9
9
『ひろえくん。
元気にしていますか。学校はどうですか。お友達とは仲良くしていますか。
おとうさんと、ひろえくんがいないと何だかさみしいねという話をしました。ひろえくんの声が聞きたいなと思いました。
いつもメールの返事をくれて嬉しいですが、たまには電話してきてくださいね。
いつでも待っています。』
『メールありがとう。元気にしてるし、学校も楽しいよ。友達とも仲良くやってる。今は色々忙しくて時間が取れないけど、近いうちに時間作って電話するつもり。確かに最近声聞いてなかったね。それじゃあ、そのうちに。』
母からのメールに返事を出して、僕はスマホを置いた。
リビングの中は暗い。時間が昼に近づくにつれて、どんどん外は暗くなっていった。電気を消した室内ではノートPCの画面だけがこうこうと灯っていて、オルゴールのささやかなBGMが鳴り続けていた。
『Lucy, close to you』の、スタート画面だ。
このノートPCは椎名さんに借りた。僕は今椎名さん達の家、『ゆうりんハウス』のリビングにいた。家には帰らず、ここで『Lucy, close to you』をやらせてもらうことにしたのだ。
僕が一人にしてくれと言ったので、椎名さんは今はここにはいない。椎名さんはこのノートPCを持ってきたとき、妹をよろしくお願いしますと言ってリビングを出て行った。今は多分、『Lucy, close to you』の世界と化してしまった妹の部屋にいるか、自分の部屋にいるのだと思う。
僕はリビングのダイニングテーブルで、スタート画面を前にしながら、椎名琉宇のことを思い返した。手を触れられるほどの近くにいながら、決して触れられないところに閉じこもっている彼女。椎名琉宇は母親に会いに行き、そしてその夜、『Lucy, close to you』の中に閉じこもった。何があったのかは分からない。椎名琉宇は、姉である椎名さんにも、誰にも、何があったのかを語らなかった。しかし現実ではない世界に閉じこもってしまうほどのことが起こったことは間違いない。
それはきっと母親に関することだろう。勇気を出して会いに行った、しかし……拒絶されたのか。それとも……他の何かがあったのか。
今はゲームの中に閉じこもって現実にはいない彼女からそれを聞くためには、僕もゲームの中に飛び込んでいくしかない。だから僕はノートPCを借りた。『Lucy, close to you』をプレイするために。椎名さんの妹を助けてという言葉に、僕は「はい」とだけ言った。
僕はもう一度スマホを見た。
『ひろえくん。
元気にしていますか。』……。
……母親。
僕の母親はいい母親だ。優しくて、温かい。
しかし一方で、僕と目を合わせず、常に無表情で、森の中に置き去りにする母もいた。
……母親。
どちらが本当の母親かということはない。どちらも本当の僕の母親なのだ。
そして椎名姉妹の母親は、「ごめんなさい、もう限界なの」と言って、彼女たちの前からいなくなった。
そんな母親に椎名琉宇は会いに行った。ゲームが完成するまで一年以上も我慢して。会いに行くときは一体どんな気持ちだっただろう。そして会ったときは?
しかし椎名琉宇は、ゲームの中に閉じこもってしまった。
……母親。
――さよなら。宏衛。
不意に母の声が甦ってきた。つられて思い出したのは畳の感触だった。
さよなら。宏衛。母がそう言ったその時、僕は確か畳に横たわって、昼寝をしていた……と思う。まどろんでいたところに母の声がして、離れていく母の気配がした。僕は目を覚まし、起き上がって、周囲を見回した。後ろを見ると、ベランダの手すりが見えた。そしてその後に聞こえてきたのだ、何かが……。何かが聞こえてきたはずだった。そしてその時の天気は?
思い出せる母のこと。思い出せない母のこと。
――さよなら。宏衛。
――ごめんなさい、でももう限界なの……。
……椎名琉宇。
ルーシー。君は、母親と何があった?
今それを、見せてくれるだろうか?
