17
梟は手に持った細剣を振った。刀身が淡く輝き、同時にふわりと白い霧が溢れ出る。
「怒り、焦り、不安。心の動揺は大きな隙を生みます。」
白い霧は、たちまち辺りを包み込んでいった。目の前に立つ梟の姿が次第に霧の中へ消えていく。
「視覚に頼り切った人間は、視覚を奪ってしまえば大きな不安感を覚えます。」
彼の言う通り、彰の周りは白い霧で覆われ、視覚は完全に奪われた。隣に立つリリアの姿がかろうじて見える程度だ。
リリアは彰と背中合わせに立つと、小さな声で言った。
「アイツは霧に乗じて斬り込んでくるから。背中は任せたよ。」
「……おう。」
そう答えるしかない。剣を握る手が若干汗ばんでいる。
相手は格上。それに視界も悪い。果たしてどこまでやれるのか。
彰は静かに息を吐くと目を閉じた。
視界が不明瞭ならば、逆に捨ててしまった方が良い。そうすることで、他の感覚が鋭くなるはずだ。不安だが、それが最善だ。そのための修業をしてきたのだから。
背中はリリアに任せ、感覚を前だけに集中させる。
頬を撫でる風の感覚。揺れる枝の音。立ち上る土の匂い。その中で、微かに感じる人の気配。それを更に探る。
微かな殺気を感じる。なぜか殺気の数は一つだ。これは蟷螂ではなく梟の物だろう。
地面を蹴る音が聞こえる。梟は目の前から右横まで走って行く。そして……。
「ッぶねぇ!」
彰は梟の突きを何とか躱した。だが、その剣先が頬を掠めていく。
当然、まだ実力差はある。だがこれまでの彰ならば避けることはできなかっただろう。あの修業は無駄ではなかったという事だ。
伸びた実力がごく僅かでも、以前の自分よりも強くなっている。それだけは確かだ。
「ほう。よく避けましたね。」
「アクレスに比べたら遅すぎるね。」
彰の言葉に、梟はニヤリと笑って更に猛攻を仕掛けてきた。
口では余裕ぶってみたが、実際のところ、梟の攻撃速度は修行でのアクレスの剣よりも段違いに速かった。淡く輝く剣を目で追いながら躱していくが、それでは間に合わずに幾つか浅い斬撃を受けてしまう。
だが、梟を彰に集中させることができれば良い。
彰が剣を弾くと、同時に梟の背後からリリアが飛び出した。
「貰った!」
風を斬って糸が飛ぶ。梟にとって、この攻撃は死角のはずだ。
しかし、梟は鼻で笑うと、その糸を難なく躱した。
彰は攻撃が途切れた一瞬ですぐに体勢を立て直すと、梟に斬りかかる。相手は彰の目の前。この間合いで外すことはあり得ないはずだ。
しかし、その剣は霧を裂いただけで肉を斬った感触は無かった。まるで体が霧へ溶けてしまったのかと錯覚しそうになるほどだ。
「アキラ! 伏せて!」
リリアの声が聞こえる。彰が伏せると、その頭上で風を斬る音が聞こえた。
「当たったか?」
「もちろん!」
リリアが手の糸を一気に引くと、霧の中から細い剣が飛んできた。その剣はリリアの手にすっぽりと納まる。これは梟の剣だ。微かに光の残る刀身からは、白い霧が溢れ出ている。
まさか、霧に隠れている中で攻撃されるとは思っていなかったのだろう。だが、アクレスに鍛えられた彰とリリアの感覚は、容易に彼の居場所を突き止めることができた。
「剣だけかよ。」
「仕方ないでしょ。これしか届かなかったの。」
リリアは剣を片手に霧を睨みつける。
辺りを包んでいた深い霧は、梟がこの魔法具を使って出していたものだ。つまり剣を奪ったことで、梟は攻撃の手段と身を隠す手段の二つを失ったことになる。
「さ、これで無力化したも同然。後はひたすら……」
「リリア! 後ろだ!」
彰が叫ぶと同時、リリアの背後から鈍く輝く刀身が飛び出てきた。リリアは咄嗟に避けようとするが、その刃はリリアの脇下あたりを貫いた。
後方へ倒れこむリリアを抱えると、彰はその人影に剣を振るった。だが、剣は霧を小さく揺らしただけで、何かを斬ったような感触は無い。
「父親と同じく甘いですね。」
梟の声が聞こえる。だが、その姿は見えない。
彰は右手で剣を握り締めながら、必死に気配を探る。
「勝利を確信した人間ほど脆いものはありません。」
左手の指の間から温かい血が溢れ落ちていく。リリアの小さなうめき声が、より彰の鼓動を加速させる。
「そして、精神的均衡を崩された人間には大きな隙が生じます。」
その言葉の直後、背後に殺気を感じた。もう直前まで迫っている。
剣を向けようとするが、リリアを抱えた状態では防げない。頭の中に浮かんだのは、はっきりとした死のイメージ。
――兄ちゃんが来たんだ。もう大丈夫だって!
