02.ぽろぽろこぼす
お父さんが買ってきてくれたおやつを食べたら、部屋で宿題をする時間。今日は算数のドリルが二ページだけだったから、あっという間に終わった。
なんとなくリビングに行く気が起きなくて、宿題が終わった後も部屋で本を読んで過ごす。六時過ぎくらいにお父さんが来て、晩ごはんができたと教えてくれた。
昨日の晩ごはんはお好み焼き。今日はチャーハンか焼きそばかな、と思いながらダイニングに行ったけれど、僕の予想は外れてしまった。
「ハンバーグ……」
白いお皿には、小判みたいな形をした大きなハンバーグ。隣にブロッコリーとニンジンが添えられていて、上には目玉焼きも乗っている――お母さんが作ってくれるごはんの中で、僕が一番好きなものだ。
「この前たくさん作って冷凍した分が残ってるって、お母さんが今日言ってたから」
向かいの席に座ったお父さんが、そんな事を言った。
ハンバーグからはとってもおいしそうな匂いがしていて、僕のお腹はぐうぐう鳴っている。それなのに、何だかお腹の奥がもぞもぞ、ぐるぐるしている感じがした。別に気持ちが悪いわけじゃないけど、変な気分。
お腹が空いているのは本当だから、僕は椅子に座って、いただきますをしてからフォークを手に取った。ハンバーグを一切れ持ち上げ口に入れる。当たり前だけど、お母さんが作ってくれるハンバーグと全く同じ味がして、なぜだか胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
「昼間、お前が学校に行ってるうちに、お見舞いに行ってきた」
ハンバーグを食べながら、お父さんがスマートフォンを僕に見せてくれる。お母さんが見たら『食事中のスマホはお行儀が悪い』と言うだろうけど、そのお母さんは今この家にはいない。
小さな画面の中に、パジャマ姿のお母さんが写っていた。こちらを見て、嬉しそうににこにこ笑っている。その顔から目をそらして、僕はお母さんの腕の中にいる赤ちゃんを見た。
ふわふわの髪の毛と、しわしわの顔をした、小さな赤ちゃん。黒い瞳が、お母さんの顔の方をぼうっと見つめている。
赤ちゃんは昨日見た写真よりも、ちょっとしわしわじゃなくなった気がする。でも、お猿さんみたいな顔をしているのは、昨日と同じだった。
「髪の毛、茶色い」
「まだ量が少なくて、一本一本が細いからな」
ぽつりと僕が口にした感想に、お父さんは苦笑いしながら答えて、それから言った。
「お前も生まれた時は、こんな髪の毛してたんだぞ」
「……ふうん」
思わず僕は、左手の指で自分の前髪をつまんで見た。
僕の髪は、今もちょっとだけ茶色い。生まれたばかりのこの子も、大きくなったらこんな色の髪の毛になるのだろうかと、どうでもいい疑問が頭に浮かんだ。
「今日は動画も撮ってきたぞ」
そう言って、楽しそうなお父さんが画面を何度かタップする。今度はそこに、赤ちゃんの姿が大写しになった。
動画の中で、ベッドに寝かされた赤ちゃんが、きゅっと両目を閉じている。小さな口がふにふに動いたと思ったら、大きく開いてふわっとあくびをした。可愛い。
『あくびした……可愛い』
と、スマートフォンの中から、僕の心を読んだみたいなお母さんの声がする。その声が聞こえた途端、急に僕は鼻の奥がつーんと痛くなった。
『小さいな……あいつもこんなに小さかったっけ?』
今度はお父さんの声。そうしたら『うーん……』と、何かを考えるお母さんの、小さなうなり声がした。
『ええと……あの子が確か、三一九四グラムだったから。この子の方が小さいよ、七十グラムくらいは』
『七十グラムって……誤差みたいなもんだろ、それ』
ちょっと呆れたようなお父さんの言葉に、お母さんが小さく笑って――そこで動画は終わった。
僕はスマートフォンから目をそらして、またハンバーグを一口食べる。やっぱりお母さんの作ってくれるハンバーグと同じ味がするのに、これを焼いてくれたのはお母さんじゃない。そう思った途端、鼻の奥がもっと痛くなって、味が良く分からなくなった。
目の前の景色が、急激にぼやける。お皿の上のハンバーグが、変てこな茶色と緑とオレンジの塊に変わって――まばたきした拍子に、僕の目からぽろっと涙がこぼれ落ちた。
我慢しようとしたけれど、止まらない。涙はぽろぽろと僕の目からあふれて、テーブルの上にぽたぽたと落ちていく。
「え……? ど、どうした、急に」
テーブルの向こうから慌てたようなお父さんの声が聞こえたけれど、僕は答えられない。口を開いたらかっこ悪い泣き声が飛び出しそうで、僕は唇を噛み締めてそれを我慢する。
お腹の中はぐるぐるしていて、胸の奥もぎゅうっと痛い。口を閉じているせいで、上手に息ができなくて苦しくなってきた。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。涙だけがこぼれて行く。その合間に、ぐすっと鼻をすする音。
気がついたらお父さんがこっちに来ていて、僕の側に膝をついていた。大きな両腕でぎゅうっと抱きしめられたから、僕もお父さんの首の後ろをぎゅうっと抱きしめ返す。
「お見舞い行きたかったの、我慢してたのか?」
お父さんが、僕に聞いてくる。よしよし、と背中をさすってくれる手のひらがとっても温かい。僕はうん、と返事をしようとしたけれど、食いしばった歯の隙間からは「……ん」と変な声しか出てくれなかった。
「お見舞いに行ったら、余計寂しくなるから?」
「……ん」
「我慢しなくて良かったのに。お見舞いも……寂しいのも」
「……ん」
お父さんがそう呟いて、ふ、と困ったようなため息をこぼす。それがまた、僕の胸にちくりと突き刺さった。
「僕は……おにいちゃんだから」
こぼした涙がお父さんのセーターに染み込んでいくのを見つめながら、僕はようやく口を開く。鼻が詰まっていて、上手く声が出せなかったけど、お父さんには多分伝わったと思う。
胸の奥がぎゅうぎゅう潰れたみたいに痛い理由は、本当は僕にも分かっていた。だって、こういうふうに胸が痛くなったのは昨日から――朝起きて、お母さんがいないと気がついた時からだったから。
だからお見舞いに行ってお母さんに会ったら、僕はきっと泣いてしまう。寂しいって、早く帰って来てって、お母さんに言ってしまう。そうしたら、優しいお母さんはきっと困るだろう。
そう思って、本当はお見舞いに行きたかったけど、僕は我慢した。
お母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんのお世話をしなきゃいけない。僕はお兄ちゃんだから、もうお母さんを困らせちゃいけないんだ。
でも、お母さんの前では泣かなかったけど、結局こうしてお父さんの前で泣いてしまった。お父さんを困らせてしまった。
僕はもう八歳なのに。小学二年生なのに。本当にかっこ悪い。
これ以上かっこ悪くなりたくなくて、僕は何にも言わずにただ泣いていた。
だけどお父さんは、何も言わない僕が何を考えているか分かったみたいに「そっか」と小さく呟く。
「気づかなくて、ごめんな」
「……ん」
ぽんぽん、と背中を優しく叩きながら、お父さんがそんな事を言ったけど――僕の口から飛び出したのは、やっぱり変てこな返事だけだった。