僕は画面に手を伸ばした。指先で触れるとひんやりと冷たい感触がした。雨の降る花畑。その雨の冷たさが、しんしんと伝わってくるようだった。
僕は目を閉じた。
このゲームが、ルーシーの元へ連れて行ってくれる。ルーシーに、椎名琉宇に何があったのかを見せてくれる。今はそう信じるしかない心許なさを、どう言っていいのか分からない。
窓の外からは本物の雨の音が入り込んでくる。ちょうど、スタート画面から流れてくる雨の音と同じような音だった。
「……ルーシー」
僕は目を閉じた暗い視界のまま、画面に向けて声をかけた。
「今、君のそばに、行けるだろうか?」
「――きてくれるの?」
声がした気がした。
「行くよ」
僕は答えた。
「……さみしいの」
「どうしてさみしいの?」
「それはあなたもいっしょでしょ?」
「僕は……」
「……あなたもさみしい」
「僕は……僕には分からない」
「お願い……来て」
「行くよ」
「来て……助けて」
「どうすれば助けられる?」
「分からないの……さみしすぎて、分からないの……」
「僕に、そのさみしさを理解できる?」
「……おいていかれてしまった……いかないでほしかった……」
「僕は君を置いていったりしない。今君のそばに行くから」
僕は目を開いた。
目の前には明るいスタート画面。
僕はマウスに手を伸ばし、『新しい物語』をクリックした。ロード中に表示される操作説明の画面を、僕は奇妙に懐かしい気持ちで眺めた。
その画面が切り替わると、ゲームが始まった。夜の森の中だ。まだ雨は降っていないが、明かりを持っていないので暗い。僕は森の中を進んだ。やがて大きな建物が見えてきた。
敷地を囲む煉瓦塀に鉄の門がある。そこを開け、建物に近付いていく。前庭には公園のような広場や、噴水が点在していた。
建物の入り口に着くと、入り口の横に、『Westcotton Asylum』とあった。そう言えば、この病院はそんな名前だったな。そんなことを今更のように思い出した。このゲームを始めてから色々なことが起こりすぎて、病院の名前なんて忘れていた。
建物の中に入ると、画面が暗転して台詞が表示された。
『……やっとついた。
僕を救ってくれるかも知れない場所。』
『心に穴が開いているみたいに、何かが足りないような、そんな感覚……。
ずっと埋められなかったこのさみしさを、本当に何とかしてくれるのだろうか?
誰か中にいるんだろうか……。』
台詞の表示が終わると、画面がぼんやりと戻ってきた。視界は病院の待合室を表示していた。
僕はその暗い中を通って、受付のカウンターからランプを取った。
初めてこれをプレイしたときは、この瞬間に声が聞こえたのだ。『さみしい』と。けれど今は何も聞こえなかった。
僕は一階は探索せず、すぐに二階に上がった。回廊を通り、空中庭園へと出る。
空中庭園には雨が降っていた。
PCのスピーカーから、雨の降る静かな音が流れてくる。現実の雨の音と混ざり合い、何かの予感のようなものを響かせた。
空中庭園を抜け、再び建物に入ると、すぐに下り階段がある。ここを下りると序盤の難所、迷路の廊下だ。けれど僕は一回ここを通っているので、道順は把握している。
迷路の廊下を通っている途中、幾度か巨大な少女、もう一人のルーシーに遭遇した。けれど、よけるのも元の道に戻るのも、道を把握している僕には難しいことではない。適度にルーシーをかわして、僕は食堂へ入った。
食堂に入ると、いったん食器を積んだワゴンの陰に隠れた。するとすぐに、大きな扉からルーシーが入ってきた。ルーシーは食堂を横切って、迷路の廊下へと出て行った。
それを見送って僕は暖炉へと向かった。暖炉の灰の中から鍵を拾い上げる。
それを持って、ルーシーが入ってきた扉から廊下へ出た。
廊下には左右に開けられない扉が並んでおり、突き当たりは白い壁だ。その壁には子どもが描いたような落書きがされている。天気雨の降る花畑の絵。そこに、ぽつんと椅子も描き込まれていた。
そんな落書きの真ん中には鍵穴の絵が描かれている。僕はそこに視点を合わせ、enterキーを押して鍵を使った。カチャリと小さな音がした後、画面が白く光った。
光が落ち着くと、落書きの通りの場所がそこにはあった。天気雨の降る花畑に、古ぼけた椅子。ゲームのパッケージと同じ場所だ。
耳の中で、オルゴールの音がしたような気がした。
僕は椅子に近付いていった。……もうすぐ。もうすぐあの子が現れる。
パンと音がしてフラッシュがたかれた。僕はまぶしさに一瞬目を閉じた。
