04.にこにこわらう
それから『ちゃんと乾かさないと風邪ひくぞ』と言って、お父さんは僕の髪をドライヤーで乾かしてくれて。
洗面台の前に二人で並んで歯みがきをしていたら、リビングの電話がプルプルプル、と鳴る音が聞こえた。
お父さんもお母さんもスマートフォンを持っていて、仕事やお友達とのやりとりはそっちでしているから、家の電話が使われる事はほとんどない。誰が掛けてきたんだろうと、思わず僕はお父さんと顔を見合わせた。
「珍しいな……こんな時間に誰だろ」
慌てて口をゆすぐと、そんな事を呟いて、お父さんが急ぎ足でリビングへと向かう。僕もこんな時間の電話の相手が気になって、歯みがきを続けながら耳をそばだてた。
「……はい、高遠です」
お父さんが、ちょっと警戒したような声で電話に出て――その声が、急にびっくりしたように跳ね上がった。
「って、灯? 何でこんな時間に、公衆電話から?」
僕に対してはお母さんの事を『お母さん』と呼ぶお父さんが口にしたのは、お母さんの名前。
電話の相手はお母さんだ。僕も急いで口をゆすぎ、パジャマの袖で唇を拭いながらリビングへと走っていく。
「充電が切れた? 動画と写真、撮り過ぎたんだな……だったら明日にでも、充電終わってから掛けてくればいいのに」
リビングではお父さんが、電話の向こうに話しかけていた。ちょっと呆れたような声とは裏腹に、にこにこ楽しそうに笑っている。
けれど突然、その目がほんの少しだけ、驚いたように見開かれた。
「縁が? ……いや別に、泣いてない」
びっくりした顔をしたまま、お父さんが僕の名前を言ってちらりとこっちを見て、それから言葉を続ける。
「ご飯食べて、お風呂入って、普通に過ごしてるけど……何で?」
どうやら僕が泣いた事を、お父さんはお母さんに言わないでいてくれたらしい。その事に安心して、僕はほぅっと小さな息をつく。
「そうか……うん、まあ、そんなに心配しなくても、こっちは大丈夫。縁も元気だし、明日は一緒にお見舞いに行きたいって。だから行くのは午後になると思う」
言葉を続けるお父さんの顔には、またにこにこ楽しそうな笑顔が戻っているけれど、そこにはやっぱり、まだちょっとだけ驚いたような表情が残っていた。
どうしてお父さんは、そんな変な顔をしているんだろうと気になったけれど。お母さんが何を言っているのか聞こえない僕には、いくら考えてもその理由は分からない。
そう思ったら、ものすごくお母さんの声が聞きたくなって、僕は思わずお父さんに駆け寄っていた。
「おとうさん。僕もおかあさんと話したい」
お父さんは背が高いから、僕がいくら背伸びをしても、耳に当てた受話器には手が届かない。だからお父さんの電話を持っていない方の手を掴んで、僕はぎゅうぎゅうと引っ張った。
だけど、そんな事をしなくても、たとえ何も言わなかったとしても。お父さんは、僕の気持ちが分かっているみたいだった。
「掛けてきてくれて良かった……縁がお母さんと話したいって。ちょっと待ってて」
僕に一つ頷いて見せてから、お父さんはお母さんにそう言って、電話の保留ボタンを押した。名前の分からない、でもどこかで聞いた覚えのあるクラシック音楽が、受話器から流れ出す。
お父さんが、受話器を差し出してくれたけれど――それは僕が受け取る直前、手の届かない高いところにひょいと引っ込められる。
「おとうさん?」
「……内緒だからな」
不思議に思って呼びかけると、お父さんは今日何度目かの悪い事を考える時の顔で、にやりと笑った。
「お風呂でアイス食べた事。お母さんに、絶対言うなよ?」
「……うん」
その言葉に、僕はこっくりと頷いて見せる。
お父さんは、僕が寂しくて泣いてしまった事を、お母さんに秘密にしてくれた。だったら、お風呂でアイスを食べた事を僕がお母さんに告げ口するのは、公平じゃないだろう。
「言わないよ」
そう答えると、お父さんはちょっと安心したように笑って、受話器をもう一度差し出してくれる。
にこにこ、にこにこ。笑ったお父さんから受け取った受話器。その向こうにはお母さんがいて、多分今もにこにこ笑って、僕が電話に出るのを待っている。
お母さんの側には、生まれたばかりの赤ちゃん。今は眠っているかもしれないけれど、にこにこ笑っていてくれるといいなと、僕は思う。
そんな事を考えたら、何だか幸せな気持ちになってきて。
気がついたら僕もちょっとだけ、にこにこ笑顔になっていた。
僕が受話器を耳に当てると、お父さんが保留ボタンを押してくれる。とたんに、鳴り続けていたクラシック音楽がぴたりと止まって、耳の奥が静かになった。
「もしもし……おかあさん?」
そして、電話の向こうで僕を待っていてくれたお母さんに向かって。
僕は多分ちょっとだけ、いつもより機嫌良く聞こえる声を出した。
次の日、僕はふやふやのシリアルを食べて学校に行って、帰ってからお父さんと一緒に病院に行った。
にこにこ笑って迎えてくれたお母さんは、僕をぎゅうっと抱きしめてくれて、僕はほんのちょっとだけ泣いてしまって。
すやすや眠る赤ちゃんは、やっぱりお猿さんみたいな顔をしていたけれど、とっても可愛かった。
縁君とお父さんのお話はこれでおしまいです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




