おまけの短編 -とある花屋の手記-
雲一つない青空が広がっている。降り注ぐ太陽が畑の花々を照らしていた。
額の汗を拭って、肥料の入った木桶を持ち上げると、春の花が風に揺れた。
ここは福寿山の麓に広がる樹海の、さらにその端である。
かつて、ここは農業には適さない土地だった。しかし、先代、先々代からの長い土壌改善の末、今こうして色とりどりの花が咲く花畑がある。私がのんびりとした花屋稼業をできているのも、先祖の努力のお陰だ。
私は畑の間の道を行き、木々の間を抜け、悠然とそびえる福寿山を眺めながら、猫の額ほどの畑へとやってきた。
何故、先祖がこの土地にこだわったのか。その答えがこの畑である。
その小さな畑には、透き通った花が一面に咲いている。
氷晶花。本来は北島の一部にのみ自生している花だ。不思議なことに、その他の土地で育てても、咲かせるのは一輪の白い花で、それは大して珍しい花でもない。ただ、この土地で育てると、ごく稀に北島で咲かせるような透明な花が咲くのだ。
それを発見した私の先祖は、狂ったようにこの辺りの土地を耕し始めた次第である。
その血を継いでいるせいか、私も氷晶花の輝きに魅入られてしまった。
そして研究の末、それまではごく稀にしか咲かせなかった氷晶花を、この畑のみではあるが、安定して咲かせることができるようになったのである。
と、まぁ、氷晶花についてはこの辺りで良いだろう。
私が書き記しておきたいのは、もちろん花のこともあるが、一人の客の男についてだ。
その男は、暖かくなってきた春には珍しく、襟の立った袖の長い服を着ていた。
畑仕事を終えた私が店の前に戻ると、彼は売り物の花をじっと見つめて佇んでいた。店番を頼んでいたはずの父は椅子に座って寝息を立てている。
「何かお探しですか?」
父に代わって私が男に声をかける。しかし、男は私をちらりと見ただけで、表情をピクリとも変えずに花に目を戻した。
「あ……、あのぉ……。」
もう一度声をかけると、彼は黙って花の苗を指さした。
「お買い上げで……?」
尋ねると、やはり黙って頷いた。
なんだこの客は。
それが彼への第一印象だった。
それから、その男はよく店に顔を出すようになった。
相変わらず一言も話さないが、来るたびに花の苗を買っていった。
「お花、育ってますか?」
花を見つめる男に私は言った。当然返答はないが、いつも私は構わず話し続けた。普段の話し相手が父親だけだったからかもしれない。
「この季節は紫陽花の花が綺麗に咲きますよね。紫陽花の花って、土の性質によって色が変わるんですよ。それで………」
長い話でも、男は傘を差しながらずっと聞いていた。そして、私の話が終わるころに、花の苗を指さしていくのである。
「ところで、聞いても良いですか。」
ある時、私は尋ねた。
「どうして何も喋らないんですか? あなたの名前とか知りたいんです。……まぁ、迷惑だったらいいんですけど。」
すると、その男は少し困った表情をして悩み始めた。しばらくすると彼は首元を覆い隠していた襟に手をかける。
そして、私の目を伺いながら、ゆっくりと襟を捲った。
「喋れないんですか……。」
私の言葉に、彼はゆっくりと頷いた。
彼の首元には、切り取られたような大きな傷跡があった。それを隠すために、襟の高い服を着ていたのだろう。
「……あ! じゃあ、筆談とか! 文字書けますか?」
私の言葉に彼は首を横に振る。
文字を書けない人間は珍しくない。私は父親に教わっていたおかげで読み書きができるが、そうでなければ、学術院にでも行かない限り文字を教わることもないのだ。
「……難儀ですね。」
私が言うと、彼は少しさみしそうに俯いた。
だとすると、彼はどのように生活しているのだろうか。自分の意思をどのように相手に伝えているのだろうか。
そもそも、首にある傷も故意に切り取られたように見える。彼は、何者かに声を奪われ、意思疎通を完全に禁止されて生活しているのだろうか。だとすると、彼は一体……
そこで私は考えるのを止めた。客の事情を詮索するものではないし、これ以上は踏み込まない方が良い気がする。
ちらりと見えた彼の胸元に不思議な模様の刺青が見えたのだが、私はあえてそれには触れないことにした。
