第22話閉ざされた心
暗くてカビ臭い、人がそこに寝泊まりするには少々不衛生な部屋の隅で、レーナ・アルファーノはうずくまっていた。
「どうして…助けなんかを…」
数時間ほど前、彼女は助けを求めた。
「助けて」。初めて言ったかも知れないそんな言葉を誰かに、それも、守りたいと思った人たちに向けて言い放ったのだ。
「うぅッ……」
未だに痛む左肩を右手で添えるように軽く押さえる。
どうして、この手を伸ばしたんだろう?今思ったらあの時はどうかしてた…。
彼女はそう思った。だが実際、気付いたらその言葉を口にしていたのだ。肩から流れた血で濡れた手を伸ばしていたのだ。
右手で左肩をギュッと掴んだ。肩に走る痛み。さっき応急処置である程度塞がっていた傷口が開き、巻いた包帯に血が滲み、それが着替えた白いワンピースも赤く染め上げる。自分の我が儘さ加減が恨めしくて…仕方がないのだ…。
なぜ助けを求めたのか。それくらいのこと、彼女自身は理解していた。
痛くて、苦しい、そんな今まで我慢していた感情が急に押さえきれなくなったからだ。そして、一瞬だけそれを溢れさせてしまった。
馬鹿だ。この力で何人殺してきたか分からないと言うのに、そんな人間が助けを求めてしまった…。
馬鹿だ。今更、助かりたいと思うだなんて…。
助けてもらえると思うだなんて…。
一体どれだけ自分は我が儘なのだろうか。
挙げ句の果てには、不信感を抱きながらも自分を助けようとしてくれた彼らの手が届かず、ここに連れ戻された瞬間にどうして掴んでくれなかったのかと落胆し、絶望してしまった。
《もし、また会えたなら…謝りたいよ…》
押し寄せてくる罪悪感で心が押し潰されて、いっそ狂ってしまいたいとさえ彼女は思った。
冷めたはずの目頭がまた熱くなってくるのを感じる。
耐えよう、いつものように。そうでなければ、また感情が溢れてきて我が儘が出てきてしまう。
キィーー
扉が開くときの音だ。
変わってしまった人類の歴史だったが、文明は百年前よりも開花し、建物の質だって良くなっている。にも関わらず、この部屋は木造だ。所々が傷んでしまっているせいか歩くと床は軋むし、扉を開ければこうして甲高い音が鳴る。
部屋に差し込む廊下の光がレーナを照らすとともに、声が聞こえた。
「よぉ、生きてるよなぁ?」
「入って、来ないで…」
声の主はベニートだった。
相変わらず人を見下したような態度と不気味な笑みを浮かべているのを彼女は一瞥して言う。
今は一人にしてほしかったからだ。
しかし、ベニートはそんな彼女の言葉など耳に入っていないかのように、ズカズカと部屋に入ってくる。
「あぁ?おいおい、何勝手に塞いだ傷口広げてんだよ。」
ベニートは苛ついたような不機嫌な顔になってそう言った。
私の勝手じゃない…とレーナは言うが、ベニートは彼女に近づき、怪我をしていない方の腕を掴み強引に部屋の隅から中央に彼女を引っ張ってそこに投げ捨てる。
転ぶように座り込んだレーナはベニートを睨み付けた。
それを見て不機嫌そうだった顔をベニートは笑顔に変えた。今度は、あの不気味なものではなく、壊れたと思った玩具がまだ壊れていないと分かった時のような嫌なものだった。
「ほんとは俺がその傷口を開いて遊んでやろうって思ってたんだがまぁいい。どうやら、反抗心が強まってるみたいだからな。いじめがいがある。」
「やっぱり、そんな低レベルなことしかできないのね。弱いものいじめなんて弱者が弱者にすることなのに。」
「俺が弱者だってか?」
「そうでないなら何だって言うの?」
「強者だ。俺は強者だ。惨めで汚い弱者なんかじゃねぇ。」
