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36

 ――逃げて、タケル君!

 崖から突き飛ばされた俺の体は、重力に引っ張られ真っすぐに落ちていく。伸ばした腕の先で、妻の悲しそうな笑顔が遠ざかって――


「ミコト! ッてぇ……」

 タケルは無意識に伸ばしていた手で頭をさすった。

 頭上に大きな穴が空いている。埃とカビの臭いにむせながら、崩れた床板と壊れた実験器具が散乱した地面を見て、タケルは慌てて手元に落ちていた散弾銃を手に取った。

 ぼんやりとしていた頭が次第に覚醒してくる。

 落ちた時に打ち付けたのだろう。鈍い痛みが全身に広がる。同時に脳裏に浮かぶのは、戦争屋の勝ち誇ったような笑み。

 絶好の機会を逃してしまった。

 今から追いかけて間に合うだろうか。相手は老人。追いつけるかもしれない。

 タケルは握った拳で自分の足を殴りつけて立ち上がると、大きく息を吐き出した。


 改めて辺りを見回す。

 どうやら落とし穴、というよりは館の地下室に落とされたらしい。

 部屋は使用されていないようで、瓦礫の上には大量の埃が舞っている。部屋に明かりは無かったが、頭上の穴から差し込む光のおかげで目の前に扉があるのが分かった。

 散弾銃を肩に背負うと、腰のホルダーからリボルバー式の拳銃を取り出す。

 まずは地下から出なければ。

 タケルは一つ息を吐き出すと、ゆっくりと扉を開いた。拳銃を握り締めながら、恐る恐る廊下を覗きこむ。

 相変わらずカビ臭い空気だ。廊下に明かりは一切ない。穴からの光で、かろうじて扉の前が見える程度だ。

「手探りか……」

 タケルが呟いて部屋から一歩踏み出そうとした、その時。

 ぞわりと全身の毛が逆立った。

 暗闇が怖いのではない。恐ろしいものが見えたわけでもない。ただ、タケルの直感がこれまでにないほどの危険信号を発しているのだ。

 この先に何かが居る、と。


 だが、引き返そうにも進める道は一つしかない。タケルは荒い呼吸を抑え込み、何とか唾を飲み込むと、身を低くしながら廊下への一歩を踏み出した。

「だれ…………」

 突然、静かな地下室に小さな声が響いた。間違いなくこの先に居る「何か」の声だろう。

 タケルは音を立てないように廊下を這って進むと、行き当たった曲がり角からちらりと先を覗いた。

 明かりだ。この先にある鉄の扉から明かりが漏れている。タケルは散弾銃に持ち帰ると、ゆっくりと扉の方へと近づいて行った。

 そして、扉の前まで来たとき、扉の向こうから再び声が聞こえた。

「だれかいるの?」

 小さな子供の声だ。

「……だれか………」

 左に目を向けると階段が見えた。明かりが見える。上がっていけば地上へ出られるだろう。

 地上へ出たら、戦争屋の後を追って――

「ここからだして………」


 タケルは歯を食いしばると、鉄の扉に手をかけた。しかし、扉には鍵がかかっており、ノブを捻ってもガチャガチャと鳴るばかりで開かない。

 鍵を破壊しようと銃を構えたタケルだったが、そこで気づいた。

 かかっていた鍵は、外側からかける物だったのだ。扉についている小さな窓も、よく見ると鉄格子がついている。この鉄で造られた頑強な扉は、何かを監禁し、監視するためのものだ。

