜ招待されたのがリリア一人だけなのかも分からない。
執事の目線を気にしながらカップを手に取ると、産まれて初めての紅茶を僅かに口に含んだ。味も香りもよく分からない。
リリアが額の汗を拭うと、ガチャリと応接間の扉が開いた。
ぴっしりとした軍服に身を包んだ軍人が部屋に入ってくる。白髪の量から察するに、かなり偉い人なのかもしれない。
リリアはすぐに立ち上がると、その男に深く頭を下げた。
「ど、どうも……。」
玄関を抜けてから、いや迎えの馬車に乗ってから、同じ言葉しか言っていない気がする。
「こちらこそ。本来であれば私が向かわなければならないところを、雨の中わざわざ来ていただいて申し訳ありませんでした。」
「い、いやいや……、別にそんな………。」
その男は優しく笑って席を勧める。リリアはぎこちない動きでソファに腰かけた。
「初めまして。私はシルヴァ・ロイアーと申します。」
「リリア・ジュピター……です。」
名乗ると、向かいに座ったシルヴァは黙ってリリアの顔を見つめた。
「あ、あの……?」
「あぁ、申し訳ない。まず、何故ここへ招待したのかを説明しなければいけませんね。」
シルヴァはそう言って少し黙り込んだ。
「……ひとつ。私はあなたに謝らなければならないことがあります。」
「謝る?」
「えぇ。あなたの父親に関することです。」
それを聞いてリリアは固まった。
鴉をこの手で殺し、もはや父親の死の真相を知ることはできないと諦めていたリリアにとって、シルヴァのこの一言は衝撃だった。
この男は父を知っている。リリアの知らない、父の姿を知っているのだ。
「教えてください! アタシの父親は……」
「少し待ってください。」
シルヴァはリリアを制すと、執事に部屋から出ていくように言った。そして、部屋の外に人が居ないことを確認すると、再び椅子に座る。
「これから話すことは一部の人間しか知らない情報です。決して他言しないように。」
リリアがそれに頷くと、シルヴァは静かに語り始めた。
「プロド、あなたの父親とは、二十五年ほど前にこの屋敷で出会いました。当時、彼は駆け出しの盗賊で、私の家の財産を狙っていたそうです。恥ずかしながら、私はその時になって初めて、この国にある大きな貧富の格差を実感しました。」
それから、シルヴァは軍に居ながらも格差是正のために奔走し、とある組織の噂を耳にした。
その組織こそ、九頭龍である。
その存在が大いに危険だと判断したシルヴァは、かなり親しくなっていたプロドを密偵として雇い、その組織へと侵入させたのだ。
シルヴァはそこまで語ると、一つ息を吐いた。
「……今から考えれば、上官にユドラーが居た時点で、九頭龍の壊滅は不可能でした。彼は集会が行われるという場所の情報を残し、我々が向かった時には既に……殺害されていました。彼は……私のせいで死んでしまった………!」
シルヴァは震える拳を左手で覆う。そして、リリアを見ると深く頭を下げた。
「リリアさんが蜘蛛の娘だと聞いて、居ても立ってもいられませんでした。きっと、私の想像もつかないような苦しい生活を送ってきたと思います。私は彼から命を奪い、あなたからはたった一人の父親を奪ってしまった……。」
シルヴァの目から涙がこぼれた。
「謝ったところで許されることではありません。きっとプロドも私を恨んでいるでしょう。もちろん、リリアさんにも許されようなどとは思っていません。ただ、あなたには直接、私の口から伝えておきたかった……。」
リリアはしばらく呆然として、ティーカップの中で波打つ紅茶を眺めていた。そこで初めて、紅茶の柔らかい香りに気付いた。
「あ……、顔を、あの、上げてください……。」
我に返ったリリアは慌てて言った。
そして、また少しの間目線を落とすと、静かに口を開いた。
「父は暗殺者と名乗っていましたが、いつも失敗ばかりで相棒の男に怒られていました。アタシは失敗ばかりの父に、どうして暗殺者になったのか聞いたことがあります。……その時、父は『ある人の役に立ちたい』と答えました。『その人に尽くすことが、俺でもできる唯一の善行だ』と。」
リリアはシルヴァの目を見る。
「その時は分かりませんでしたが、たぶん父の言っていた相手はシルヴァさんです。父は、きっとシルヴァさんを恨んでないですし、むしろ誰かの役に立てて嬉しかったと思います。もちろんアタシも恨みなんてありません。」
リリアは提げていた青い首飾りを手に取ると、それを見つめて言った。
「ここまで生きてきた道のりは確かに苦しかったけど、苦しいことばかりじゃなかった。シルヴァさんが気に病むことなんて、何一つ無いですよ。」
「………そう……でしたか。」
シルヴァそう呟くと、眼鏡を取って目頭を押さえた。しかし、彼の目からは涙が次々と零れ落ちる。
それからしばらく、部屋にはシルヴァの嗚咽だけが響いていた。
「何かあれば、遠慮なく言ってください。私にできることならば何でも力になります。」
目を赤くしたシルヴァはそう言うと、玄関の前に立つリリアを見て微笑んだ。
「こう言うのは失礼かもしれませんが、あまり彼には似ていませんね。」
リリアは笑いながら「あんなにガサツな人に似たくないですから」と答えた。
執事が玄関の扉を開けると、白い日差しが差し込んできていた。どうやら、シルヴァと話している間に雨が止んだらしい。
外へ踏み出したリリアは、シルヴァの方を振り返って言った。
「紅茶、おいしかったです!」
「それは良かったです。また、いつでもいらして下さい。」
リリアは「ありがとうございました!」と頭を下げると、笑顔で馬車へ乗り込んだ。
◇◇◇
広い部屋に、チン、とベルの音が鳴った。その音の後、部屋の大きな扉がゆっくりと開いていく。
その向こうに現れた男は荷物を投げ込むと、部屋へ転がり込んで床に寝そべった。
「顔が真っ赤じゃないか。北島の寒さは老体には辛いか?」
「黙れ、ノーワン。ここまで来るのに、私は何度も死にかけたんだぞ! 雪の量が尋常じゃないんだ……!」
戦争屋は叫ぶと、うめき声を上げながらゴロリと転がった。
ノーワンは放り出された荷物をまとめると、その横へ腰を下ろす。
「お前、店はもういいのか?」
戦争屋が尋ねると、ノーワンは「あぁ」と答えた。戦争屋は再び寝返りを打って尋ねる。
「しっかりと目に焼き付けておいたか?」
「もう十分だ。みんな良い人たちばかりだった。」
「ほう。それでも計画は変わらず実行するのか? 決意は揺るがなかったのか?」
「むしろ決意は固くなった。」
ノーワンはそう言って立ち上がる。
「この世界の人々も、俺の守りたい人々も、みんな同じ人間だった。だからこそ、俺は守りたい方を選ぶ。」
戦争屋はそれを聞いてニヤリと笑った。
「全員殺すことになるんだぞ?」
「それでも構わない。」
ノーワンは拳を握り締めて答えた。
「この世界の人々は俺にとって無関係な存在だ。」




