おまけの短編 -紅い狐火-
目の前で紅く燃える炎に、ふと白い息を吹きかけてみた。弱々しい風は、静かに火の粉を巻き上げた。
「そろそろ良いかな……。」
鼻先を赤くした姉は呟くと、その小さな手で串刺しにした鼠を火から取り上げた。鼻を突くような刺激臭と肉の焼ける香ばしい匂いが広がる。姉は何度かそれに息を吹きかけると、私にそれを寄越した。
「はい! もう食べて良いよ!」
「……お姉ちゃんの分は?」
「私、あんまりお腹空いてないんだ! だから全部食べて良いよ!」
私は幼いながらも、それは嘘だと分かっていた。汚い路地裏で生活する私たちに、お腹の空かなかった時などない。嘘だと知っていて、私はその肉に齧りついた。理性よりも、本能がそうさせた。それでも、姉は微笑みながら私を見守っていた。
マテラス本島の東、関東郡と呼ばれるこの地域は、古くから貧困者の掃き溜めのような場所だった。莫大な借金に追われている者も居れば、幾つも罪を重ねて逃げてきた者もいる。私たちのような孤児も数えきれないほど居た。転がる死体を目にすることも珍しくない。
ゴミを漁りながら、なんとか生に縋りつく日々。
だが、そんな日々は唐突に終わりを迎えた。
「やぁ、お嬢さんたち。」
私たちが顔を上げると、埃一つ付いていないような背広をきた男が立っていた。その周りにも同じような格好の男が数人、私たちを囲んでいる。
姉は咄嗟に私を庇うように立つと、真直ぐ男を見据えて言った。
「何か用ですか。」
「私に付いて来なさい。」
「……え?」
「毎日の食事と温かい寝床を保証する。」
そう言うと、男は汚い地面に膝を着き、私たちに小さな飴玉を手渡した。そして、戸惑う私たちを交互に見ると、満面の笑みで言った。
「今日から、私が君たちを守ってあげよう。」
何かを得るには、必ず対価を払わねばならない。その日の生は、誰かに与えられるものではない。そんな単純な世界の仕組みは理解しているはずだった。
しかし、幼く、限りなく飢えていた私たちが、冷静な判断など下せるはずは無かった。ただ、男の提案を断っていたら、明日には二人とも道に転がっていたかもしれない。
結果、私たちは黒い革手袋で包まれた男の手を取ったのだった。
男は近くの都市の貴族だった。その日のうちに、私たちには穴の開いていない服、温かい食事、そして一つの部屋が与えられた。その部屋には窓は無く、まるで物置のように狭い部屋だったが、そんなことはどうでも良かった。
「なんだか夢みたい……。」
頬を紅潮させながら部屋を見回す姉は、年相応のあどけない少女そのものだった。その隣に立っていた私も、おそらく同じような顔をしていたに違いない。
私たちはその小さな部屋の中で跳びまわった。一緒に暖かいお湯に浸かり、一緒の布団で寝た。この上なく幸せな一日だった。
二日目から私たちには仕事が与えられた。
仕事と言っても簡単な雑用である。男の住む広い屋敷を、隅から隅まで掃除していくのだ。
屋敷の先輩たちは、姉よりも一回りか二回りも年上の若い女性だった。彼女らは私たちの面倒をよく見てくれた。確かに仕事は大変だったが、あの日々に比べれば辛いことなどない。すぐに私たちは仕事を覚えてしまった。
ただし、この屋敷には幾つか入ってはいけない部屋がある。
二階には男の自室を含め、仕事関連の物が多数あるのだそうだ。まだ幼く、何の知識も無い私たちは二階へ行くこと自体が禁止されていた。
そして、もう一つ。一階の奥にある部屋なのだが、ここは男の『最も大切な部屋』らしい。私たちは部屋を入ることはもちろん、前を通ることも、覗き見ることも禁止されていた。
多少の制限はあるものの、私たちにとってこの場所は正に楽園だった。あの地獄のような日々から解放されたのだ! 近かったはずの死は、遠い存在になったのだ!