 その監禁されている「何か」は、声から察するに小さな子供だろう。

「悪趣味な野郎だな。」

 タケルはそう言うと、扉の鍵を開けた。

 万が一を考え、散弾銃を拳銃に持ち変えると、いつでも撃てるように握り締めながら、片手でゆっくりとノブを回す。肩で扉を開けると銃口を前に向ける。

「動く……な」

 部屋にいた「何か」を見た瞬間、タケルはゆっくりと銃を下げて固まった。


 灰色の壁に囲まれた中に置かれていた家具は、ボロボロのベッドが一つだけだ。その部屋の中央では、大量の玩具に囲まれた少女が座っている。ただ、普通の少女ではない。

 その小さな額からは、角と呼ぶには歪すぎる赤黒い結晶が生えており、髪の毛は手入れもされずにボサボサになっている。タケルを見つめる両目から頬にかけて、うっすらと血の跡が残っていた。

 その少女を見て、タケルは呟いた。

「ミ…コト……」

「あ……」

 少女はタケルの手に握られた拳銃を見ると、顔に恐怖の色を浮かべて叫んだ。

「こないで!」


 直後、タケルの体は背後の壁へ叩きつけられた。そのまま強い力で壁に押し付けられる。

「がッ――くッ……」

 とてつもない出力だ。胸が圧迫され、息をすることすらままならない。何とか瞼を持ち上げると、少女は頭を抱えながら唸っているのが見えた。

 この力を操っているのは目の前の少女だろう。

 見た目は少女だが、彼女から感じる気配は化け物じみている。森の中で剣を抜いた時に感じたアクレスの気配と同等、あるいはそれ以上に恐ろしいとさえ思えた。

 だが、この少女を放っておくわけにはいかない。

「うぅ……」

 少女がうめき声をあげると、力が少し弱くなった。

 床に落ちたタケルは呼吸を整えると、改めて目の前の少女を見る。


 ――この子は私たちの希望ね。


 妻の声が蘇る。


 ――この世界で、幸せな未来を送ってほしいの。


 握っていた拳銃を捨てた。肩に担いでいた散弾銃も、腰に提げていた手榴弾も床に捨てる。


 ――この子の名前は……


「ノゾミ。」

 タケルが呼びかけると、少女は顔を上げた。

「ノゾミ、もう大丈夫だ。」

 もう一度呼びかけると、少女は茫然とした顔で「アタシの名前……」と呟いた。タケルは両手を挙げながら、一歩ずつ近づいていく。

 そして少女の前でしゃがみ込むと、その小さな体を力強く抱きしめた。

「もう大丈夫だ。大丈夫だ……。」

 少女の強張っていた体から少しずつ力が抜ける。

「ごめんな、ノゾミ……。俺のせいで……こんな………。ごめんな……」

 謝罪の言葉を続けるタケルを、少女の手が恐る恐る抱きしめる。

「……もう注射はしなくていいの?」

 少女の声で、タケルの両目から涙がこぼれ落ちた。

「あぁ。もう大丈夫だ。怖かったよな。つらかったよな……。ごめんな……」

 それを聞いて、少女の目からも涙がこぼれた。地下に二人の嗚咽だけが響く。

「俺と一緒にここから出よう。」

 タケルはそう言うと、指で少女の涙を拭った。

「で、でも……、森には怖いお化けが居るって……」

「大丈夫だ。俺が必ず守ってみせる。必ず……。」

 タケルはそう言うと、少女を優しく抱き上げた。


 ◇◇◇


「おい……、焦らすんじゃねぇよ………。早くしてくれ……。」

 両腕を失った鴉は、木にもたれかかりながら呟いた。

 リリアは血の滴る糸を巻き取ると、足元に落ちていた鴉のナイフを手に取る。

「最期に一つ」

 リリアはナイフを鴉に向けた。

「一つだけ答えて。どうしてアタシを逃がしたの?」

「あぁ………?」

「あの時……、お父さんを殺した時、アタシのことも殺せたはず。それなのに、どうしてアタシは殺さなかったの?」

 リリアが尋ねると、鴉は「迷いはそれか」と呟いて笑った。

「さぁな……。」

「答えて!」

