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Lucy, close to you  作者: 蓼丸エコウ
8/10



  8



 しゃがみ込んでいる僕の髪に、滴がかかる。

 見上げると、巨大な少女――ルーシーが、四つん這いになってうつむいていた。顔が僕の真上にあり、そこから滴が滴ってくるようだった。

 何の滴か。僕はぼうっと髪に覆われたルーシーの顔を見上げた。

「うう……うう……」

 ルーシーからかすかな声が聞こえてきた。その声に顔が震えて、ぽたり、ぽたり、と滴が落ちてくる。

 ――泣いているのか。

 この滴は、涙なのか。

 どうして、君が泣くのか……。

 僕はそう問いたかった。

 どうして泣いているのか。何を泣いているのか。

 僕はただルーシーを見上げ続けていた。その僕の頬にルーシーの涙が落ちてきて、つーっ、と伝った。



 ……目を開くと、才人の部屋だった。

 僕はスマホを握ったまま床にしゃがみ込んでいて、どうやらその姿勢のまま眠っていたようだった。窓の外からは雨音がしている。今日も雨が降っているのだ。

 僕はあまりはっきりしない意識のまま、スマホを見た。時間を確認すると、朝の七時くらいだった。

 僕はまた自分の膝に顔をうずめた。

 ……今のは、夢だったのか。

 泣いているルーシー……。どうして、一体何を泣いていたのか。そして、どうして僕に泣いている姿を見せたのか。

 分からなかった。

 僕はじっとして雨音を聞いていた。窓の外のベランダで、手すりに雨粒の当たる音がしている。こんこん、こんこん、と。

 こんこん、こんこん……。

 僕はその音で、父と向かい合って母の行方を訊ねたときのことを思い出した。あの時もこうして雨が降っていて、ベランダの手すりを雨粒が叩いていた。

 ――おかあさんはどこへ行ったの?

 あの時は父に母の行方を問うことができた。でも今回は、誰も僕の問いを聞いてくれる人がいない。

 戻ってこない才人に対して、僕はどうすることもできなかった。どうすることも。何をすれば戻ってくるのかも分からないし、消えてしまった才人がどこへ行ってしまったのかも分からない。ゲームに取り込まれるという噂がある。……そうかも知れない。

 こんこん、こんこん……。

 僕は顔を上げてベッドの上を見た。そこには才人のスマホが置かれている。まだ、僕に対するメッセージが送信されないままで。

 僕はいい加減立ち上がって、カーテンの隙間から外を覗き見た。朝だというのに世界は灰色で、ずっと暗い雨が降り続けていた。

 ……帰ろうか。ぽつんと、心の中でそう思った。

 才人のいないこの部屋には、僕の居場所はない。ここにいたって仕方がなかった。僕は目を閉じながら窓に背を向けて、才人の部屋を後にした。今日は学校があるが、とても行くような気分ではなかった。

 傘を差しながら、灰色の雨の中を歩く。大きな雨粒が重く、傘が揺れた。

 家に戻ってくると、玄関の扉が閉まった瞬間、雨の音が遠のいた。家の中は暗かったが、僕は電気を点けずにソファに座った。

 スマホを傍らに置き、顔を覆う。

 ……どうしたらいい。

 何も分からない。

 僕は手の隙間からふうーと息を漏らした。そしてふと顔を上げると、ノートPCが開きっぱなしなっているのに気付いた。昨日はパソコンを落とすどころではなかったから、そのままにしてしまったのだろう。ということは、電源もついたままかも知れない。