将来に不安は無かった。なぜなら、全てあの男が与えてくれるのだから。
「ご主人様、失礼します。」
隣に立つ姉がそう言うと、大きな扉の向こうから小さな返答が帰ってきた。ここは二階にある彼の自室の前。屋敷へ来て数か月が経った日の夜の事である。階段を上ったのは、これが初めてであった。
部屋はやけに質素だった。壁際にある大きな本棚の横には小さなベッドが置かれ、窓の傍には大きな机と柔らかそうな椅子が置いてある。
私たちが部屋に入ると、男はその椅子に深く腰掛けて私たちを見ていた。その手には小さな本がすっぽりと収まっている。
「あの……、言わなければならない事とは何でしょうか?」
「……ん。そうだね。」
男はそう言って本を閉じると、一息ついて立ち上がった。そして、血色がよくなった私たちの顔を舐めるように見ると、小さく不気味な笑みを浮かべた。
「実は、君たちを帰さなければならない。」
「か、帰す、というのは?」
「あの街にだよ。あの、腐臭の充満した貧困街だ。」
彼の話によると、この国では子供の誘拐は固く禁じられているらしい。以前、あの街を訪れた時に、飢えに喘いでいた私たちを見て思わず連れてきてしまったが、その情報が政府高官の手に渡ってしまったとのことだ。
後から思えば、こんな馬鹿げた話は無い。あの街では誘拐など日常茶飯事だったし、誰を連れてこようが、ましてや誰を殺してしまおうが、いちいち罪に問われるようなことは無いだろう。
この当時、姉の年は十歳だったし、私に至っては六つだった。
このまま男の言う通り、今の生活を捨てて再び地獄へ逆戻りするのは考えたくも無い話である。だが、自分たちのせいで救ってくれた大恩人が逮捕されるのは、それ以上に耐えられない事だった。
私たちが青い顔で混乱していると、男は私たちの震える肩をがっしりと握った。
「……ただ、一つ君たちが帰らなくても済む方法があるんだ。」
「……帰らなくても、済む方法?」
「今からその話をするから、お姉さんだけ残ってもらえるかな。」
男は真剣な眼差しで私を見て言う。横を見上げると、姉は真直ぐな澄んだ目で私を見ると、「先に部屋に戻っててね」と笑った。
その夜遅く、姉は部屋に帰ってきた。彼女はすぐに私を抱きしめると、耳元で小さく、強い口調で囁いた。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんが絶対に守るからね。」
その言葉は、いつまでも私の脳裏に焼き付いて離れなかった。
男の言った「帰らなくても済む方法」というのは、結局姉の口から語られることは無かった。そして、次の日の夜から、姉は「大事な仕事があるの」と言って、遅くまで部屋に帰って来なかった。
ある日、たまたま「大事な仕事」が無い日に、昔のように一緒にお風呂に入ろう、と言ってみたことがある。すると、姉は嬉しそうな、それでいて泣きそうな目で答えた。
「ごめんね。もう一緒に入れないの。」
その訳を聞いても、姉は「ごめんね」と繰り返すばかりで、教えてはくれなかった。
一年後のある朝。隣のベッドで姉は冷たくなっていた。
姉の死は回避できただろうか。服の隙間から見える痣、目の下にできた濃い隈、木の枝のように痩せ細った手足。兆候は幾らでもあった。
しかし、私は姉の透き通った瞳を信頼し、彼女の「守る」という言葉に無理に寄りかかっていただけだった。生存権の獲得を放棄し、その身を小さな姉の体一つに委ねて満足してしまった。
私は何もしなかった。何も出来なかったのではない。何もしなかったのだ。この屋敷から逃げだそうとさえしなかったのだから。
それからのことは記憶に薄い。この屋敷の使用人として機械のごとく働いたが、それを何年間勤めていたのか憶えていなかった。
ただ唯一憶えていたのは、私の目からは一滴の涙も流れなかったことだけだった。
◇◇◇
私が掃除以外の仕事も回されるようになった頃、彼女はやってきた。
「は、はじめまして! よろしくおねがいします!」
馬車から連れ出された少女は、澄み切った瞳で私たちを見上げて言った。
「彼女を新たに使用人として雇うことにした。しっかり指導したまえ。」
男は脂ぎった顔で言い放つと、汚らしい体を揺らしながら二階へと上がっていった。少女の指導担当は私に決定した。
どうやら彼女も関東郡の貧困街で暮らしていたらしい。その少女の境遇と純粋さを自然に姉と重ねていた私は、この屋敷での仕事や規則を丁寧に教えていった。痩せこけていた彼女もここで生活する内に、次第に少女らしい活発さを取り戻していった。
だが、ある日を境に少女の目が曇り始める。
集中力も落ち、仕事の速さは段違いに遅くなった。
「……あの、大丈夫?」
二人で暖房用の燃料油を運んでいる最中、私は隣を歩く少女に尋ねた。しかし返事は無い。私が彼女の運んでいた小さな油の樽を担ぎ上げたところで、彼女もようやく気付いたようだった。
