第52話開戦
薄暗い洞窟内に響く鈍い足音が、胸の鼓動を早まらせる。
焦り。緊張。
その根源の恐怖を抑えようと、呼吸を深く遅くさせる。
数歩前に出て、絆を庇う様に私は右手を横に出した。
同時に敵の男が立ち止まる。
距離にして5メートル前後。
意を決して私は口を開いた。
「帰れない、ってどうしてかしら?」
「オイオイ分かってンだろ死ぬのさテメェらは。不幸中の幸いとでも言おうか、この俺の手によってだァ…!」
「死ぬのに不幸も幸福もあるなんて、初めて知ったわ私」
回る舌の裏にある回る思考。
この男から逃げ出す方法、その最適解を見つけなきゃ。
「はンッ、どうせ主観的な考えだァ。理解なんて求めちゃいねぇ。精々恨めェ、この俺をッ、己の弱者ぶりをッ、救いを求めど無視を決め込むクソッたれな神サマをよォ!」
言葉に、顔に、気迫を乗せて私に詰め寄る白髪混じりの男。
額と額とがぶつかり、目と目が合う。
「―――ッ…!」
一瞬、呼吸が死んだ。
この男の黒い瞳を間近に見た瞬間分かってしまったのだ。
――――この人、正気だ…正気のまま狂ってる。
本当に狂った人間の目に宿る、背筋を指で撫でられるようなあの気持ち悪さ。ふとした瞬間に壊れてしまいそうな脆さ。
確かに少し感じる。けれど、それを押さえ付けている。瞳の奥に隠れているどす黒いモノが。鋭く強いモノが…。
狂気を上回るモノ。そう、それを一言で表すのなら、『殺意』だ。
怖気が体を駆け巡り、スーッと力が抜けていく。
立っているのもやっとになる。
「どうした?話を引き延ばすんじゃなかったのかァ。この俺から逃げる、その策を練るために、一秒でも長く、長く、長く、長く長く長くゥッ!………………さァ、抵抗しろってんだァ」
勝てないことは知っていた、だから諦めていた。
―――助かることは。
「…ッく!」
歯を食いしばる。
譲れない物は一つだけ、絆の命だけ。
だったら、その想いだけで思考を埋め尽くしなさい。
纏わり付いた怯えを振り払い、そして―――。
「第二…形態!」
地を蹴り瞬時に回転を。
足をブーツのように覆う結晶。
生まれた勢いをそのままに、男の横顔に打つ―――蹴り!
「……ぅ、そッ!?」
しかし、魔力を纏った男の細腕がそれを防いだ。
「…ぁあ、ダメだダメだそれじゃダメだ弱過ぎるゥ……!ガッカリだァ……」
瞳に映った気味な笑みを浮かべた男の顔。
途端、その顔面が不機嫌な色に染まった。
「なぁ、知ってるかァ?今からテメェら2人を使ってここで実験すンだとよォ。"実験"って名前が付いてんだ、クルイトの発案たァは思うが………ンなくっだんねェ事に付き合わされる身にもなれってんだ!アトナの野郎の命令さえなけりゃこんな仕事蹴ってやったのによォッ。…オマケに?さっきのカンピオーネのガキと同じ無駄な事する奴が目の前にいやがる。虫酸が走って仕方ねェ!……なぁ、違うんだよ、その程度の覚悟じゃ、力じゃ、何にも、守れや―――しねェッ!!」
男の腕が私の足を徐々に押し戻し、そして、一気に払われた。
崩れる体勢、直ぐに立て直す。
だがその隙に、魔力を帯びた男の手刀が襲い掛かっていた。
―――不味いッ…!
一か八かの回避。
けれど悟った、間に合わない。
「…えッ?」
首筋の手前。男の手が止まっていた。
いや、止められていた。
地面に浮かび上がった赤い魔法陣。
赤い色の魔力で出来た鎖がそこから伸び、男の首を、両腕を、両足を拘束していたのだ。
「あァ?動かねェ、それに魔力も封じられてやがるだとォ?」
「第一形態での鎖魔法だからね、簡単にはこの捕縛からは逃げらんないよ」
後ろから聞こえて来た絆の声。
「へェ…中々面白れぇ魔法を使いやがるゥ…。キヒィッ、だァがそれがどうしたッ。その程度で、俺を、この俺様を、止めたとでも言いやがるのかァ!…笑わせんじゃあねェぞォ…。―――第一形態ォ!」
「…んなッ!?」
煌々と輝く白い魔力の渦。その勢いに、思わず両腕を盾代わりにして顔をガードする。
絆と私と、そして白髪の男。
同じ第一形態でどうしてここまで力に差が生まれるの?
答えは出ないと少し前に理解したはずなのに、憤りの混ざったその疑問が再び脳裏に浮かぶ。
ただそれも、一瞬の内に掻き消える。
私にそんな事を考える暇なんてありはしなかった。
魔力の鎖に入るヒビ。
広がり、そして、より深く入ってゆく。
―――パキンッ。
鎖が砕ける、粉々に。
瞬間、唐突、白の魔力の乱舞の内側から、男の手が伸びて来た。
高まる焦り、止まる思考。
反射的に動いた体が後ろへ跳躍し、その手から逃れた。
靴裏が地面を擦り、それによって生まれた勢いを殺す。
しかし。
「後ろだァ…」
背後からの男の声。
咄嗟に振り返る―――その途中!