 雨の重みを吸ってきたかのように体が重かったが、何となく気になって、僕はパソコンの前に立った。

 電源ボタンが明滅している。確かに電源はそのままで、省電力モードのまま起動し続けているようだった。

 僕はenterキーを押した。するとパソコンは省電力モードから復帰して、昨日そのままにしていった画面を再び表示した。

 ――『コンタクト』。

 それは『Project fragile』への問い合わせページだった。

 僕は少しはっとした。

 このページには、『Project fragile』の代表者であり、『ルーシー』の姉でもある『YOU』への連絡先が書かれている。メールアドレスと、電話番号が。

 僕は時間を見た。そろそろ七時半。

 もう一度パソコンの画面を見る。今、これしか頼れるものがないという予感がした。

 才人が消えた。才人を助けるには、これしかないんじゃないのか。

 ――他に僕に何ができる。

 僕はたんと机を叩くと、ソファに戻りスマホを掴んだ。雨で少し冷えた、ひんやりとした感触だった。

 僕はそれを持ってパソコンの前に戻った。立ったまま、じっとその画面を見る。

 メールアドレス。

 電話番号。

 メールアドレス……。

 ――電話だ。

 僕は番号を間違えないように慎重に番号を打ち込んだ。通話ボタンを押すとき、指先が冷えているのに気付いた。緊張しているのだ。

 そして通話ボタンを押した瞬間、コール音が始まった。僕はスマホを耳に当て、そのコール音を聞いていた。

 出るか。

 出ないか。

 僕は今自分がしていることを意識して、スマホを握る手、机についている手が震えているのを感じた。コール音が鳴っている間、パソコンに表示された『コンタクト』のページから全く目を離すことができなかった。自分は本当に重大なことをしている。そんな自覚があった。

 そうしていると、耳に入り込んでくるコール音が、不意にぷつっと音を立てて途切れた。

『……はい、もしもし……?』

 コール音の代わりに聞こえてきたのは女性の声だった。

 ――『YOU』だ。

 実在したのか。なぜか僕はそんなふうに驚いた。

「あ、あの、もしもし」声が震える。

『もしもし……』

 相手はかなり不思議そうな声だった。それはそうだろう。こんなに朝早くから電話がかかってきたのだ。一体誰で、どんな用なのかと不審がったとしても何らおかしくはない。

 僕は何と言ったらいいのか分からず、数秒口をぱくぱくと動かしたまま黙り込んでしまった。

「あの……」

『はい』

「……『Project fragile』の、方ですよね。あなたは、その……代表の、『YOU』さんですか?」

『はい。そうですが……。あの、あなたは……』

「僕は片井宏衛と言います。あなたたちが作ったゲームについて、訊きたいことがあって……」

『……片井、宏衛』

 『YOU』は僕の名を繰り返し、一瞬黙り込んだ。何か、僕の名前に感じるところがあったかのように。

『……カタロエ』

 そして、ぽつんと口にした。

「……え?」

『あなた、カタロエさん? ……ううん、その声、間違いない。あなた、カタロエさんでしょう?』

「え? あの……僕のこと、知ってるんですか」

『本当に、カタロエさんなんですね?』

 『YOU』は慎重に訊いてきた。

 何が起こっているのかと思った。

 相手が、初めて電話をしたはずの相手が、僕のことを知っている。どうして?

 僕は瞬きを忘れて、頷いた。

「そうです」

『……そう、ですか』

 相手は何か考えるようにそう言った。

『……見つけて、くれたんですね』

「え……?」

 ――……見つけてくれた……。

 あの女の子の声が甦ってきた。何か訴えるような悲しげな顔をして、じっと僕のことを見ていた、あの顔も。

 ――見つけてくれた……私のこと……。

 見つけて、くれた……?

「あの……どういうことですか?」

『ゲームのことで訊きたいことがあると言いましたね。そのゲームは、『Lucy, close to you』ではありませんか?』

「……はい」

『……やっぱり、そうなんですね』

 ため息が聞こえた。あのゲームに何かがあると分かっているかのような息だった。

「あなたは、あのゲームのことを何か知っているんですか? いえ、あなたたちが作ったゲームですから、何か知っているのは当然だと思いますが、そうではなく……」

『……ええ』

 ただの肯定ではない、何か意味のある、そんな声が返ってきた。

「……あのゲームは、一体何なんですか?」

 相手は暫く沈黙していた。僕の問いを吟味しているようにも思えた。

『……私は、椎名(しいな)由宇(ゆう)といいます。あなたに、色々なことをお伝えしたいと思います。あのゲームのことも。ずっと……あなたのことを待っていました』

「……どういうことですか?」

『カタロエ……片井さん。私は直接お会いしてお話しした方がいいと思っています。今、どこにいますか?』

「今……ですか? 家ですけど……」

『私がいるのは神奈川県川崎市です。私がそちらに出向くこともできますが、片井さんの方からいらしていただいたほうが、きっといいと思います。いらしていただけますか?』

「川崎……」

 僕はここから川崎までの距離を考えた。ここは東京。行って行けない距離ではない。僕は頷いた。

「向かえると思います。詳しい住所を教えてください」

 椎名さんが教えてくれた住所は、確かに行けそうな場所だった。家の特徴は、灰色の屋根に白い壁、空色の車が止まっている戸建てだという。表札はないが、深緑の郵便ポストに『ゆうりんハウス』と書いてあるので分かるはずだという話だった。