再び目を開くと、椅子に女の子が座っていた。黒髪に、白い服を着ている、あの女の子。
椎名琉宇をモチーフに作られた、椎名琉宇そのものの女の子。
僕はその子の前に立っていた。
今、実際に。
僕は今一度ゲームの中に入り込んだのだった。
女の子――椎名琉宇、ルーシーは、下を向いたままだった。天気雨に降られて、その黒い髪が、白い服が、少しずつ濡れていく。僕も同じように天気雨に降られて、同じように濡れていった。
ゲームの中では、この後、こう言うはずだった。『さみしいの』。僕はルーシーの前に立ったまま、彼女が何か言うのを待った。雨が花々を叩くぽつんぽつんという音が、さみしく花畑を覆っていた。
やがてルーシーは、下を向いたまま口を開いた。
「……助けてほしいの」
雨の中、その声はあまりにも心細かった。
「……それはあなたもいっしょでしょ?」
「僕は、君を助けに来たんだ」
「……ううん。あなたは本当は、さみしくて、そこから助けてほしくて、もがいている」
僕はただゆっくりと瞬きをしながら、ルーシーを見た。瞬きをした瞬間にまつげにたまった雨が滴って、頬を伝って落ちていった。
ルーシーも暫く何も言わなかった。ただ雨だけが僕達の沈黙を埋めていた。
ルーシーはすっと手を上げて、僕を、僕の後ろを指さした。
「……うしろ」
そして、そう言った。
いつもの言葉だった。どうしてか、いつも言う。うしろ、と。それが一体どういう意味なのか、僕にはいまだに分からない。
「うしろを見て……」
「後ろを……?」
「うしろを見て……今度こそ、助けて」
「僕は君を助けに来たんだ。そして君は今、目の前にいる」
「……あなたのさみしさが、私のさみしさになる」
ルーシーは顔を上げた。
十歳くらいで幼いが、確かに椎名琉宇の顔だった。大きな丸い目、柔和な顔つきは、椎名さんともよく似ている。けれど、今はその顔が悲しみを吸い込んでいるように見えた。
「あなたのさみしさと、私のさみしさは、似ている。あなたの痛みは、私の痛みと似ている。似ているから……あなたには、分かるはずなの」
「それは、君のことが、分かるということ?」
「あなたには分かるはず……。だからあなたには助けられるはずなの……。……今、私はもがいてる……。もがいているの……」
「君のことが分かれば、君を助けられる?」
「あなたが助けるのは、私じゃない……」
「え?」
「私は私であって、私じゃない……。だからあなたが分からなければいけないのは、私じゃない私……」
「どういうこと?」
「……私は……作られた私。あなたに声をかけてもらえるようにと、願いを込められて作られた存在。あなたが助けるべきなのは、私じゃない……。本物のルーシー……。いまこの世界に閉じこもって、もがいている、椎名琉宇。ルーシーは私になることで、現実から逃げている……。私と一つになることで、救われるのを待っている」
雨が少女を濡らして、太陽の明るい光がその髪を輝かせる。それが酷く悲しかった。
「だけど今は、あなたには分からない。あなたとルーシーのさみしさは、同じものなのに。分からなければ、助けられない」
「じゃあ……僕は、どうすればいい?」
「あなたはあなたのさみしさを分からなければ……。ルーシーは受け止めきれずに、こんな場所に閉じこもってしまった……。ルーシーが閉じこもってから、この世界は変わってしまった。現実と混ざり合い、関わった人たちのさみしさまで、取り込んでしまった……。だから、ルーシーを、助けて……。ゲームの中から、救い出して」
少女の黒い目が濡れていた。ルーシーであってそうではない、少女の瞳。僕はその目を見ながら、ただじっと雨に打たれていた。
「……あなたはあなたのさみしさを、分からなければ」
少女はもう一度そう言った。そしてようやく、手を下ろした。
「……お願い……。ルーシーを助けて。そのために、あなたを分かって。だから、うしろを見て……今度こそ、助けて」
……後ろを見て、今度こそ。
今度こそとは、どういうことなのか。
そして僕の後ろに、何があるというのだろう。
「あなたのさみしさを……助けて」
僕は後ろを見た。
そこには、壁と扉があった。壁には天気雨の降る花畑の絵が落書きされている。後ろを向いた一瞬に、僕は花畑から廊下へと戻ってきていた。
今度こそ……助けて。
ルーシーを、椎名琉宇を助けたいというのに、僕のさみしさを助けろとは、どういうことなのか。
少女の言うとおりなのだろうか?
僕は、さみしいのだろうか?
僕がさみしいというなら、そのさみしさは一体どこにあるというのだろう?