「どうして、弱者が惨めで汚いの?」
「弱いからだ。弱くて何も出来ない。俺はそうじゃねぇ。」
「答えになってない。」
「なってるさ。お前は俺に痛めつけられる。だが、お前は何も出来ない。ボロボロになっても、半殺しになるまでそれが続く。汚いじゃねぇか。惨めで仕方ないだろうがよぉ。俺は正しい!俺は強者だ!何も出来ないお前ら弱者とは違う!」
「……………」
「ほら泣けよ!泣いてその面歪めちまえ!」
「こんなの…痛くも…痒くも…ない…」
左肩を思い切り掴まれ、傷口が更に開いていく。けれども、彼女は泣かなかった。泣かされたくなかった。こんな弱者たちに泣かされるくらいなら我慢した方がまだましだった。
彼女はたしかに彼の言う通り弱者だった。だが、それでも目の前で自分を痛めつけて笑っているような弱者たちに負けたくなかったのだ。
弱者は惨めで汚い。
彼はそう言った。けれど、本当に惨めで汚いのは彼らのような弱者だと彼女はいつも思う。
屈してはいけない。抗うのだ、と彼女は決めていた。一人でも、諦めずに身内を止めてみせると誓っていた。
幼い頃から何度、こんな絶望感に苛まれたか分からない。自己嫌悪だってした。それでも、彼女は自分の信じる道を貫く弱者でいたかったのだ。だから、頑張れた。泣かずに我慢出来た。今回は少しいつもと状況が違っていただけだ。
腹を蹴られたが、痛くない。我慢できる。
「どうしたの?痛めつけるんでしょ?やりなさいよ…」
「うるさい、黙れ!」
「うるさいのは貴方じゃない…」
「苛つくなぁ!炙ってやる。火ノ宮の炎なら、ちったぁ効くだろ。」
「まって…錬魔が帰って?」
「あぁ?ったりめぇだろ?あの二人のガキ殺してとっくに風呂入って寝たに決まってんだろ。あいつの強さを忘れたのか?」
「そんな…」
ベニートの告げた事実に彼女は言葉を失う。あの二人が死んだ。頭の中で勝手に彼らが生きていることになっていた。あの二人なら、生きてるかも…。そう思っていたのに、違った。
血の気が引いていく。
《殺した…私が関わったせいで。》
みるみるうちに顔色を悪くしていくレーナを見たベニートは悪魔のような顔をして彼女に尋ねる。
「どうした?まさか…お友達だったか?あぁ、可哀想に…」
そして、青い顔をして見上げるレーナの耳元に寄り、囁いた。
「ヒ・ト・ゴ・ロ・シ」
人殺し。
彼女は理解した。自分は守りたい人をも殺してしまったと。
そんな彼女を、ベニートは嘲け笑う。
「そうだ、お前は人殺しだ。そして、また殺す。今度は何人殺せるんだろうなぁ?まぁ、少なくとも千代田区の人間は全滅間違いなしだ。お前の力でドォーーンだろうからな!ひひっ。」
しばらくしてベニートは部屋を後にした。去り際に「あー、スッキリしたぜ!ひひっ。」と言って。
実際、火ノ宮錬魔は自分の目的のために、桐島刃とレイン・バレットを殺してはいない。
しかし、そんなことを弱者である彼女や彼女の身内たちは知り得ただろうか?
否である。
ベニートは火ノ宮の偽りの真実を信じ込み、それをレーナ・アルファーノに語った。彼女はそれに悲しみ、自らを責めた。
それがことの顛末だった。
彼女は思った。
《死ななきゃ…》
大切な人達を殺した自分は、彼らの言う通り何の価値もない人間だ。だが、そんな人間にも出来ることがあるのを彼女は知っていたのだ。
レーナの中に眠る力で彼女の父親は、五か国の首相を殺害すると言った。
加えてベニートは何と言っただろうか?千代田区の人間を全滅させる。それも、自分のこの呪われた力で。
そんな、人を不幸にしか出来ない人間に出来ることは何か?
