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 糸を操る手に血と汗が滲んでいる。

 リリアの攻撃が当たらないのだ。鴉はリリアの戦い方を、いや、蜘蛛の戦い方を完全に理解し、糸が届く間合いの寸前を保ったまま逃げ回っている。文字通り指一本触れられない。

 その鴉を追い続けながら、飛び交うナイフに対処していくのは至難の業だ。時間が経てば経つほど、体中に小さな切り傷が増えていく。

「おいおい。いつになったら殺してくれるんだ? このままだと先に老衰で死ぬぞ。」

「黙れ!」

 このままではジリ貧だ。

 リリアは鴉を見据えると、ナイフに構わず一気に飛び出した。

 鋭い痛みが全身を襲うが気にしていられない。このままなぶり殺しにされるよりだったら、一気に間合いを詰めて攻撃した方が良い。


 だが、ここで鴉は想定外の行動をとった。

 懐から短刀を取り出したかと思うと、リリアの糸を潜り抜けて距離を詰めてきたのだ。

 糸での攻撃はある程度の距離が必要だ。ここまで近距離の戦闘になると糸は機能しなくなる。鴉はそれを理解していた。

 ここで、リリアは自身の失策を理解した。

 背後にはナイフ。逃げ場はない。挟み撃ちの形になった。

 初めから鴉の思惑通りに事が運んでいたのである。


 逃げ場がないなら、戦うしかない。

 リリアは鴉の突き出した短刀を躱すと、そのまま体を捻って蹴りを放った。

 しかし、鴉はその蹴りを容易く受け流し、逆にリリアの腹を蹴り上げる。

「がはッ……」

 リリアの体は樹海の固い地面を転がると、古い倒木に当たって止まった。

 鴉は指を鳴らしてナイフをリリアの周囲に配置する。

「短刀に気を取られすぎだ。お前は常に目の前のことしか考えてねぇ。敵の次の手を読まない限り、お前に勝ちはねぇよ。……いや、それ以前に」

 鴉は首をひねる。

「そもそも勝つ気ねぇだろ。動きにムラが有りすぎだ。老人相手で気を使ってくれたのか? ……それとも何か迷ってんのか。」

 リリアが顔を上げると、周囲のナイフが一斉にリリアの方向を向いた。逃げられるような隙間は無い。

「まぁ、どちらにしろ手遅れだ。悪いが遺言は聞いてやれねぇ。俺の到着を地獄で待ちわびてる奴がいるからな。」

 鴉が片手を上げた。

 このまま突っ込めば、全身をナイフに貫かれ、待ち受けているのは死のみだ。

 通常であれば、ここは引くべきなのだろう。多少深い傷は負うだろうが、この場から逃げられないこともない。これ以上戦闘を続けても勝機が無いのは明白だ。

 しかし。


 リリアは拳を握り締めて立ち上がると、目の前の鴉を睨みつけた。

 逃げたとしても、おそらく鴉は追ってこない。鴉はここへ死ぬために来たのだ。わざわざリリアを殺しに来ることは無いだろう。

 つまり、この男を仕留めるならば今だ。今しかない。

 たとえそれが相討ちであったとしても。

「無理はするなよ?」

 震えるリリアの拳を見て鴉が呟いた。

 ナイフがじりじりと近づいてくる。それにつれて、リリアの脳内には激しく脈打つ鼓動が響いていた。頬の傷を一筋の汗が撫でる。

 リリアがごくりと唾を飲み込むと同時、鴉はゆっくりと手を下ろした。


「わっ!」

 踏み出そうとしたリリアの体は、突然背後へ強い力で引っ張られた。そのまま、何か暖かい感触がリリアの全身を覆うように被さってくる。

「……怪我してんじゃねぇか。」

 耳元で聞き慣れた声がした。

「ア……キラ君……。なんで……」

「俺を一人で置いてくなよ。バケモノに襲われたら誰が守ってくれるんだ?」

 彰はそう言ってリリアを離す。

 先ほどまで周囲を漂っていたナイフが無くなっている。それにも関わらず、リリアは無傷だ。

 立ち上がったリリアは、消えたナイフの行方を見て言葉を失った。

「何してんだ。早く構えろ。」

「で……でも……」

 消えたナイフは全て彰の背中に突き刺さっていた。流れ出た血が彰の服を赤黒く染めている。

 鴉は彰を見て笑った。

「よう、やっと来たか。ずいぶん遅かったな。」

「英雄ってのは遅れてやってくるもんだろ?」

「言うじゃねぇか……。」

 鴉は指を鳴らした。彰の背中からナイフが抜け、鴉の元へと帰っていく。同時に彰の背中からドロドロと血が溢れだした。

 しかし、彰は一切動じずに剣を抜いて構える。

「リリア、俺は大丈夫だ。」

 固まっていたリリアだったが、その言葉で我に返った。彰は横目で確認すると、つづけて指示を出す。

「飛んでくる奴は俺に任せろ。その間に鴉を倒せ。」

「……分かった。」

「二人で帰るぞ。」

「うん。」

 リリアは短く答えると両腕を構えた。


 ◇◇◇


 福寿山麓の樹海には、様々な花が咲き乱れる庭園に囲まれた館がある。ただでさえ樹海は迷いやすく、不気味な化け物まで闊歩しているために、この館に近づくような人間はおらず、その存在が噂されることすらなかった。

