33
福寿山の麓には広大な樹海が広がっている。
うっそうと茂った木々が太陽光を遮り、いくつもの倒木と地面を這う木の根が行く手を遮る。旅人でも敢えてその樹海を通り抜けようとする者は滅多にいない。
だが、地図の示していた場所は、その樹海の奥地であった。
街に着いてから一日が経っている。あれだけ激しく降り続いていた季節外れの雷雨も、夜が明けると嘘のように晴れ渡っていた。宿屋の窓から白い光が差し込んでいる。
明日の出発に向け、アクレス以外は街へと出かけてしまった。
「断る。」
宿屋の主人は不機嫌そうな顔で言い放った。アクレスは唸ると、カウンターに身を乗り出して言う。
「もちろん金は払う。三日でもダメか。」
「ダメだな。」
主人は即答すると、困ったようにため息を吐いた。
「なにも俺はな、荷車を預かるのが嫌なンじゃねェ。あの樹海に行かせたくねェから言ってンだァよ。」
樹海の道は非常に悪い。荷車を押していくなど到底不可能だ。
そこで、アクレスたちは宿屋に荷車を預かってもらおうと交渉しているのだが、宿屋の主人はなかなか首を縦に振らないのだ。
主人は険しい顔をすると、こっそりとアクレスに耳打ちした。
「あの樹海にゃな、……出るンだ。」
「出る? 何が。」
「分かンだろ? 幽霊さ。かつて死んでった人が、生きた体を乗っ取ろうと彷徨って……」
しばらく沈黙が流れる。
「……オヤジさん、俺のこと馬鹿にしてる?」
「まァ幽霊ってのは冗談なんだが、あの樹海にゃバケモノが出ンのさ。」
「化け物? 魔物のことか?」
「いいや、違う。『バケモノ』なンだ。」
眉間にシワを寄せて言うと、アクレスに語り始めた。
数年前まで樹海にいるのはシカやクマなど、他と何ら変わらない生き物だった。時折、魔物の姿を見ることもあったのだが、その頻度は高く無い。
しかしある時、樹海に不可思議な動物が現れる。
それらは皆、個体ごとに姿や大きさが異なっていた。だが、共通していた部分もある。
それは、頭に生えた二本の角、全体、ないしは体の一部を覆う強靭な鱗。そして何よりも、様々な動物を無理やり混ぜ合わせたような気味の悪い風貌だ。
「これまでにも樹海に行った奴ァ居るんだが、何人か帰って来てねェんだ。それに加えて最近だと暴徒も多いし、せめてしっかりした用心棒でも居るんなら話は別だがなァ……。」
「用心棒? オヤジさん。こう見えて俺も意外と強いんだぞ。」
アクレスはそう言って力こぶを作ってみせる。しかし、主人は心配そうにアクレスの顔を見つめた。
「確かに体格は良いが……、青い顔した奴を樹海に送る気にゃなれねェよ。」
「大丈夫だって、オヤジさん。もしも三日経って俺たちが帰ってこなかったら、荷車は丸ごと売っても捨てても構わない。それなら良いだろ?」
「そうは言ってもなァ……」
「俺はまだ死なねぇよ。必ず帰ってくる。だから、な。」
「うーん……。必ず帰って来いよ?」
「もちろんだ。」
半ば強引に説得すると、主人はようやく首を縦に振った。
◇◇◇
この街のすぐ東は関東郡であり、治安維持のためにも街の周囲は高い城壁に囲まれている。昨今の暴動のせいで門の警備は厳しくなったらしく、街へ入る際にはアクレスが色々と手続きをしていた。ただ、それによって治安はしっかりと維持されているようで、街には穏やかな時間が流れていた。
リリアは綺麗に敷かれた石畳の道を歩きながら、巾着袋の中にある硬貨を数えた。
「観光しろって言われてもなぁ……。」
買い出しに付いて行ったリリアだったが、ソフィアに「せっかくだから観光してきなよ」と言われ、一人街を散策することになってしまった。
食べ歩きでもしようかとも思ったが、お金は大して持っていない。リリアは少し雲がかかった福寿山を眺めながら、道の脇にあるベンチに腰掛けた。
こうして景色をゆっくりと眺めるのはいつ以来だろうか。思い返すと、いつも何かに追われるように生きてきた。実際、追われる身ではあったのだが。
ただ、そんな生活も彰と出会ってから変わっていった。荒んでいた心が、少しずつ穏やかになっていくのが自分でも分かった。
リリアはふと誰も座っていない横を見て、ため息を吐いた。
彰と出会ってから、一人で居る寂しさを思い出した。同時に、誰かと過ごす暖かさも思い出した。
だからこそ、もう失いたくない。必ず取り戻してみせる。
「あらあら、お嬢さん。悩みごと?」
視線を戻すと、小さな荷車を引く女性がこちらに歩いてきていた。その荷車には、色とりどりの花がいっぱいに積まれている。
リリアが返答に困っていると、その女性は笑顔でリリアの隣に腰かけた。彼女はリリアの顔をしばらく見つめると、ニヤリと笑って言う。