―――自殺――
答えは、恐ろしく簡単だった。
単純な不幸の元凶の消滅だった。
そして、誰もいないここでなら、それが可能だった。
部屋を見渡す。すると、壁にあるものを見つけた。丸い鏡だ。元々、寝癖などを直すために壁に飾られたそれはそこまで大きくなく精々、顔をそこに映すのに十分なくらいのものだった。
その鏡はヒビ割れており、立ってそれに近づいた彼女は一番大きな鏡の破片に手をかけ、手に持った。
ホッとしたようにその口元を緩ませ、自分を殺してくれる処刑人を見つめる。
処刑場と言うには似つかわしくない場所だが、時間がないのだから仕方がない。
レーナは鏡の破片の鋭く尖ったよく切れそうな部分を自分に向け、首元に近づける。
頸動脈を切れば後は大量出血で全てが終わる。万が一にも治療されてしまわないように深く切り込むつもりでレーナは自らの命を絶とうと首に鏡を突き立てる。
《死ぬんだ…私は。これ以上悪いことが起きないよう、死ぬことが出来るんだ…。》
彼女は安堵した。
大切な人達ですら守れなかった自分だけれども、今度こそ、誰かを守ることが出来るのだと。
だが…
「…あれ?何…これ…」
自らの命を絶とうと動いたその瞬間、彼女は走馬灯を見た。頭の中でまるで映像が流れているかのような感覚だった。
思わず手が止まる。
今までの散々な出来事が走馬灯の内容だったなら彼女は手を止めてはいなかった。しかし、実際に今、彼女の中で流れているものはそんなものではなかった。
暗かった彼女の世界を明るく照らしてくれた彼女にとって初めての友人二人との大切な思い出。彼女にとって忘れ難い短くも平和な思い出。
それが、今彼女が見ているものだ。
「やだ…私、決めたのに…」
気が付いたら、彼女の目からは涙が流れていた。数時間前に流したほんの僅かな一筋の涙などではない。溢れて、流れていったそばから、また目に涙が溢れてくるのだ。彼女は床に力なく座りこんだ。
「泣いてる暇なんて…ないのに…」
それなのに、涙が止まってくれない。蓋をしたはずなのに、ドッと溢れ出してくる感情。
感情にした蓋などもう彼女の心にはどこにもなかった。
《死にたく…ないよ…。生きたい…私は、生きたいよ…!まだ、この思い出を忘れたくない!嫌だよ!もうあの二人はいないし、覚えてるの私だけだけど…それでも、初めて楽しかった、嬉しかった、温かかったんだよ!忘れたいわけないじゃん!》
するべきこととやりたいこと。
どちらも、手放せない。
心が死にたがってくれない。
頭は理解していた。死ななければならないことを。
けれど、どれだけ鏡を持つ手に力を入れて首を切ろうとしても、何度試してみても、やはり手が止まってしまう。
鏡を強く握っているせいで、彼女の右手は赤く染まっていた。
「助けてよ…」
ガシャンと手に持っていた鏡の破片を床に落としながら、彼女は呟く。
自分でも誰にお願いしているのか分からなかったが言わずにはいられなかった。
死ぬことが怖い。
一度は克服したと思った。
だが、また怖くなってしまった。
知ってしまった。死にたくない理由が死の直前に感じる痛みだけではないということを。記憶なんてものが、その理由のひとつになり得るということを。
今までなかった大切な思い出が、盛大に彼女の後ろ髪を引っ張ったのだ。
死ねない。どうしても、死んでしまいたくない。
これから起こることを考えれば、自分勝手で最低な選択なのだとは理解出来ている。
きっと、多くの人たちから恨まれることになるんだろうと彼女は思った。
重ねずにすんだはずの罪を重ね、また、誰も守れないのだと彼女は思った。
…それでも、やっぱり死にたくないと彼女は思った。
使命と本音が喧嘩を始め、やがて決着がつく。結果は見ての通り本音の勝利だった。
不毛な喧嘩だ。どちらが勝とうが彼女は同じくらい傷つき、苦しんでしまうのだから。
現に、今の彼女を支配していたのは罪悪感と自己嫌悪だった。
「私は…最低で最悪だ…」
流しても流しても、両の目から止まることなく涙が出てきて彼女の濡れた頬を乾かさせない。