 普段であれば、鳥の鳴き声と木々のざわめきだけが聞こえる静かな庭園なのだが、この日は館二階の窓ガラスが派手に割られる音が響いた。

「いだだだ……。チクショウ! なんてことだ!」

 割れた窓から飛び出してきた戦争屋は、地面を転がりながら叫ぶ。

「どうしてここにアクレスが来るんだ! 情報はどこから………。」

 戦争屋が立ち上がりながら呟いていると、その後を追うように一人の銃を持った男が二階の窓から跳んだ。

 タケルである。


 戦争屋はそれを見て悟った。

 後を追って飛び出してきたとしたら、エナスの横を通らなければならない。だが、それでも男が無傷で飛び出してきたということは、エナスはこの男を見過ごしたということになる。

 つまり、裏切ったのはエナスだ。

「あの戦闘狂め……」

 呟く戦争屋の頭上を散弾が飛び越えていく。

「運動はしたくないんだよ!」

 戦争屋は叫ぶと、館の一階に逃げ込んでいった。タケルはその後を追いながら散弾銃に次の弾を込めた。

「逃がすか!」

 タケルは叫ぶと、館の中へと駆け込んだ。銃を持っている手が震えている。

 遂に見つけたのだ。家族の仇を。

 あの男だけは、絶対にこの手で殺さなければならない。


 ―――


「タケル君はさ……、元の世界に帰りたい?」

 手作りの椅子に座っていた妻が、唐突に尋ねてきた。俺は薪割りの手を止めて答える。

「帰るって言ったって、方法がないじゃないか。」

「いや、そうじゃなくてさ。もしも帰れる方法が見つかったら、タケル君は帰りたい?」

「お前はどうなんだ。帰りたいか?」

 尋ねると、妻は首を捻りながらしばらく唸り始める。そして、俺が再び斧を持ち上げようとすると

「アタシは帰らないかもなぁ……。こんなの建てちゃったしさ。」

 背後に立っていた俺たちの家を見て答えた。


 この世界へ妻と転移してから二年。

 初めは困惑もしたし、何度も帰りたいと思った。

 だが、それも初めだけだ。この世界でも言葉は通じるし、気候も穏やかで、何より出会う人々がみな暖かい人たちばかりだった。

 二年も経ってしまうと自然と知り合いが増え、信頼できる仲間が何人もできた。この森の中の小さな家も、力自慢の仲間たちと協力して建てたものだ。

 元の世界で、これほど静かに、平和に暮らせる場所はあるだろうか。今では、この世界の方が過ごしやすいとさえ思えてくるほどだ。


 家を見て感慨にふけっていると、妻は再び尋ねてきた。

「で、タケル君は帰りたい? 元の世界に。」

「俺は……」

 少し空を見上げて考えると答えた。

「俺はミコトが居る世界に居たい。お前が帰るなら俺も帰るし、お前が残るなら俺も残る。」

 それを聞いた妻は照れたように笑うと、お腹を手でさすりながら言った。

「ふふ。ありがと。一緒に頑張ろうね。」


 ―――


 薄暗い廊下に向けて引き金を引く。

 爆音とともに放たれた弾丸は、前を走る男の肩を掠って壁の中へ飲み込まれていった。

「チッ」

 タケルは腰の手榴弾に手を伸ばしかけるが、上ではアクレスたちが戦っているはず。むやみに建物を壊すわけにはいかない。

 汗ばむ手で弾を込めると、再び戦争屋の影に銃を向けた。

「あぁ……。しつこいなぁ!」

 戦争屋は額の汗を拭いながら、館の部屋に飛び込んだ。

 その後を追って部屋に転がり込んだタケルは銃を構え、引き金を引いた。

「ひィ!」

 二人が飛び込んだ部屋は、様々な機械が並んでいる研究室のような部屋であった。中には、この世界では作成できないような装置まである。

 弾丸はそれらの装置に当たってはじけ飛んだ。

 次弾を装填するタケルを見て、戦争屋は不気味な笑みを浮かべる。そして、片手に握った魔法具を発動させると、タケル目掛けて投げつけた。

「残念だったな! 私の勝ちだ!」

 その言葉の直後、部屋の地面が割れた。タケルは銃を手放して床板を掴もうとするが、その手はむなしくも空を切る。

 戦争屋は言語化できないような叫び声を聞きながら、ひとり悠々と部屋の窓から外へ逃げ出していった。

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