01.きらきらひかる
朝の家の中は、色々な音がする。
洗濯機が動く音、時報代わりにつけっぱなしにしているテレビの音、それから僕が目の前のシリアルをスプーンでかき混ぜる音。
僕は牛乳にひたして、ふやふやになったシリアルが好きだ。今一口食べたそれは、まだ少し硬い――あと、もうちょっと。
お母さんは、僕がそうやってシリアルを食べるのを知っている。だからいつも、僕が起きる前にシリアルに牛乳をかけて、ふやふやにしておいてくれるけれど。
今朝テーブルに座った時に出てきたシリアルは、まだ牛乳をかけたばかりの、かりかりしたものだった。
なぜなら、今日シリアルを用意してくれたのはお母さんではなくて、お父さんだったから。
お父さんはいつも、僕が起きるより早く仕事に出掛けてしまう。だからきっと、僕がふやふやのシリアルが好きな事を知らないんだ。
そのお父さんは今、僕の向かいの席に座ってコーヒーを飲んでいる。着ているのはお仕事の時のスーツじゃなくて、お休みの時のセーターとジーンズ。
今日は火曜日だけどお休みなんだ、とお父さんは言っていた。今日だけじゃなく、今週は月曜日から金曜日まで、全部お休みなんだって。
シリアルがふやふやにならなくても、学校に行く時間はいつも通りやって来る。だからそろそろ諦めて、まだちょっとかりかりしているシリアルを食べた方がいいんだと分かってるけど。
でも、何となく、今日もお母さんが用意してくれるような、ふやふやのシリアルが食べたくて。僕はぐるぐる、お皿の中をスプーンでかき回し続ける。
お父さんはそんな僕の姿をちょっとの間、じっと見て。
それから「そういえば」と急に口を開いた。
「今日もお母さんのお見舞いに行くけど、お前はどうする? 一緒に来るか?」
ことり、とマグカップをテーブルに置いて、お父さんが聞いてくる。
病院の決まりで、昨日はお母さんに会っていいのはお父さんだけだった日。でも今日からは、僕もお母さんに会っていいらしい。
頭の中に、お母さんの顔が浮かぶ。いつもにこにこしていて、ふやふやのシリアルを用意してくれるお母さん。
月曜日の朝起きたら、お母さんはいなくなっていた。代わりにお父さんが家にいて――僕が寝ている間にお母さんは病院に行って、そのまま入院になった、と教えてくれた。
「……僕は、行かない」
ちょっとだけ考えてから、僕は首を横に振る。途端に、胸の奥がぎゅうっと押し潰されたような気がしたけれど――気づかなかったふりをして、僕はシリアルを一口食べた。
かなりふやふやになったけど、最後だけちょっと硬い。でも、もうこのまま食べてしまおう。僕はまたシリアルをスプーンですくう。
お父さんは「どうして?」とは聞かなかった。代わりに「分かった」と呟いて、マグカップを持ち上げる。
「……おとうさん」
「んー?」
「おかあさんは、いつ退院するの?」
昨日も聞いたから、答えはもう分かっている。でも、ひょっとしたら、答えが変わるかもしれないと思って。僕は今日も聞いてみた。
「土曜日……だけど」
だけど、返ってきたのは昨日と同じ答え。
がっかりしたけど、でもがっかりした顔を見せないように気をつけて、僕はこくんと頷いた。
お昼休みの教室で、「お母さんに作ってもらったんだ!」と元気な声が聞こえてきて、僕はそっちを振り向いた。
声の主は、窓際の席の女の子。お友達の女の子に向かって自分の頭を指さして、にこにこ笑っている。
その子が示しているのは、長い髪を結んでいるヘアゴム。色とりどりのビーズが、その子が動くたびに揺れて、きらきらと光っていた。
お母さんが手芸が得意な人みたいで、その子はいつも、お母さんに作ってもらったという髪飾りや、服や、バッグを持っている。
それを羨ましい、と思った事はない。その子は女の子で、僕は男の子。お母さんに髪飾りなんて作ってもらっても、僕だったら全然嬉しくない。
でも、その子が口にする「お母さん」という言葉。それに、窓から入る光を受ける、お母さんお手製だというヘアゴムのビーズのきらめき。それが僕の心に、なぜだか妙に引っかかった。
きらきら、きらきら。ビーズが光る。「どの色のビーズにするか、お母さんと一緒に選んだの!」。女の子の楽しそうな声。
「にっしー、どうしたの?」
その時、急に呼ばれて僕ははっと我に返った。隣の席に座った友達が、ぼうっとしていた僕を不思議そうに見つめている。
にっしー、というのが僕のあだ名。クラスの誰かが呼び始めたものが、いつの間にかみんなに広まって、当たり前のものになっていた。
「何見てたの?」
「……何でもない」
僕は首を横に振りながら、そう返事をして。
お母さんの事も、きらきらしたビーズの事も、頭の中から追い出した。
家に帰って、背伸びをしてインターホンを鳴らすと、ガレージの方からお父さんの声がした。
「お帰り」
「……ただいま」
街を走っていると同じ車種を良く見かける、五人乗りのネイビーの車。お父さんがばたん、と後部座席のドアを閉める。
「今帰って来たの?」
「いや、お昼前に帰って来て……今はチャイルドシート付けてただけ」
お父さんがそう答えたから、僕は後部座席を覗き込んだ。お母さんがいつも座っている助手席の後ろに、ゆりかごみたいな形をした、赤ちゃん用のチャイルドシートが見える。
「おやつ買って来たけど、食べるか?」
「……食べる」
そう聞かれて、僕はこくんと頷いた。
玄関のドアを開けて家に入って行くお父さんは、朝よりもご機嫌みたいだった。
朝だって機嫌は悪くなかったし、そもそもお父さんがいらいらしてるところなんて、全然見た事ないけれど。
でも今は多分、とっても機嫌がいい。話す声はいつもよりもちょっと優しいし、顔だってにこにこしてる。耳を澄ますと、小さな鼻歌まで聞こえてきた。
お父さんの機嫌がいいのは、多分お見舞いに行ったから――お見舞いに行って、お母さんに会ったから。お母さんもきっと、にこにこ笑ってお父さんを迎えたんだろう。
その様子を想像して、にこにこするお母さんの事を考えて、胸の奥がまたぎゅうっと潰れたように痛くなったけど。
僕はやっぱり気がつかないふりをして、玄関で靴を脱いだ。




