20
マテラス王国軍大将、ユドラーの自宅は中央都郊外の森の中に建っている。
その建物は大将の自宅と言うにはあまりに小さく、街の中心にある軍部とは随分と離れた場所にある。その理由として、彼は出張が多く自宅に帰ること自体が少ないこともあるが、主な理由はそれではなく、「目立たないようにするため」である。
その日は、月が厚い雲に覆われた、真っ暗な夜だった。
ユドラーは足元も見えないほどの暗闇を灯りも無しに進んで行くと、森の中の自宅へとたどり着いた。実に半年ぶりの帰宅。
しかし、扉に手をかけた彼の動きは突然止まった。
この場所に人が来ることは無い。さらに言えば、ユドラーの自宅を知るのは一握りの人間のみだ。だが、彼の鋭敏な感覚は、確かに人の気配を感じ取ったのである。
ユドラーは少し不満げな顔をすると、躊躇なく扉を開いた。明かりを灯すと、部屋に満ちた葉巻の煙に更に顔をしかめる。
「……ったく、ぼろっちぃ椅子座ってんなぁ。本当に大将なんだろうな?」
奥の椅子で男は煙を吐きながらぼやいた。懐からナイフを取り出してクルクルと回すと、目深にかぶった帽子の下からユドラーを睨みつける。
「よう。九頭龍のお遣い担当、鴉様が来てやったぜ。」
ユドラーは気にすることなく鴉の横を通り過ぎると、部屋の窓を開けた。
「おい。ここは客にお茶も出さないのか? 俺が何時間待ってやったと思ってるんだ。」
「何しに来たんだ?」
「分かってんだろ?」
そう言うと、鴉はナイフをユドラーに向けた。
「そろそろ動け、龍。もう俺も梟も寿命で死ぬぞ。」
「あぁ……。狐も蛇の連中も素晴らしく派手に死んだらしいじゃないか。九頭竜も四人か。」
「いや、三人だ。寝返った蟷螂を梟が殺した。」
「そうだったな。随分減ったものだ。」
ユドラーは小さくため息を吐くと、上着のポケットに手を入れた。取り出したのは、小さな黒い機械。彼はその機械のボタンを押すと、鴉の前の机に置いた。同時にノイズ混じりの声が流れる。
『聞こえますか。』
「あぁ。聞こえている。」
『おや、龍の声が聴けるとは。とっくの昔に死んだのかと思っていましたよ。』
その言葉にユドラーは少し笑った。
「今、何処にいる。」
『例の貴族の館です。ちょうど仕事が済んだところでした。次はどちらへ?』
「そうだな……。軍部に面倒な奴がいる。昔、我々に刺客を送り込んできた男だ。優秀な男だが、そろそろ消しておきたい。」
『刺客……。あぁ、蜘蛛の事ですか。とすると、あの男ですね。』
ユドラーは外の暗い森を眺めながら答えた。
「そうだ。階級は中将。名はシルヴァ・ロイアー。私よりも少し若い男だ。」
『了解しました。明日にでも向かうとしましょう。』
森の向こうに中央都の街の明かりが幾つも灯っている。ユドラーはそれを見て不敵な笑みを浮かべると、静かに窓を閉めた。
◇◇◇
練兵場には朝から二人の人影があった。
「強いじゃないか。さすがは英雄の弟子だな。」
「そりゃ、どうも!」
彰の大振りをヘクターは竹刀で受けた。乾いた音が響き渡る。
アクレスと共に月島へ向かうと聞いた時には驚いたが、無事に中央都へ帰還し、ここまで逞しくなった彰を見て更に驚いた。彰本人は気付いていないだろうが、この成長速度は普通の人間の比ではない。おそらく常人では巡り合わないような修羅場を、今回の旅で何度か経験したのだろう。
だが、現役の軍人であるヘクターの腕にはまだ遠い。ヘクターは彰の呼吸が乱れた一瞬の隙を突くと、右肩を狙って鋭い一太刀を入れる。
「うおッ!」
何とか防いだ彰だが、そのせいで体勢が大きく崩れた。ヘクターがそれを見逃すはずもなく、容赦なく攻撃を畳みかけていく。その時。
「お、やってるねー。」
背後から女性の声がした。その声にヘクターは思わず振り向く。
「隙あり!」
その声と同時に頭に衝撃が走った――。
意識は間もなく戻った。
「本当にすいませんでした!」