それから数か月。彼についての情報は一切得られることなく時は流れた。私もこれ以上知ろうとはしなかったのだが。
しかし、いつものように花の苗を買いに来た彼は、突然私に一枚の紙を手渡してきた。その紙には、子供の書いたような拙い字で「えなす」と書かれていた。
「これは?」
彼は何も答えない。
「あ、もしかして名前?」
そう尋ねると小さく頷いた。私の口から自然と笑いがこぼれる。
「私はアモーラです。これからもよろしくお願いしますね、エナスさん!」
そう言うと、彼は恥ずかしそうに笑った。
この笑顔が初めて私に見せた彼の笑顔だった。
それから私はエナスを何度か裏の畑に連れて行った。店の方は父に任せている。
彼は咲き乱れる花々をまじまじと眺めながら、渡した紙に様々な質問を書いて私に寄越す。どうやら花の栽培に興味があるらしい。育てた花を何度か持ってきたこともあった。
私もつい楽しくなって、花の栽培について陽が沈むまで語ることも少なくなかった。
「これは氷晶花っていう花よ。この花、花びらが水晶みたいなものでできてて、茎とか葉が枯れても、花だけは枯れずに残り続ける不思議な花なのよ。」
奥の小さな畑に連れて行ったとき、彼は口をぽかんと開けて透明な花に見入っていた。そして、すぐさま紙に文字を書きこむと、私に見せてくる。
「『こ、れ、を、そ、だ……』、これを育てたいって?」
彼は勢いよく頷く。
「難しいわよ?」
それでも彼は力強く頷いた。
こんなこともあろうかと、ポケットには予め氷晶花の種を忍ばせてある。
「もしも花を咲かせられたら私にも見せて。この花、私の一番好きな花なの。」
私はそう言って種の入った小袋を彼に渡す。彼はそれを受け取ると笑顔で頷いた。
◇◇◇
種を渡してから一年になる。不定期に顔を見せていたエナスだが、これほど長い間来なくなったのは初めてだ。
情報集めのために、最近は街へ花を売りに行くこともある。
「これ以上は詮索せん方がいい。あの男はきっと裏社会の奴隷だとか、そんな感じの奴に違いない。踏み込みすぎたら、ワシらの身が危うくなるかもしれん。」
父はそう言って私を止めた。
確かに、彼について知ろうとするのは危険なことかもしれない。それでも、何もせずに黙っていられなかった。
私は店の中で毛布に包まりながら氷晶花を見つめる。
「散歩してくるわ。」
「寒くないようにな。……あぁ、樹海の奥には入るんじゃないぞ。バケモノが出るらしい。」
「はいはい。お店よろしくね。」
何度目か分からないため息を吐くと、父に店を任せて外へ出た。
森の木の葉が散っている。雪が地面を白く染めていた。
「どこに居るのよ……」
私の声は森の静寂へ溶けていく。
彼の氷晶花は咲いただろうか。それよりも、彼は無事なのだろうか。悩みは尽きないが、答えは見つからない。
その時、森の奥に大きな影が見えた。
慌てて辺りを見回す。適当に歩いているうちに、随分と樹海の奥に来てしまったようだ。樹海の奥でバケモノを見たという噂が脳裏をよぎる。
しかし、私はその影に向かって一歩踏み出した。
「……エナス君?」
木の陰から姿を現したのは、全身から血を流した男だった。クマのような巨大な体に、赤く充血した目。額からは不気味な色をした角が生えている。
どう見てもバケモノに見えるが、その男からは敵意を感じなかった。
「エナス君、だよね?」
もう一度尋ねると、彼はフラフラとこちらへ歩いてきた。そして私の胸の中に、どさりと倒れこむ。
間近で見ると、やはりエナスだった。しかし、その顔は半分ほど焼け爛れてしまっている。
彼を抱きしめると、べったりとした血糊が手に付いた。
「どうしたの! こんなに血だらけになって! 一体何が……」
それを遮るように、彼は私の目の前に一輪の花を見せた。
「氷晶花……。」
ガラスのように透き通った花びら。血に塗れた彼の手の中で、一輪の小さな氷晶花が風に揺れていた。
腕の中で満足そうに笑う彼の顔を見て、私も笑って呟いた。
「綺麗に……咲いたわね。」
私の目から零れ落ちた涙を、彼はそっと指で拭った。
何があったのか。それは聞かない。知らなくても良い。
彼は私に氷晶花を握らせると、そのまま静かに息を引き取った。