「僕のさみしさを助けたら、ルーシーのことも助けられる?」
僕は問いかけた。その声は肌寒い廊下に吸い込まれて、戻ってこなかった。少女からの返事もない。
僕は扉に手を伸ばし、指先で触れた。ひんやりとして、雨の冷たさを吸い込んでいるようなしめった感触がした。
僕はすっと手を滑らせて、ドアノブを握った。
開くと、その先は森だった。
夜の森だ。さらさらと夜風が木々を揺らしている。
僕は森の中へ足を踏み出した。
見覚えのある場所だった。それは当然で、『Lucy, close to you』の出だしの森なのだった。
進んでいくと、大きな建物が見えた。
煉瓦塀に囲まれた敷地。噴水のある広い前庭。増改築を繰り返しているような奇怪な建物。あの病院だった。
僕はもう一度ゲームをたどるように、無人の前庭を歩いた。全てはこのゲームが、僕にプレイされるようにと作られたところから始まった。正確には、椎名琉宇が母親に会いに行くための勇気を得られるように、願ったところから。雨に打たれた体には夜風が寒かったが、女性的な柔らかさで肌を撫でてきた。病院の入り口の扉の前に立つと、僕はそれを開いた。
しかしそこは病院の待合室ではなく、狭い室内だった。天井からびっしり縄がぶら下がっていて、そのどれもが先端が輪に結ばれていた。その輪になった部分に重みがかかっているかのように、全ての縄からぎいぎいと軋む音がする。
部屋の向こうには、扉が見えた。僕は縄の下を通って扉を開いた。
その瞬間声がした。
「……ごめんなさい、でももう限界なの……」
初めて聞く女性の声だった。
扉の先には縄が一本だけぶら下がっていた。その縄も先端が輪に結ばれていて、何かがぶら下がっているかのように揺れ、ぎいぎいと軋んでいた。
縄の真下には高校生くらいの少女がいた。こちらに背を向けたまま、肩をふるわせ、顔を覆っている。少女から小さく息が漏れているのが聞こえてきた。
その後ろ姿は、椎名琉宇のようだった。漏れてくる息の震えのかすかな声が響いてきて、そうかも知れないと思えた。
「いかないでほしかった……いかないでほしかったの……。それはあなたもいっしょでしょ……?」
息の合間に、椎名琉宇はかすかな声でそう言った。すると椎名琉宇の姿はすうっと消え、向かいの壁に扉があるのが見えた。
見覚えのある扉だった。
昔、僕が小さい頃に住んでいたマンションの扉。それだった。
僕はぎいぎいと軋みながら揺れる縄の下を通って、懐かしい扉へ歩み寄っていった。
その前に立つと、何とも言えない不思議な気持ちがした。小さな頃にはあんなに大きく見えた扉が、今は普通の大きさに見える。森に置き去りにされてから、一人で帰ってきたとき、いつも背伸びをしながらドアノブを回していたのに。
あの頃、僕はそんなにも小さかった。
僕はそのドアノブに手を伸ばした。ドアノブは軽い感触で回り、すうっと開いた。
中から懐かしい香りがした。畳の香りだった。
扉を開いた先は、昔住んでいた古いマンションそのものだった。
僕は足下を見た。懐かしい玄関だった。けれどあんなに広く思えていた玄関は実はとても狭くて、半畳もなかった。そしてその向こうに目をやると、畳敷きの居間が見えた。
今、そこに、小さな僕が横になっていた。ベランダに背を向けて眠っているようだった。ベランダの手すりの向こうは、曇っていた。壁に掛かっている時計は昼間を指しているが、時刻に似合わないくらい薄暗かった。
僕は玄関に足を踏み入れた。
すると小さな僕はいなくなった。
もう一歩中に入ると、再び小さな僕が現れた。その背中に寄り添うように、髪の長い女性が座っている。
母だった。
青白い顔色、無表情の顔。母は小さな僕の頬に手を触れて、そっと撫でた。
「……さよなら。宏衛」
僕がもう一歩進むと、母の姿は消えていた。その代わりに小さな僕が体を起こして、きょろきょろと周囲を見回していた。何をしているのか考えなくても分かった。母の姿を探しているのだ。
「きゃあーっ!」
その小さな僕の後ろから、叫び声がした。
後ろと言うより、ベランダの下の方から。
この部屋は五階にある。だから、遙か下から聞こえてきた叫び声は、非現実的に遠のいて聞こえた。
「ひ、人が!」
「誰か! 救急車を!」
「きゃああっ!」
ベランダの遙か下から聞こえてくる声が、遠く遠く響いてくる。
小さな僕はベランダの方を向いて、立ち上がった。そしてベランダに出て、手すりの隙間から顔を出し、下を見た。
「……おかあさん……? どこ……?」
こん、こん。
小さく音がした。雨がベランダの手すりを叩く音だった。
こんこん、こんこん……。
「おかあさん……」
空が泣き出した。
……そうだった。
そうだったな……。
思い出した。
最初、空は曇っていた。そしてベランダから下を見たとき、雨が降り出したのだ。
下には人が集まっていて、叫んだり騒いだりしていた。小さな僕には、その人達が一体何を言っていて、何が起こっているのか理解できなかった。