「恋の悩みでしょ。」
「な! なんですか急に!」
すると、その女性は荷車から小さな白い花を一輪、リリアの胸のポケットに差し込んだ。
「私はアモーラ。この街には花を売りに来てるのよ。」
聞けば、彼女の家と花畑は街から離れた場所にあるらしい。そこでも花を売っているのだが、週に一度だけ、街まで花を売りに来るのだそうだ。
「花には、それぞれ『花言葉』っていうのがあるの。知ってるかしら?」
「花言葉?」
「そう。例えば、その白い花の花言葉は『秘めた愛』。今のアナタにはピッタリじゃない?」
「な、なんでですか!」
その反応を見て、アモーラはおかしそうに笑った。
「ふふふ、嘘は下手ね。お嬢さん、お名前は?」
「……リリアです。」
「恥ずかしがることは無いわ、リリアちゃん。恋しない女の子なんて居ないもの。」
リリアはうつむくと、小さい声で尋ねた。
「……それで、何の用ですか?」
すると、アモーラは荷車をぐいと引き寄せて、いろいろと花を取り出して見せた。
「花は乙女の写し鏡。恋するアナタを美しく飾る、綺麗なお花はいかがですか?」
「売込みですか。」
「そうよ。私も食べていかないといけないからね。それに、ため息を吐く乙女を放っておける訳ないじゃない。あ、その白い花はリリアちゃんにあげるわ。」
「ど、どうも。……アタシ、あんまりお金持ってないんですけど。」
「大丈夫よ、安くしとくわ。冬だから種類は少ないけど、厳しい季節に咲く花はどれも美しいのよ。」
ふわりと甘い花の香りが二人を包み込む。
アモーラは「どうかしら」と言って小さな花束を渡そうとするが、リリアは首を振ってそれを断った。
「アタシ、この街に住んでるわけじゃないので……」
「あら、旅人さん?」
「まぁ……、そんな感じです。」
「そっかぁ……、それじゃ、これなんてどうかしら。」
そう言うと、アモーラは荷車から小さな木箱を取り出し、蓋を開けてみせた。
その木箱の中に入っていたのは白い布に包まれた小さな透明の花だ。氷のように透き通った花びらに指先で触れてみると、水晶のような固い感触が返ってきた。
その花を見てリリアは尋ねる。
「ガラス細工ですか?」
「そう思うでしょ? これね、とある植物の花なのよ。」
「花? これが?」
「そう。『氷晶花』って言うんだけど、咲かせるのがとっても難しい品種なの。でも一度咲いたら、こうして摘んだとしても萎れずに咲き続けるのよ。」
そう言って、アモーラは透明な氷晶花をリリアの掌の上に置いた。陽光を反射して花びらが輝いた。
「花言葉、なんだと思う?」
アモーラの問いかけにリリアは首を傾げる。
「氷晶花の花言葉は『消えない愛情』。この永遠に咲き続ける花は強い想いの象徴なのよ。想いを寄せる人なんかへの贈り物にもピッタリ。」
それを聞いて、リリアはしばらく黙り込んだ。そして、巾着袋を覗き込みながら尋ねた。
「……それ幾らですか?」
「安心して、安くしとくわよ。」
相当値引いてくれたらしく、リリアの手持ちでもなんとか一輪だけ買うことができた。アモーラは箱を手渡すと、笑顔で「良い旅を!」と言って花の咲き乱れる荷車を引いて去っていった。
◇◇◇
「あら、氷晶花?」
ソフィアはリリアの持つ木箱を後ろから覗き込んで言った。リリアは慌てて箱の蓋を閉める。
「こ、これは贈り物とかではなく! あの……、お守りとして買ったものなので!」
「あらそう。」
ソフィアは興味無さそうに答えるとベッドに倒れこんだ。小さな机に置かれたランプの灯が、二人の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。
窓の外では、東の空には満月が昇っているのが見えた。リリアとソフィアの部屋は宿屋の二階だ。がさつそうな主人だったが、部屋の内装は細やかで、ベッドの脇にある棚の上には小さな花が生けられている。
ソフィアは寝転がりながら持ってきた本を開くと、眠そうな声でつぶやいた。
「氷晶花って、確か北島の一部だけにしか自生しないのよね。栽培方法も確立されてないし。それ高くなかった?」
「……まぁ、他よりは少し高かったけど。」
「その花、なかなか手に入らないのよ。この街で売ってたなら、私も研究材料として買っておけば良かったわぁー。」
そう言ってソフィアはゴロリと寝返りを打つ。リリアは木箱を再び開けると、ランプに照らされた氷晶花を見つめた。
必ず彰を取り戻して帰ってくる。この花はそのための誓いだ。
リリアは蓋を閉じると、祈るように箱を握り締めた。