 リリアは鴉の首に糸を巻き付ける。だが、それでも鴉は動じずに、ぼんやりとした目で空を見上げた。

 青空高く白い鳥が飛んでいる。冬の暖かな日差しが降り注ぐ。


 鴉は穏やかな表情で息を吐くと、静かに答えた。

「俺は知らねぇよ。」

「え?」

「地獄で親父に聞くんだな。」

 鴉は地面に落ちていた短刀を咥えると、口の端から血を吐きながら走り出した。向かう先にいるのはリリアだ。鴉はそのまま咥えた短刀で斬りかかろうとする。

 咄嗟にリリアは手に持っていたナイフを突き出した。

「あ……」

 リリアの手を赤い液体が伝う。鴉の口から短刀が落ちる。

 突き出したナイフは胸の中央、心臓を真っすぐに貫いていた。それを見て鴉は満足そうな笑みを浮かべる。


「死ぬなよ………」


 その言葉と共に、鴉はその場に崩れ落ちた。

「何……それ………」

 足元で広がる血の池を見てリリアが呟いた。

 父親が、目の前で鴉に殺された。その後リリアは九頭龍に追われ、日陰で隠れて生きることを強いられた。

 鴉が父親の仇であることは間違いない。そして現在、九頭龍はこの男ただ一人。

 いつしかこの男を殺すことだけが、生きる目的の全てになっていた。そして、この男さえ殺せば、全てが決着するはずだった。

「どうしてアタシを逃がしたの……?」

 答えは無い。

 これで良かったのか? これで満足したのか? ここまで生きてきた目的は、本当にこの男を殺すことだったのか?

「……違う。」

 リリアは呟いた。

 やりたかったことは殺しなどではない。ただ、知りたかったのだ。

 何故、父は死ななければならなかったのか。何故、リリアが逃がされたのか。そして、何故、鴉は父を殺したのか。

 だが、恨みに駆られ、思考を放棄し、遂には全てを断ち切ってしまったのだ。

 リリアは鴉の体を抱き起すと、大きな木の根元に静かに横たえる。安らかに眠る顔に帽子を被せるリリアの頬には一筋の涙が流れていた。


「おい! 大丈夫か!」

 その声でリリアが振り返ると、戦争屋を追っていたはずのタケルが立っていた。何故か彼の背中では、額から赤黒い結晶を生やした少女が寝息を立てている。

 両手を赤く染めたリリアを見て、タケルが駆け寄ってくる。

「何があったんだ! 大丈夫か!」

「だ、大丈夫です。」

「アキラさ……君は大丈夫なのか?」

「え……、あ!」

 完全に鴉に集中していたせいで気づいていなかった。

 彰の姿が見えない。ただでさえ戦争屋に監禁されていたのだ。その上、リリアを庇って大怪我を負っている。

 すぐにでも街に連れて行かなければならない。

「アキラ君!」

 リリアが呼びかけると、茂みの中から「生きてるぞー……」と小さな声が聞こえてきた。

 慌てて駆けつけると、散乱したナイフに囲まれて血だらけの彰が転がっている。ただ、息はあるらしい。

 彰はリリアの肩を借りて立ち上がると、リリアに尋ねる。

「勝ったのか……?」

 リリアが「勝ったよ」と答えると、彰は安心したような顔で気を失った。傷口からじわじわと血が溢れ出てきている。

「さっさと森から出るぞ。」

 タケルの言葉にリリアは頷く。

「そうだね。ただでさえ道が悪いのに、バケモノに襲われでもしたら……」

 その時、館の方角から大きな爆発音が聞こえた。二人が振り返ると、館の辺りから轟々と炎が上がっている。

「アクレスさん……」

「早く行くぞ! アクレスって奴も強いんだろうが、追手が来ないとも限らない! アキラさんは俺が背負っていくから、リリアさんはノゾミを頼む!」

「ノ、ノゾミ……ってこの子?」

 リリアがタケルの背中で寝ていた少女を背負うと、タケルは彰を担ぎ上げる。

 背後で再び炎が上がった。赤く照らされた樹海の中を、リリアとタケルは街へ向けて駆け出した。

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