「……分かりました。いつお伺いすればいいですか」

『できるだけ早いほうがいいでしょう。今日は、これから空いていませんか』

「空いています」

 僕は即答した。

 学校はある。けれど、それよりもこちらの方が重要だった。

「僕も……時間がないと思うんです。ですから、できるだけ急いだ方がいいような気がします」

『私もそう思います。何時頃来られますか?』

「お昼頃までには行きたいと思います。具体的に時間を決めた方がいいですか」

『いいえ。お好きな時間に来てください。では、午前中にはこちらにいらっしゃるということですね』

「そのつもりです」

『分かりました。どうぞ、気を付けていらしてください』

「はい」

『片井さん』

「はい?」

『……ありがとう。本当に……。見つけてくれて、嬉しかった』

 僕はそれには何も言えなかった。

 あの女の子、『ルーシー』が声をあてたあの子の言ったことと、姉である椎名由宇の言ったことが、同じだったから。

「……あの、一つ、訊いてもいいですか」

『はい』

「あなたの妹さんは、YouTubeで『ルーシー』という名前で活動していますよね。今は、どうしていますか」

 椎名さんは暫く何も言わなかった。驚いているような様子だった。

『……妹のこと、知っているんですね』

「はい。偶然、見つけました」

『……そうですか……。それについても、お会いしたときにお話しします』

「そうですか……」

『大事なことなんです。とても……大事なこと』

 椎名さんは、よく僕に言い聞かせるようにそう言った。

 大事なこと……。

 確かに、椎名さんの妹が今どうしているかということは、重要なことだという気がする。何しろ、あの女の子と『ルーシー』とは、無関係ではないのだから。

「……分かりました。では、準備をしてすぐに向かいます」

『はい。お待ちしています。どうぞお気を付けて』

「はい。朝早くにすみませんでした」

『……いいえ。電話をしてくれて、嬉しかったです。よろしくお願いします』

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そこで、電話は切れた。

 僕はプープーという音を聞きながら、暫く動けないでいた。

 ……これで、動く。これで現実が動くのだ。

 僕はとりあえずシャワーを浴びに行った。そしてシャワーから上がると、鞄の中にスマホや財布や必要な物を入れて、忘れ物がないかどうか確認した。

 僕はじっと鞄の中を見つめた。

 ……これから、元凶になったのであろう場所に行く……。

 ――才人。

 才人を助けられるのか。そしてゲームを止められるのか。まだ分からなかった。

 僕は鞄を掴み、家を出た。外はまだ、灰色の雨が降っていた。



 朝のラッシュ時間だということもあり、電車の中は込んでいた。僕は吊革に掴まれる場所にも立てなかったので、両手で鞄を掴んで電車に揺られていた。たたん、たたん、という電車の音に混じって、雨が窓を叩く音がしている。電車の窓には雨粒が流れていた。

 車内は雨に降られた人たちのにおいが充満していて、湿気でむっとしていた。最近電車に乗っていなかったのもあって、この香りが少し懐かしかった。

 目的の駅に着くと、僕は徒歩で椎名さんの家へ向かった。駅前は多くの人が歩いていたが、ひっそりと静かだった。住宅街の方へ行くにしたがって、人通りは少なくなり、僕は少しずつ一人になった。

 椎名さんの家があるのは戸建ての家が多く建ち並ぶ通りのようで、目的地に近付くにつれて店などは見当たらなくなっていった。静かだが、静かすぎる感じもした。

 僕は電話で聞いた椎名さんの家の特徴を思い出しながら、家々を見て歩いた。この家々の中に、椎名さんの家がある。僕はそこに近付いていっているというのを考えて、少し不思議な気分になった。少し前までは、まさか自分がこんな所まで来るなんて思いもしていなかった。だからこれが現実かどうか分からないという、不思議な気分になったのだった。