「おかあさん……どこにいったの……?」
小さな僕がこちらを向いた。雨に頬が濡れていた。
小さな僕はじっと僕を見て、口を開いた。
「……いかないでほしかった」
その言葉が、その言葉の何かが僕の胸を締め付けてきた。どうしてなのか、すぐには分からなかった。ただ分かったのは、その言葉が「さよなら」と言った母の言葉と響き合って、僕の中で大きく反響したことだけ。
僕は少しずつ、足を運んだ。何も言えなかった。居間の真ん中に立ったとき、小さな僕は僕を見上げて、髪から頬へ、頬からあごへ、雨粒を伝わせていた。
「いかないでほしかった……おいていかないでほしかった……。ずっとそうおもってた。さみしかった……」
小さな僕はぎゅうっとベランダの手すりを握った。
「すぐうしろに、おかあさんはいたんだ……」
こんこん、こんこん……。雨の音。
「おかあさんは、いつもくるしそうなかおをしてた。ぼくをみるとき、ことばをなくしてじっとしていた。ぼくはおかあさんのくるしみだった」
「――愛せなかったのよ」
母の声だった。
小さな僕はいなくなって、ベランダには母が立っていた。雨を背にして、うつむいていた。
「愛せなくて苦しかった。どうして自分の子どもを愛せないのか分からなかった。分からないことも苦しかった。私は他の母親のようにはなれなかった。我が子を愛せない、資格のない母親だった」
こんこん、こんこん……。
雨が手すりを叩いていた。
風に揺られてベランダに降り込んでくる雨が、母を濡らす。母の黒髪から滴が滴って、ベランダに落ちた。
「だからあなたを見る度に苦しかった。愛せないことがあまりにも苦しかった。資格のない私がそばにいてはいけないという思いもあった」
こんこん、こんこん……。
「あなたから逃げたかったのよ」
「……おかあさん」
こんこん、こんこん……。
雨が母を濡らしていく。母はうつむいたまま、僕を見ようとしなかった。
「人並みに子どもを愛する母親になりたかった。でもできなかったのよ。だから森の中へあなたを置いていったのよ。私はあなたを愛さない、資格のない母親だったのよ」
母は無心に言葉を発し続けた。あまりにも平坦な声だった。
僕は母がこんなに話すところを見たことがなかった。母が自分の思いを口にするなんて、あり得ないことだった。
……これは、本当に母の思いなのか。
僕を愛せないというその言葉は、母の真実なのか。
僕はただじっと、母が話すのを聞いていた。
「何度も何度も森の中へ置いてきたのに、それでもあなたは戻ってきた。絶対に愛してくれない母親のもとへ、どうしていつも戻ってきたの」
どうして。
どうしてなんて、小さな頃の僕は考えたことなどない。
だって、そんなことは、決まっていたからだ。そこだけが、僕の帰る場所だったからだ。何も考えてなどいなかった。ただ僕は、置いて行かれたら帰るという、機械的な行動を繰り返していたのに過ぎない。
僕の思いは空っぽだった。その僕に対して、母はそんな僕が疑問だった。どうして戻ってくるのか、愛してくれない者の元へ、と。
そしてその疑問は、真実なのか。今目の前にいるのは、母なのか。
「何度戻ってきても、私はあなたを愛せなかった。どうしていつも戻ってくるのとしか思えなかった。どうしていつも私のそばに戻ってきたの。決して私に愛されないあなたの気持ちを思うたび、私は苦しかった」
母は死んだような顔色をしていた。その青白い頬を、雨が伝って流れていく。
これは、ゲームなのか、現実なのか。ベランダに立って雨に濡れているのは、本物の母なのか。
「私はあなたを愛せなかった。それがあまりにも苦しかった」
……母かも知れない。僕にはなぜかそう思えた。
今僕の前にいるのは本物の母で、当時言えなかった自分の気持ちを、ようやく口にしているのかも知れないと思った。
初めて聞く母の心。その言葉の中には苦しみがあふれていた。
母はそんなことを思っていたのか。いつもそんなことを思って、一人で苦しんでいたのか。
僕は小さな頃、自分の気持ちすらよく分からなかった。自分の気持ちを考えるという発想すらなかった。だから自分のことも全て無視して、森に置いて行かれても、ただ無心に母の元へと戻っていった。それ以外にないと思っていたからだった。自分の気持ちも分からないから、人の気持ちなど余計に分からなかった。それでいいとしてきた。疑問にも思わずに。
けれど母は、そんな僕の姿が苦しかったという。
初めて知る、母の苦しみ。
母は僕を見る度に苦しんでいた。
僕はそんな母の苦しみを、全く理解していなかった。自分の気持ちなどないかのように振る舞うように、母の気持ちなどないかのように振る舞っていた。
母は苦しんでいたのだ。
愛せない。
そんな自分を許せないまま。
そして僕は僕で母の苦しみを無視していた。自分の気持ちを無視するように、ごく自然に無視していた。
決して母に愛されない僕の気持ちを思うとき、母は苦しんでいたのに。
僕の気持ち?