「あ、ごめんなさい……。」
「誰でも具合が悪い時はありますよ。今日はもう遅いし、部屋に帰って休んでください。」
「あ、いえ……、ちゃんと運びます……。」
「あとは私に任せて大丈夫ですよ。あなたは見習いなんですから、無理しないことが一番です。」
「あ……」
彼女は少し口ごもると、私に深く頭を下げて去っていった。
二人で運ぶはずだった燃料を一人で運び終えた私は、白い息を吐きだした。冬の夜は、屋敷の中に居ても震えるような寒さだ。時計を見ると、既に日を跨ごうかというところだった。
屋敷は既に消灯しており、使用人たちも自室で寝息を立てている頃だろう。あの少女もしっかりと休息をとっているだろうか。
私は腕をさすりながら、彼女の部屋がある方へと歩き出した。
その時だった。
決して物音の立つはずのない深夜の屋敷で、微かな悲鳴のようなものが聞こえたのだ。その音がしたのは、使用人たちの部屋とは反対の方角。行くな、ときつく言われていた一階の奥の間だった。
私は気配を殺しながら、ゆっくりと奥へと進んでいた。一歩一歩と近づいていく度に、その悲鳴のような声ははっきりと聞こえてくる。
そして部屋の直前で、私はその声が少女の物であると気付いた。
この場所へ来たのは初めてだった。開かずの間だった部屋の扉は少し開かれ、隙間から明かりが漏れていた。
そこから恐る恐る覗き込んだ私の目が捉えたのは、黒い服を着た数人の男たちと、その中心に居る裸の少女の姿だった。
私は全て理解した。
何故、貴族がわざわざ貧困街から少女を連れてきたのか。姉は深夜何をしていたのか。そして、姉は何から私を守っていたのか。
同時に、私は自身のすべきことも理解した。
少女を救わなければならない。あの男たちに罰を与えなければならない。そして、私自身にも……。
気付けば屋敷は炎に包まれ、私は屋敷の主に馬乗りになっていた。彼は既に息絶えており、薄い髪の毛はパチパチと音を立てて燃えている。
「……まだだ。」
私は呟くと男の顔を殴りつけた。
「まだだ。まだだ。まだだ。まだだ。」
腕に痛みが走る。油にまみれた両手は美しい紅色に燃え上がっていた。
何度も殴りつけるうちに、男の顔にも炎が移った。原型はもう殆ど無い。それでも、私は「まだだ」と呟きながら、折れた拳で何度も何度も殴り続けた。
姉の痛みはこの程度ではなかったはずだ。この程度で姉が許してくれるわけがない。
「ああああぁぁぁーーー…………、っはは……。あぁぁぁ!」
転がる死体の山を見て、私はどんな表情をしていたのか、自分でも分からなかった。零れた涙は熱い炎が吹き飛ばした。
◇◇◇
関東郡のとある貴族の屋敷で、大規模な火災が発生した。
そこで雇われていた使用人は全員生存が確認されたが、一階奥の小さな部屋では、数人分の遺体が発見された。その中でも屋敷の主と思われる遺体は特に損傷が激しく、体の半分が黒く焼け、その顔は人間とは思えないほどに殴り潰されていた。
「何者かによる放火か……?」
報告を聞いた一人の将校が呟くと、横に立っていた部下が敬礼して答えた。
「我々もそのように判断し、現場を捜索いたしました。その結果、一人の少女を容疑者として捕らえております。」
「ほう、少女?」
「はい。屋敷で働いていた使用人の一人です。おそらくその少女が犯人で間違いないのですが、全身に大火傷を負い両腕を全損しております。」
「治療は?」
「それが……。なんとか一命は取り止め、今では会話も可能なまでに回復したのですが、どうにも受け答えが上手く行かず……。なんというか、心ここにあらず、というような……。」
「……よし。その少女と話がしたい。案内したまえ。」
将校はそう言うと静かに椅子から立ち上がった。
その少女は、独房の中のベッドで寝かされていた。報告にあった通り両腕は無く、火傷のせいで全身に包帯が巻かれていた。
将校は部下に人払いをさせ、部屋から出るように指示した。そして、ベッドの横に立つと、少女を見下ろしながら呟いた。
「良い目をしているな。」
包帯の隙間から少女の目が将校を見る。その瞳に光は無く、引き込まれそうなほどに深い暗黒が広がっていた。
「……何か……用ですか…………」
「炎は良い。あらゆるものを蝕み、平等に全てを灰へと変える。そこには正義も悪も無い。」
将校は一人呟くと、少女の目を真直ぐに見て言った。
「望むなら、君に未来を掴む両手をあげよう。」
「………」
「ここへ友人を寄越す。鴉という男だ。まだ君の中にこの世を燃やさんとする炎があるならば、彼の言う事に従いなさい。」
それだけ言うと、彼は返事も聞かずに独房を後にした。
それから数日後。その少女は独房から忽然と姿を消し、この都市周辺で紅い狐火が目撃されるようになったという。