 家の特徴は、灰色の屋根に白い壁、空色の車ということだった。そして深緑の郵便ポストに、『ゆうりんハウス』と書いてある。

 僕はゆっくりと歩いてその家を探した。

 歩いていると、二階建ての、やや大きな家が目についた。屋根は灰色で、壁が白い。僕はその家の前に立った。空色の車が駐車スペースに止めてあり、綺麗に作られた前庭には深い緑色の郵便ポストが立っている。そのポストの文字を読むと、『ゆうりんハウス』とあった。

 ……ここだ。

 僕はもう一度家を見上げた。ここに、今、椎名さんがいる。

 ポストの横にはインターホンがあった。僕はそのボタンを慎重な手つきで押した。

『はい』

 電話で聞いたのと同じ声がインターホンから聞こえてきた。間違いなく椎名さんだった。

「片井です」

『片井さん……。お待ちしていました。今出ますので、玄関までお越しください』

「はい」

 僕は玄関の方へ歩いて行った。屋根の下に入ったので、傘を畳む。

 待っていると、扉の向こうから物音がした。椎名さんだ、そう思うと緊張した。

 ややあって、扉が開いた。そこから現れたのは髪の長い女性だった。まだ若いが、僕より年上に見えた。多分二十代の後半くらいだろう。丸い大きな目をした色白の人で、柔和な顔つきだった。

 女性は僕の姿を見ると、にっこりと笑った。けれどその笑顔はあまり明るいものではなく、何か疲れた様子に見えた。

「遠いところを、わざわざありがとうございます。椎名由宇です」椎名さんは頭を下げた。「さあ、どうぞお入りください」

「はい。お邪魔します」

 椎名さんに招かれて僕は家の中に足を踏み入れた。

 玄関は広かった。靴がいくつもそろえられていて、沢山の人間が住んでいるように見えた。実際椎名さん一人で住んでいるようには思えないから、一緒に住んでいる人たちの靴だろう。けれどその靴のデザインがどれも若者向けなのが少し気になった。家族で住んでいるなら、もっと上の年齢の靴があってもよさそうなのにと。

「傘は、そこの傘立てにどうぞ」

「はい」言われたとおり、傘立てに傘を置く。この傘立ても大きかった。

「スリッパをどうぞ」

「ありがとうございます」

「どうぞ、こちらへ」

 椎名さんに導かれて、リビングらしい部屋へ通された。けれどリビングと言うには広すぎるほど広く、ダイニングテーブルがあるかと思えば、ソファセットもある。奥の方にはカウンターキッチンもあった。壁や棚には色々なものが置かれているが、どうも趣味が統一されていない。植物や置物や、ぬいぐるみ。本にCD。普通に想像するリビングの構造とは少し違った雰囲気に見えるのは、その広さもあるが、どこか複数の生活が交錯しているような物の置き方に原因がある気がした。

「ソファにどうぞ。コーヒーは飲めますか」

「はい」

「では、座って待っていてください」

「ありがとうございます」

 ぼくは言われたとおりにソファに腰を下ろした。出窓が見え、飾られたぬいぐるみの向こうに雨が降っているのが見えた。

「ちらかっていて、すみません」

 椎名さんが、キッチンに立ちながら言った。

「いえ……そんなことは」

「大人数で住んでいるものですから」

「何人くらいですか」

「六人です」

 椎名さんはそう言って、コーヒーとお茶菓子を運んできた。お茶菓子は女の子の好きそうな外見のクッキーだった。

 椎名さんは僕の向かいに腰を下ろし、コーヒーを置いた。

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

 僕は素直にコーヒーを飲んだ。随分と久しぶりに口にしたような気がした。

 向かい合って座ると、椎名さんの顔がまっすぐに見えた。椎名さんもコーヒーを口にして、膝の上に手をそろえた。顔立ちも、その所作も、何か疲れたような苦しさを感じさせた。