目が覚めるなり彰に頭を下げられる。
「いや、俺が避けなかったのが悪い。」
「違うでしょ。」
その声の方を向くと、救急箱を抱えたシスティアが居た。彼女はヘクターのベッドの横に座ると、ため息を吐きながら額の傷に消毒液を塗り始めた。
「どうせ、防具つけるのが面倒くさかっただけでしょ。」
「……おっしゃる通りです。」
「昔から細かいところで面倒くさがるんだから。いつかそれで死ぬよ。」
ここは軍施設内の医務室。他に患者は無く、窓際に置かれた机の前では、軍医と看護師が楽し気に談笑している。窓から見えた空は雲に覆われており、今にも雨が降り出しそうだ。
ぼんやりと文字盤を眺めていたヘクターは、急に「あっ!」と叫んでベッドから飛びあがった。
「ど、どうしたんですか?」
「十時から会議なんだ! 軍部の人間が遅刻でもしたら、政治部の爺さん連中に何言われるか……。」
軍部が政治に口を出すようになったのは、五年前からである。
勝利は絶望的とさえ言われたリンバス帝国の軍隊を打ち破り、マテラス王国に多額の賠償金が舞い込んできたのは記憶に新しい。ただ、それから軍部の発言力は強まり、政治にとやかくと口出しするようになったのだ。政治部が煙たがるのも無理も無いだろう。
ヘクター自身は政治に興味は無いのだが、上官からの命令には逆らえない。手早く荷物をまとめると、医務室から飛び出していった。
「出世街道を行くのも大変ね。」
その後ろ姿を見てシスティアが小さく呟いた。
―――
暗い夜空を見上げると、ぽつぽつと雨が降ってきた。
「いやぁ、雪が見られるかと思ったのに。」
隣を歩くディアスが手を擦りながら言う。
「ずいぶん遅くなっちゃったなぁ。こんな時間まで何してたんだよ。」
「お前と違って仕事があるんでな。お前こそ先に行ってても良かったんだぞ。」
「起きたらこの時間だったんだ。逆にちょうど良かったよ。」
「……相変わらずだな。」
時刻は午後九時過ぎ。居酒屋を出た酔っ払いが帰宅し始めるこの時間に、二人は雨に降られながら夜道を歩いていた。向かう先はヘクターの自宅である。
「それにしても、ヘクターの豪邸に行くのも久しぶりだなぁ。実は今日、朝から何も食ってないんだ。」
「そうか。大変だな。」
「……ちなみに執事長のバトレルさんは元気?」
「……バトレルは元気だが?」
「あの人の作るご飯美味しいんだよね。いやぁ、思い出すだけでもヨダレが出るよ。」
雨が少し激しくなってきた。何か期待するような目で見てくるディアスを尻目に、ヘクターは歩みを早める。
「ちょ、おい! 無視かよ!」
「早く行かないと風邪引くぞ。」
「なぁ! 僕の夕飯は!」
「……バトレルに頼め。」
「やったぁ!」
雨の中でディアスが飛び跳ねる。
そうしている内に、遠くにヘクターの家の灯りが見えてきた。二人は自然と駆け足になる。
「傘持ってくれば良かったな。」
「まさか君が傘を持ってくるのさえ面倒くさがるとはね。」
「お前が持ってくれば良かっただろ。」
「君が持っていれば万事解決じゃないか。ほら見ろ。霧まで出てきた。」
「霧?」
気付けば二人の足元を薄い霧が包んでいる。それを見たヘクターの顔が強張った。
「……これ、ただの霧だよな?」
「え? どういう……」
そこまで言って、ディアスは言葉を飲み込んだ。
足元だけを包んでいたはずの霧は、いつの間にか二人の身体を包みこんでいる。霧が段々と濃くなっているのだ。ヘクターの家、つまりはシルヴァの居る邸宅へ近づくにつれて。
「ディアス!」
「分かってる!」
その言葉の前に二人は駆け出していた。二人の頭をよぎったのは一人の男。霧とともに現れ、たった一突きでヘクターの実親を殺害した殺人鬼。
雨に濡れようと、泥が跳ねようと、二人は無我夢中で暗い道を走った。そして、ずぶ濡れになった二人がようやく辿り着いた時、シルヴァの待つ家の敷地は白く濃い霧に飲み込まれてしまっていた。