僕の気持ちとは何だ。
母は僕のどんな気持ちを思っていたのか。
僕は今初めて自分の気持ちの存在を意識した。小さな頃には存在しないと思っていた自分の心を、本当に初めて考えた。
小さな頃、僕はどんな気持ちだったのか?
無表情で、目を合わせず、温かな言葉もふれあいもない母のそばにいて、僕は一体どんな気持ちだったのか、本当は?
平気だと思っていた。
それが当然だと思っていた。
疑問などなかった。
それが僕と母の関係で、不満も苦しみもないと思っていた。
けれど母は……。僕と違って母は。
僕の心を無視した僕に、無視されていた。
僕の気持ちは?
本当の僕の気持ちは?
僕はどうだったんだ。
小さな頃。
母の、感情のない黒髪の記憶。
それを見る度に僕は。
僕は、
僕は
本当は。
森に置いて行かれた。
母は言葉もなく、僕を見もしなかった。
そんな母の姿を、僕は。
僕は。
僕は、本当は、
森に置いて行かれることが、
遠ざかっていく母の姿が、
母の元へ戻るまでの道程が、
母の表情のない顔、
言葉を発さない唇、
血の通わないような冷たい手、
決して抱き上げてくれない両手を、
……さみしく、
……思っていた……。
本当は母を求めたかった。
けれど母を求めたくて、「おかあさん」と呼んだことがあっただろうか。
自分のさみしさを理解しない僕は、
母を呼びもしなかった。
僕は母を無視することでさみしさを無視した。
母を、母の苦しみを、母の思いを、自分のさみしさを、全部ないことにした。
僕は今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。ただ小さな頃の自分と、無視し続けてきた母のこととが、僕の視界をいっぱいにした。
「苦しかったのよ」
母のまつげから雨が伝う。母は相変わらず死んだような顔色をして、無表情のまま、うつむいていた。
「でもどんなに苦しんでもあなたを愛せないのよ。そんな自分に失望したし、憎かったのよ。毎日毎日、理想通りにならない自分を、どうしようもなく責め続けたのよ。いつもいつも追い詰められていた。私はいつも限界だった」
そんな母を、僕は無視し続けた。
僕達はいつも背中を向け合っていた。
僕の後ろには、いつも苦しむ母がいた。
それなのに僕は、空っぽでいることばかりが得意だった。
後ろにはいつも、母がいたのに。
すぐ後ろに、すぐそばに、一緒にいたのに。
「あなたの気持ちを思うとき、私はいつでも限界だった」
こんこん、こんこん……。
雨が手すりを叩き、母の頬を伝い、ベランダへ滑り落ちていく。
僕の気持ちを思うとき……。
母はいつでも、僕の気持ちを思っていた。
そして僕の気持ちを思い、苦しんでいた。
愛せないと思いながら。
愛せないなら、なぜ僕を見て苦しんだのだろう。
「おかあさんは、本当に僕を愛せなかったの……?」
「愛せなかったわ」
「苦しかったの?」
「苦しかったわ」
「僕を愛せないと思うから?」
「私は資格のない母親だったのよ」
「そんなことないよ」
僕の視界はいっぱいだった。
「お母さんは本当は、僕を愛してくれていたんじゃないの?」
小さな頃のさみしさ。
母を求められなかったこと。
母の笑顔が見たかった。
温かな声を聞いてみたかった。
森の奥へ連れていくために手を繋ぐのではなく、そっと両腕に包み込むために、その手を使ってくれたなら。
母もそうしたかったのだろう。
けれどそうはできない自分を苦しめていた。
母は苦しかったのか。
そして僕は母を無視した。
でももう、無視などしない。
母の苦しみは、
僕のためだったから。
「愛せないと思う、その苦しみの深さが、おかあさんの愛情の深さだった」
母は初めて僕を見た。
黒い瞳が僕を見る。
愛していなければ苦しまなかった。
愛などないなら責めなかった。
愛していない相手の気持ちを思うだろうか。
母は結局、自分の愛の深さの分だけ、苦しんでいただけだった。そこから抜け出すすべを見出せないまま、いつまでもいつまでも限界だった。
「大丈夫。おかあさんは、ちゃんと僕を愛していた」
母に手を伸ばし、その手を握る。
雨に濡れ、冷え切った手だった。
「だからもう、飛び降りなくていいんだよ」
ベランダに立つ母。
でももう、そんなところに立たなくてもいい。
周囲は明るかった。