 暫く二人で何も言わなかった。色々なところから雨音が忍び込んできて、静かな空間を満たした。静かだった。けれど、静かすぎだった。

 椎名さんはもう一度コーヒーを飲んで、改めて僕を見た。

「本当に、遠いところをありがとうございました」

「……いえ」

「ここに来るまでに、どれくらいかかりましたか?」

「一時間……半くらいです」

「そうですか……。お疲れになったでしょう」

「いいえ。大丈夫です。そんなに遠く感じませんでしたし……」

「……そうですか」

 椎名さんは小さく頷いた。長い髪がさらりと腕にかかって、椎名さんはその髪を耳にかけ直した。

「今は、私一人しかおりません。いえ、と言うより……私しかあなたにお話しできる人間が残っていません。なにぶん私はあまり説明がうまい方ではないので、分かりにくいところもあるかも知れないのですが、できるだけ全てをお話ししたいと思います」

「はい。よろしくお願いします」

「まず……何からお話ししたらいいのか」

 と言って、椎名さんは自分の指先を触った。

 椎名さんは悩んでいるようだった。色々なことが起こりすぎて、話の整理がつかないとでも言うように。

「おかしなものですね……。あなたが現れたときのために、色々話すことを考えていたのに、いざあなたを前にするとどう言っていいのか分からないなんて」

「僕が現れたときのために……。つまり、その、あなたは僕を待っていたんですか?」

「はい」

「それは……どうして?」

「あなたを待つしか……方法がなかったからです」椎名さんはもう一度自分の指を触った。「……すみません。本当に、話の整理がつかなくて……。あなたを待っていた理由も、どうお話ししていいのか」

 と言って、椎名さんは黙り込んでしまった。本当に、何から話していいのか分からない様子だった。

「あの……でしたら、僕の方から質問をしても構いませんか」

「はい」

「僕も訊きたいことが多すぎて、何から訊いていいのか分かりませんが……まず、一つ確認させてください。ネット上には、『Lucy, close to you』の制作者が全員行方不明になっているという噂があるそうです。ご存じですか?」

「そんな噂が……。……そうですか」

「椎名さんは先程、あなたしか話ができる人間が残っていないと言いました。それはつまり……どういうことなんでしょうか」

 椎名さんは何か考えるようにじっとしていた。やがて小さくため息が聞こえた。

「……そのネット上の噂は、間違っていない……と言っても、いいと思います。……みんな、私を残して消えてしまったんです」

「消えた?」

「はい」

 椎名さんは深く頷いた。消えたという事実の重みを、誰よりも分かっているかのように。

 ……消えた。行方不明ではなく、消えた。

 僕は才人のことを思い出した。才人も消えてしまった。どこへ行ってしまったのかも分からない。

 椎名さんは小さく首を振った。

「……いえ、消えたというのは正確ではありませんね。もしかしたら、ゲームに取り込まれてしまったと言った方が、いいかもしれません」

「取り込まれた?」

「はい」

「そう言えば、『Lucy, close to you』をプレイするとゲームに取り込まれるという噂もあるんですが、これは……」

「その噂なら、知っています」

 椎名さんは小さくあごを引いた。

「私は、その噂は本当なんじゃないかと……思っています。私の仲間の消え方も、まるで取り込まれるようでしたから……」

 僕は才人が消えたときのことを思い返した。才人はルーシーの両腕に包み込まれ、姿を消した。これはまるで、ルーシーによって連れて行かれたようではないか。

 僕は椎名さんに、「自分の友人も消えたのだ」と言うべきか考えた。けれど結局それは言わず、椎名さんの話を聞くことにした。

「皆さんが消えたのは……いつですか?」

「二月ほど前のことでした。厳密には、『Lucy, close to you』発売の翌日、その夜です」

「その時、一体何があったんですか?」

 僕の質問に、椎名さんは暫く黙り込んだ。そして膝の上にそろえた自分の両手を見つめて、じっとしていた。長い黒々としたまつげが瞳を隠して、その沈黙をずっと重いものにした。