そうやって、どれほど経っただろうか。レーナは泣き止んでいたが目の周りは誰が見てもはっきり分かるくらい赤くなり、彼女の目は虚ろなものになっていた。
疲れてしまったのだ。
どうやっても、苦しみから逃れられない事実が彼女を追い詰めたから。
もういいやと、何もかも諦めてしまったのだ。
どれだけあがいても、現実は変わってくれないと思ったから。
泣き止んだのではなく、泣けるだけの涙がなくなって泣けなくなってしまったのだ。堪えきれない罪悪感と悲しみを感じてずっとひとりで泣きじゃくっていたから。
レーナ・アルファーノは、笑顔を完全に失った。
朝になり日が昇り始めたころ、部屋に食事を届けに入ってきたカンピオーネファミリーの構成員は絶句した。
窓から伸びる太陽に足元だけを照らされていた彼女が、そうやって体育座りで背中をベッドの側面につけ、白いワンピースの所々を血で染めて座っていたからだ。レーナは構成員の方におもむろに顔を向け、その虚ろな瞳で構成員を見ながら、そこに置いといてと、無機質な声で呟くように言った。
そんな壊れてしまった娘の心など彼女の父親であるバルトロという男は心配もせず、それどころか、やっと邪魔が無くなったことに喜んだ。
バルトロ・アルファーノ。
カンピオーネファミリーのボスにして、レーナの父親。
彼の計画は、悪魔的だった。
百年前の世界の変質で変わったものは、生命や物質だけに留まらず、世界の勢力図にも変化をもたらした。
クリスタルモンスターへの対応には、魔導式自動小銃などの武器が必要だった。
そんな中で、武器開発と量産、改良に大きく携わったのが、今回五か国会議で集まる予定のアメリカ、中国、イタリア、ドイツ、日本だった。
その勢力図の破壊こそが、彼の計画であり、野望の一端。そして、そのためにはこの計画を各国に知られるわけにはいかなかった。それ故に、バルトロは計画に事件の現場となる千代田区とそこにいる人間たちの抹殺を加えた。
その娘、レーナ・アルファーノーは生まれながらに通常の人の三倍以上の魔力を有していた。魔力量は年々上昇していき、今となってはその限りではない。
そんな魔力であることに加え、彼女の魔力は特殊だった。
特殊だったが故にバルトロは利用し、彼女は苦しんだ。父親を止めるべき母はもういない。死んだのではない。彼女が三歳の頃に離婚し、いなくなったのだ。
だから、代わりに自分が止めようとレーナは何度も彼らの邪魔をした。もちろん、それがうまくいったことなどただの一度もない。
彼女がどれだけ止めようと努力しても、カンピオーネファミリーは止まってくれなかった。父親は止まってはくれなかった。
今回だって、彼らの退路を断つために、また、計画の実行日までに自分を捕まえようとする構成員のこれ以上の侵入を阻止するために転移魔法陣を壊して回った。その際のギミック、周りを消し飛ばすほどの爆薬で万が一にも一般人へ被害が出ないようにクリスタルモンスターを使って人払いと自らの力で爆発と魔法陣を破壊することに力を入れた。
誰も傷つく所を見たくない。それは、自分の身内にも抱いていた思いだった。確かに、今まで彼らには散々な目に遭わされてきた。それでも、他人ではないからという理由だけでレーナは彼らでさえ守ろうとしたのだ。
だが、今回も彼女はその気持ちを踏みにじられ、初めてできた友人をも殺され、すでに壊れかけていた感情を制御するための蓋が壊れた。
もちろん、その友人である桐島刃とレイン・バレットは生きている。生きてはいるが、彼女にそれが知られることはなかった。
奇しくも、レーナ・アルファーノの行動力の支えのひとつにもなっていたあの二人の少年との思い出は彼女の心を閉ざすきっかけとなった。自分が死んだら誰もこの大切な思い出を覚えていないという思考が彼女の自殺を止め、苦しめたのだ。
どれだけ待ってみても、時間が彼女を癒すことはなく、やがて、カンピオーネファミリーの計画の実行日となる。
日が暮れ、夜になった頃。
五か国会議が行われている魔王城を照らしていた満月は雲に閉ざされその姿を隠した。
時は満ちた。
爆炎と轟音が、巨大な裏組織による絶望のバンケットの始まりを告げる。