泣きじゃくる直哉の顔が頭に浮かんできた。走馬灯と言う奴だろうか。
いじめられることの多かった直哉を、昔はこうして庇ったものだった。
直哉を守ること。これが、彰が直哉にしてやれる唯一の「兄らしいこと」だった。そして、次第に表情が明るくなっていく直哉が、彰の兄としての存在意義だった。
しかし、その小さな自信は、あっけなく打ち砕かれる。
「大丈夫だよ、兄ちゃん! すぐに治してくるって!」
白い顔で笑う直哉を見て、彰は自身の無力さを呪った。
直哉は病院で白血病と診断を受けた。医療の知識は何もない彰でも、この病の名前は知っていたし、同時に簡単に治る病ではないことも知っていた。
弟が目の前で日に日に弱っていくのが分かった。守れるはずだった存在は、手の届かない場所へ行ってしまった。何もできない自分の無力さを何度も呪った。
また守れないのか? このまま自分も死に、リリアも死なせるのか?
左手にリリアの鼓動を感じる。小さいが力強い。まだ、手が届く。
彰は右手の剣を投げ捨てると、リリアの体を抱えて地面を転がった。梟の剣が体を掠めていく。深い傷を負ったのが分かった。痛みを超えた熱さが全身を駆け巡る。
「剣を捨ててどうするんです? まさか、逃げ切れるとでも?」
よろけながらも立ち上がる彰に梟が言った。
背後は山の急斜面。梟の言う通り、ここから彼を振り切れるような策も道も無い。だが、リリアを生かすには、ここから逃げ切るしかないのだ。
「置いていって……」
抱えたリリアが小さく呟く。
「置いてく訳ないだろ。」
「なんで……」
「弟子ってのは師匠に似るんだ。」
そう答えると、リリアを抱える手に力を籠めた。ゆっくりと近づいて来る梟を、彰は睨みつける。
麓の街まで行けば病院はある。だが、ここから山道を行けば、その間にリリアが力尽きてしまうかもしれない。
残された道は背後の斜面。ここへ飛び込むことが麓の街への最短経路だ。そこまで急斜面ではないが、危険であることは確かだ。
問題は梟がそれを追ってくるかだ。追ってこられては簡単に追いつかれてしまう。
一か八かの賭けだが、これしか方法は無い。彰は呼吸を整えると、じりじりと斜面に近づいて行った。
「その荷物を抱えて斜面を下りるつもりですか? 私が追い付けないとでも?」
梟はそう言うと地を蹴った。十分あったように思えた間合いが一瞬で縮まる。
――追いつかれる!
彰がそう直感した瞬間、鎖の鳴る音が聞こえた。そして、その直後、黒く光る鎌が霧の中から梟に襲い掛かった。
梟はその鎌を弾くが、青く輝くその鎖は梟の体に絡みつく。
「勝利を確信した瞬間、人間は一番脆くなる。そうだろ?」
「蟷螂。これはどういうつもりですか?」
霧の中から現れたのは、淡く輝く鎖鎌を持った男だった。
彼は、梟に刺された片足を引きずりながらもう一つの鎌を構える。
「……ただの気まぐれだ。」
「私情を捨てきれない未熟者が。」
梟が呟くと同時、その体は鎖に引きずられて霧の中へと消えていく。
「アキラ。こいつは俺が抑えてやる。その間にそいつを連れて行け。」
「え、いや、どうしてお前が……。」
一瞬の沈黙の後、蟷螂は答えた。
「俺は進むべき道を間違えた。お前は見失うなよ。」
霧の中から梟が飛び出してきた。蟷螂はその剣を鎖で弾くが、梟の素早い蹴りが腹部に入る。
梟はそのまま彰に襲い掛かろうとするが、蟷螂がその足を鎖で捕らえた。
「行け、アキラ! そいつを……リリアを頼む。」
彰はそれに無言で頷くと、リリアを抱えて背後の斜面へと飛び込んだ。