「あの時……」

 やがて、椎名さんは口を開いた。

「私たちは……『Project fragile』のメンバーは、全員このリビングにいました」

「他の方は?」

「妹だけは、自分の部屋に」

「え? じゃあ、『Project fragile』の皆さんと、妹さんとで住んでいるんですか? その……失礼ですが、ご家族とは?」

「全員、親とは別居しています」

「別居……?」

「ええ。ここは、シェアハウスなんです。みんなそれぞれに事情があって、家族とは一緒に住めないんです。だから、みんなでシェアハウスを借りて、一緒に」

「……そうなんですか」

 靴がどれも若者向けだったのも、複数の生活の混ざり合ったように見えるのも、そのせいのようだ。それにこのリビングの広さも、シェアハウスだからなのだろう。言われてみれば、みんなが集まってもプライベートスペースを守れるくらいの広さに思える。

「あ……すみません、話を遮ってしまって」

「いいえ」

 椎名さんは首を振って、言葉を整理するように時間を取った。

「……それで、あの時、『Project fragile』のみんなとここにいたんです。妹は一人部屋にこもっていました。妹はあの日、一人で母に会いに行っていたのですが、帰ってきてから一言も口を利きませんでした。何があったのか話してくれないので、私たちには妹に何があったのか分かりませんでした。それで、みんなで妹とどう接したらいいのか、話し合っていたんです。ただあまり良い案は出なくて、妹が落ち着くまで待とうという話になったんです。沈黙が続きました。そうして暫く黙り込んでいると、全員が幻聴を聞いたんです」

「幻聴?」

「はい。『さみしいの。それはあなたもいっしょでしょ?』と。妹の声でした。と言うより……それはゲームの中のせりふでした。あの少女、ルーシーの。その瞬間でした。この家が、『Lucy, close to you』の中に取り込まれたんです。床や壁は朽ち果てて、窓の外には雨が降りました。私たちがいるのはもうリビングではなくて、朽ちた病室に変わり果てていました。私たちは突然のことに動揺しました。現実離れしていて……何が起こったのか分からなかったんです。その時でした。天井に、巨大な少女が、もう一人のルーシーが現れたんです。ゲームの中でプレイヤーを追ってくる、あの少女です。恐ろしい光景でした。夢と思いたかったのですが、つきまとう現実感がそれを許しませんでした。もう一人のルーシーは、私たちを見るとうめいて、襲いかかってきました」

 椎名さんはそこで一瞬言葉を切った。

「それからのことは……よく覚えていません。病室を飛び出して、みんなで逃げ出したことだけは覚えています。それからみんなが捕まっていったような記憶はあるのですが、その光景をよく覚えていないんです。気がつくと私一人になっていました。私ともう一人のルーシーは、向き合ってじっとしていました。その時間があまりにも長く感じました。でもルーシーは私には何もしませんでした。ふいと顔を背けて、行ってしまったんです。私は呆然として、その場にへたり込みました。すると、私のいる場所は元の通りリビングに戻っていました。けれどみんなの姿はなく……私一人だけ、ここに残されていました。病室の寒さが肌に染みこんでいて、とても嫌な感じがしました。みんなが消えたなんて信じられなくて、家中を捜しましたが、どこにもいませんでした。私と妹を残して、消えてしまったんです」

「あなたと……妹さんを?」

「はい」

「じゃあ、妹さんは、今もいるんですか?」

 驚いて訊くと、椎名さんは迷うような顔をした。僕の質問にどう答えたらいいのか、判断に迷っているように見えた。

「いる……と言えるのかどうか」

「どういうことですか?」

 椎名さんは答えなかった。ただ、一度目を閉じて、何か決意を固めるようなそんな表情をした。

 そして目を開くと、椎名さんはまっすぐに僕を見た。

「片井さん」

「はい」

「妹は……」

 と言いかけて、椎名さんは首を振った。

「……いえ。私が言葉だけで説明するよりも、妹に直接会っていただいた方が、いいかもしれません」

「え……? 妹さんと、話せるんですか?」

「話せはしません。でも、妹は、ここにいます。いると言えるのかどうか分からない状態ではありますが、今この家にいるんです」

 いると言えるかどうか分からないというのは、一体どういうことなのか。

 しかし、会える?