「カ――ハッ……!」
脇腹へと捩じ込まれた拳。
吹き飛ばされる、後ろに、弾丸のような速度で。
岩肌に体が叩き付けられ、肺の空気が全て外へ。
激痛、堪える涙、陥る呼吸困難。
―――肋…折れたッ……!
立たなきゃダメなのに、体が言うことを聞いてくれない。
痛い、痛い、痛い痛い痛い……ッ。
「さァ…まず1人目ェ……」
地面に転がり、顔面に砂利を押し付けられるのを感じつつ、私は怯えた目で男を見た。
暴れる純白の魔力が突き出した右手に集束していた。
「ぅ、くッ…ぁああああアアッッ!!」
痛みを無視し、動かぬ体を見限って、私は力の限り魔力を放出させた。
紫紺の色に光る魔力の乱舞。その衝撃で男の動きを阻害する。ただそれも、数秒の継続がやっと。無理が祟って更に上がる息。
強くなろうと努力した。でも、それも死の先延ばしにかならなかった。
―――使うしかないの?第三形態を…ッ。
確かに、あの力ならあの男を上回れるかもしれないし、絆は第一形態までしか使えない。
ただし、それは私の心が万全の状況での話。
勝てるとか、負けるとかの話じゃない。
―――怖い…………。
生まれて初めて感じた殺意が。
殺気なんて生易しい物じゃない、本気の意思。
重みが違った。
1年前感じたそれは、死を軽く見る狂人の殺気だったんだ…。
「クキ、キク、キヒッ、キヒヒヒヒヒィッ、キハハハハハハハハハハッッ…!!!どーしたァ!抵抗は終わりかァ!?終わりでィいよなァ……?」
一歩ずつ、おもむろにこちらへ進む男の足。
その右手の掌に、再び集まる魔力。
それを、おもむろに私へ向ける。
「死は唐突に、理不尽に、残酷に。幸福は失われ、不幸の業火に焼かれ終わりを告げる。それが一瞬なら楽だろう。それがせめてもの救いだ。だからァ、俺が救ってやるよォ……ッ!」
……あぁ、なるほど。
確かにそれは不幸中の幸いなのだろう。
死の予感を感じつつ、納得した。
男が掌の魔力を高め、世界が白に包まれる。
こんな所でなんて死ねない。
絆がまだ生きている。
立たなきゃ、まだ出来ることがあるなら。
どうか、暴走しないで。
そう願いながら。
―――第三………。
「晶花ッ…!」
「……え?」
視界が切り替わった。
違う、突然の事に頭が追い付かずそう錯覚しただけ。
急速に思考が回り出す。
敵が放った魔弾が私に襲い来る中。
真横から飛び込んで来た絆が、途中、私を抱き締めて、勢いのままにそこから離脱したんだ。
ただ1つ、ミスがあったとするのなら、それは―――。
「きず…――!」
「ゴフッ………」
絆が間に合わなかった事だ。
絆の口から吐き出された血塊が、私の胸元に掛かった。
血で濡れた服が肌に張り付く気持ち悪さよりも先に、驚愕が私の頭を染め上げた。
―――何で…!外傷なんてどこにも…!
そこまで考えて、絆の脇腹に触れる私の右手が濡れていることに気が付いた。
暖かい。怯えながら、私はその手を眼前まで持ってきた。
右手は、鮮血に染まっていた。
「そ、そんな…き、ずな………きずな、きずな!」
嘘だ…嘘だ、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……!
何で、どうして、私を助けたのよ!逃げれば良かったじゃないッ…!
嫌、嫌、嫌……。
もう、1人にしないで……ッ。
何をすれば良いのか、もう分からなかった。
弱い私が憎かった。殺してしまいたい程に。
「あーァ…余計な事しやがってェ。そしたら楽に死ねたのによォ…」
哀れむような神父の男の声。
止めどないこの怒りを、この男にぶつけてやれればどれだけ良かっただろう…。
涙が溢れ頬に流れる。
「さァ、今度こそ終わりして――――」
その瞬間だった。
洞窟の天井が、一瞬にして崩壊した。
「ぅ、くッ…な、何!?」
戸惑いながらも、落石により目の前の道が塞がっていくのを私は見た。神父の男とは分断される形での落石だった。
後ろからは風が流れて来ている。出口とは繋がっていた。
あまりに都合が良すぎる事故。
そんな事、あり得ない。
「…到着。晶花、手を…」
薄暗い闇の中、青い髪が揺れた。
「レイン、君…?」
土煙を掻き分けて私の目の前に現れ手を差しのべて来たのは、レイン君だった。
「肯定。逃走を開始する」
「え…?でも、絆が、そ、それに敵も……!」
しかし、途中で気付いた。
絆が宙に浮いた水の球体の中にいることを。
中は水がないのか、絆はしっかりと呼吸をしていた。
「問題ない、移動しながら治療する。それに…」
言葉を区切り、落石した場所へレイン君は視線を向けた後。
「敵の足止めは、俺の相棒がする」
「…で、でも、桐島君じゃ……」
「敵と戦えるのは自分だけだ、と刃が言った。そして、大丈夫だ、と言われた。…だから、それを信じて行動するのが俺達の役目だ」
何も、言えなかった。
それが今の最善手だと思ったから。
「……信じてるからな、刃」
レイン君のその呟きは、私には聞こえなかった。
「行くぞ」
彼の言葉と共に、私達の逃走が始まった。
告:この前、1ヶ月に一回改訂作業の時間を頂きます、と告知しましたが、4月は無しでいこうと思います。というより、4月に一度出していますので。
以上です。
それでは、また次回!