開けた、どこまでも晴れた空から、雨が降っている。
地面には一面に花が咲いていて、綺麗だった。
母の苦しみを、今、理解しよう。
「おかあさんは苦しかったんだね。でも、愛してくれたね」
母の目から雨があふれた。
止めどなくあふれてくる雨が、すう、すう、と母の頬を伝っていった。
「私はずっとさみしかったのよ……」
「僕がひとりにしてしまったから」
「理想の家族の温かさを思うとき、それを実現できない現実に、ずっとずっとさみしかったのよ……」
「だけどもうひとりじゃないよ」
「私はずっと苦しかった……」
「さみしくてももう大丈夫」
「私はこんな母親だった……」
「それでもおかあさんは、充分におかあさんだった」
僕はそっと母の肩に手を触れて、包み込むように抱きしめた。
母は意外なほど小柄で、小さな時には見上げていたその顔は、僕の頭より低かった。
僕は小さな頃、母を救えなかった。
でももう一度があるのなら、今度こそ、救いたかった。
だけどそれはもう取り返せない願いなら、今ここで、安らかさを祈るだけ。
最後におかあさんは、こう言ったっけ。
さよなら。宏衛。
さよなら。おかあさん。もう二度と、会えないね。
母の黒髪の感触。
小さな体。
もう終わった。
もう終わってしまった。
止まってしまった心臓には、母の苦しみも、さみしさも、もうない。
けれど愛してくれていたという事実が、これからも消えずに脈打つのなら、僕達の関係は決して失敗などではなかった。
「……私のお母さんも、苦しんだのかな……」
腕の中から、椎名琉宇の声がした。
椎名琉宇は僕に抱きしめられたまま、泣いていた。
「私もお母さんを苦しめていたのかな……でもその苦しみに愛があったなら、私もそうしてあげれば良かったのに……。でももう遅いよ……お母さんは行ってしまった。もうどうしてあげることも、できないよ」
「ああ……そうだね」
「お母さん……行かないでほしかった……。お母さんがいないと、さみしいよ……」
「……さみしいね。本当に、いなくなってしまうなんて、さみしくて仕方ない」
「さみしいよ……どうしたらいいかなんて、分からないくらい、本当にさみしいよ……」
「でもそのさみしさが、僕と母をもう一度繋いでくれた。今度は僕が、君を助ける番なんだ」
降り続ける光る雨が、僕達を包む。
濡れていく僕達はただ、お互いの近さを頼りにしているだけだった。それだけの心細い距離に、しんと雨が滑り込んできた。
椎名琉宇は僕の背中に手を回して、ぎゅっと握った。もう他にどうしようもないくらいに、ぎゅっと。
椎名琉宇は小さかった。その背中はさみしさに震えていた。僕は強く抱きしめ返した。
「……ルーシー、そばにいるよ」
椎名琉宇の震える背中は温かかった。雨に濡れても、そのぬくもりが伝わってきた。
生きているのだ。
椎名琉宇は、生きている。生きて、ここにいる。
もうここにはいなくなった人を思って苦しみながら、ここに生きている。そのどうしようもない苦しみとさみしさを、僕もきっと、分かることができるだろう。
ああ、確かに、僕達のさみしさは似ている。共に置いて行かれた子ども達だ。置いて行かれたさみしさは強く残って消えないが、その分だけ、行ってしまった人の存在を強く強く思うことができるだろう。
椎名琉宇はそっと目を閉じた。
「……ありがとう」
椎名琉宇の声は静かだった。
晴れた花畑には雨が降っていて、僕達を淡く包んだ。
……かちゃり。
指が無意識にキーボードを押して、僕はその音に顔を上げた。僕はリビングのダイニングテーブルに座って、ノートPCを前にしていた。
ノートPCには『Lucy, close to you』のスタート画面が表示されている。天気雨の降る花畑は、明るかった。
けれどその画面は電気を点けていない室内でも眩しく感じなかった。僕は周囲を見回した。室内はほんのりと明るい。
窓から光が差し込んでいた。
雨はやみ、雲間から淡い太陽の光が降り注いでいる。それがこのリビングにも入り込んで、温かな光で満たしていた。
僕は自分の両手を見た。雨に濡れて、冷えているが、窓から差し込む光で太陽の色が差していた。
両手には椎名琉宇の感触が残っていた。生きている、さみしさに震える背中の細かな感情も。
僕は、戻ってきたのか。ゲームから。では、椎名琉宇は?