 僕は無意識にぎゅっと両手を握った。

「片井さん。妹と会ってください」

 椎名さんはそう言って、じっと僕を見た。懇願していると言うより、それ以外に方法がないと言っているようだった。

 ……それ以外にない。そうかも知れない。

 椎名さんの妹、『ルーシー』は、おそらく今起こっていることの核心だろう。ならば、会えば何かが、分かるかも知れない。何が起こっているのか、僕はどうすればいいのか。そういうことが。

 僕は頷いた。

「はい」

「……ありがとうございます。こちらです。どうぞ」

 椎名さんが立ち上がったので、僕もソファを立った。廊下に出ると階段へ向かった。

「二階はみんなの部屋があるんです。今は、私と妹しかいませんけれど……」

 椎名さんはそう説明した。二階に上がると、確かに廊下の両側に何枚も扉が並んでいた。この扉の一つ一つが、それぞれの個室なのだろう。けれどその扉の向こうがどれも無人であることを示すように、しんと静かだった。

 椎名さんは一番奥の扉の前に立った。

「ここが妹の部屋です」

 椎名さんはノックもせずに、ドアノブに手をかけた。ゆっくりと扉が開く。

「どうぞ」

 椎名さんは僕を先に通すため、少し体をよけた。僕はちらりと椎名さんの顔を見て、小さく頷いてから扉をくぐった。

「――来てくれた。うれしい……」

 小さく声がした気がした。あの子の声だった。

 その瞬間僕は足が止まってしまった。扉の向こうが、普通の部屋ではなかったからだ。

 そこは薄暗い朽ちた部屋だった。奥に窓があり、雨が流れている。窓の下にはベッドがあったが、それ以外には何もなかった。

 『Lucy, close to you』の、病室だった。

 僕はまたゲームの中に入り込んだのかと思って、驚いて扉に振り返った。しかしそこには椎名さんが普通に立っていて、扉の向こうもシェアハウスの廊下が見えていた。その扉一枚を境界にして、世界が切り替わっているかのようだった。

 椎名さんは僕の驚いた顔を見て、小さく頷いて見せた。驚くのも無理はない、とその顔が言っていた。

 僕は戸惑った。どうしてかこの部屋は、『Lucy, close to you』の世界に取り込まれているらしかった。

 僕は戸惑いながらも、椎名さんから目を離して、病室の中を見回した。無人のように静かなので最初分からなかったが、ベッドの中には誰かがいた。僕はそれに近付いていった。

 ベッドの中にいたのは少女だった。まだ高校生くらいだろうか。長い黒髪の、あどけなさを残した顔。眠っているらしく両目は閉じられていた。

 僕はその子の顔を覗き込んだ。

 少女の顔は無表情だった。苦しそうでもないが、かといって安楽でもない。何の感情も読み取れない顔だった。寝息すらしない。生きているのか死んでいるのか、それすらも分からないくらいだった。

 窓の外からは雨音がしていて、窓にぶつかった雨粒が、音を立ててからガラスを伝っていく。この部屋の中では、少女の存在よりも、雨の存在の方が感情的だった。悲しく、泣いているような。