僕は立ち上がった。リビングを飛び出し、廊下を駆けて、階段を上った。二階にも太陽の光が差し込んでいて明るかった。あれほど沈黙していた家の中に、何かの物音が聞こえている。衣擦れ、息づかい。誰かの気配だ。
僕は一番奥の、椎名琉宇の部屋の前に立った。そのドアノブに手をかけ、中に入る。
その向こうはもっと明るかった。
白い家具に窓からの光が反射している。窓にかかるカーテンは薄ピンク色で可愛らしく、同じ色のタッセルでまとめられている。部屋のそこここには動物のぬいぐるみが沢山飾られていて、床のラグの上にはハート型のクッションがあった。
そして窓際のベッドには、可愛い柄の寝具があって、その中に椎名琉宇がいた。
もはやこの部屋は『Lucy, close to you』の中ではなく、椎名琉宇の部屋に戻っていた。
僕はベッドに駆け寄った。その傍らに膝を折って、椎名琉宇の顔を覗き込む。
椎名琉宇の顔色は血の通った桃色をしていた。髪や頬が雨で濡れている。僕はそれに触れた。
「……琉宇。ルーシー」
呼びかけると、椎名琉宇のまぶたがかすかに動いた。
「ルーシー」
僕はもう一度呼びかけた。
椎名琉宇は目を開き、僕を見た。そして丸い大きな目で、そっと僕の顔を探った。
「……カタロエさん」
椎名琉宇は体を起こすと、僕に手を伸ばして僕を包み込んだ。柔らかな、甘い花畑の香りがした。
「……ありがとう」
僕は椎名琉宇の言葉に応えるように、その頭を撫でた。雨に濡れた柔らかな感触がした。
僕達は暫くそうしてから、お互いを離した。まじまじと相手の顔を見合って、二人で笑った。
「――琉宇!」
すると、扉の方から椎名さんの声がした。
振り向くと椎名さんが立っていて、目を覚ました妹を泣きそうな顔で見ていた。
「琉宇」
「お姉ちゃん」
椎名さんは妹に駆け寄ると、ぎゅっと抱きしめた。椎名琉宇も懐かしそうに姉を抱きしめた。
「よかった……琉宇」
「お姉ちゃん……ごめんなさい」
「いいの。もういい……」
椎名さんは妹を抱きしめたまま、そっと頬をすりあわせた。
「……ありがとう。片井さん。本当に……」
「……いいえ」
僕は抱きしめ合う二人の隙間に入り込まないように、ごく小さな声で応えた。
椎名さんはため息をつきながら妹の髪を撫でている。僕はそっと部屋を出た。
二階の廊下には、やはり人の気配がするような気がした。椎名琉宇が戻ってきたから、もしかしたら『Project fragile』のメンバーも戻ってきたのかも知れない。
僕は一階のリビングに戻ると、借りたノートPCの前に立った。
『Lucy, close to you』のスタート画面。天気雨の降る花畑。一本通る道の向こうに、家屋が見える。
その明るい画面の横で、僕のスマホがちかちかと点滅しているのに気がついた。何らかの着信がある知らせだ。
僕はスマホを取ってそれを見た。LINEだった。
それを見て、僕は思わず目を見開いた。
『ありがとう。宏衛』
才人からだったからだ。
僕は慌てて才人に電話をかけた。耳にスマホを当て、コール音を聞いていると、才人はすぐに電話を取った。
『宏衛か?』
まだそんなに経っていないのに、あまりにも長い間声を聞いていなかったような気がした。懐かしかった。
「才人」
『宏衛。……その』
「才人、よかった……。戻ってきたんだ」
『……ああ。みたいだな』
才人ははにかんだようにくすっと笑った。
『何だか随分長いこと、眠ってたような感じがする』
「……才人」
『ゲームの中にいるとき、お前の声が聞こえてたよ』
「え?」
『お前、やっぱりいい声だな』
と言って、才人はもう一度笑った。僕もつられてつい笑ってしまった。何だか気恥ずかしかった。
リビングの中は明るくて、僕は久しぶりに太陽の光を見たことを思い出した。窓に視線を向けると、差し込む光が飾られた色々なものを照らしていた。空気とそれらがきらきら光って、あたたかな柔らかさを放っていた。
「……外、晴れたね」
『ああ。晴れてる』
才人も自分の部屋から、外を見ているのだろうか。
僕達はそのままじっと、別々の場所で、同じ光を見ていた。