「……待っていたの。ずっと……待っていたの」

 横から声がした。僕は振り向いた。

 僕の横にはあの子が立っていた。十歳くらいの、長い黒髪をしたあの子。今ベッドの中にいる少女と、顔立ちがよく似ていた。

「来てくれて、うれしい……」

 そう言って、女の子はすっといなくなった。

 女の子がいなくなると、椎名さんが病室の中に入ってきた。荒れ果てた床をスリッパの底がこするしゃりしゃりという音がしていた。

「妹の、椎名琉宇(るう)です」

 椎名さんは僕の横に立った。あまりにも悲しそうな顔で、ベッドの中にいる少女を見下ろしている。

「あの……ここは、この部屋は……」

 そう口に出したものの、何をどう訊いていいのか分からなかった。

 椎名さんはふいふいと横に二度首を振った。

「驚かれるのも無理はありません。ここは、妹の部屋は……『Lucy, close to you』の中にあるんです」

「どういうことなんですか?」

「多分、妹は……ゲームの中に閉じこもってしまったんだと思います」

「どうして?」

 椎名さんは目を閉じた。何かをゆっくりと考え込むような様子だった。

「詳しいことは分かりません。でもきっと、そうせざるを得なくなるようなことが、この子の身に起こったんです」

「何があったのか、全く分からないんですか?」

「……分かりません。この子は何も話してくれませんでした。でも……きっかけは、母に会いに行ったことなんじゃないかと思います」

「母親に、会いに……。そう言えば、皆さんが消えたのは、妹さんが母親に会いに行ったその夜だったと言っていましたが……」

「そうです」

 椎名さんは頷いた。

「全ては……『Lucy, close to you』の制作を企画したところから始まりました。少し長くなります。聞いていただけますか?」

「……はい」

 僕も頷いた。聞く以外になかった。

「最初このゲームは、ただ廃墟を探索するゲームになるはずでした。その廃墟に少女が現れ、主人公を、プレイヤーを、過去へと導く。そして主人公が自分の過去と向き合い、少女と共に過去を癒やす、そんなゲームに。廃墟を探索すると言うより、過去を探索するゲームと言った方が正しいかも知れません。当初はホラーゲームではありませんでした」

「それが、どうしてホラーゲームになったんですか?」

「そうすれば、あなたがプレイしてくれるかも知れないと思ったからです」

「僕が?」

 面食らった。そこでどうして僕の話が出てくるのか分からなかったからだ。

 僕が驚いたのを見て、椎名さんはくすりと笑った。

「妹が、あなたのファンだからですよ」

「え?」

「あなた、カタロエという名前でゲーム実況をしてらっしゃるでしょう」

「ええ……まあ」

「妹はあなたを見つけたときから、ずっとあなたの動画を見続けてきました。いつも言っていたんです。やるゲームはどれもホラーばかりだけど、そんなことを忘れるくらい、いい声なんだ、って。聞いていると落ち着く。とても支えられる……。そんなふうに言っていたんです」

「……支えられる」

「そうです。妹はあなたの声に支えられていました」

 僕は思わず眠っている椎名琉宇を見た。支えられる……。お前の声は、そういう声なんだ。そんなことを、才人も言っていた。

「僕の声が……支えていたんですか」

「そうです。この子はとてもさみしがり屋で……両親と離れてからは、あなたの声だけが支えでした」

 僕がそれに何も言わないので、椎名さんはふふっと笑い声を漏らした。どこか疲れたような、さみしそうな声だった。

 そして椎名さんは窓の外を見た。窓ガラスを、雨が流れている。

「……私達の両親は、離婚したんです。母は私達姉妹を引き取ることを拒否しました。今でもあの時の母の言葉はよく覚えています。ごめんなさい、でももう限界なの……。そう言っていました。離婚の理由も、多分私達なんでしょう。それで、私達は父に引き取られました。でも……私達は父とはうまくいきませんでした。だから家を出て、『Project fragile』のみんなと、シェアハウスで生活し始めました。ここで生活している私達は、家族とうまくいかなくなった人間の寄せ集めなんです」

 椎名さんはゆるゆると首を振った。何かを否定したいのではなく、話を整理するためにそうしたようだった。

「共同生活を始めてから、ゲームを作り始めました。みんなの得意なことをそれぞれ出し合ったら、ゲームという選択になりました。そうして、自分たちの気持ちをゲームで表現しようと思ったんです。妹も時々参加してくれました。主題歌を歌ったりして……。歌が好きなんです。だから、自分の歌を動画にして公開したりもしていました。そうしているうちに、『Lucy, close to you』の制作企画が持ち上がりました」

「最初は、廃墟を……と言うか、過去を探索するゲームになるはずだったんですよね」

「そうです。私達が作るゲームは、いつも大体そんなようなものばかりでした。私たちの気持ちは、過去に置き去りにされていて……いつまでも癒えないままで。それで、過去についてのゲームを作ることで、それを癒やしていたんです。だから今回もそんなゲームにする予定だったんです。でも妹が、今回はホラーゲームにしてほしいと言い出しました。もしかしたら、あなたにプレイしてもらえるかも知れないから、そうしてほしいと。私達はどうしてと問いました。そうしたら……」

「……そうしたら?」

「……お母さんに会いに行きたい。そう言ったんです。もう一度会いたい。もう一度だけでいいんだって言いました。カタロエさんにこのゲームをプレイしてもらえるか分からない。ましてや動画にしてくれるかどうかなんてもっと分からない。でも、このゲームを会いに行くきっかけにしたい。そう言ったんです」

「ゲームを、きっかけに?」

「ええ」

 椎名さんは僕を見た。

「あの子はそれだけ、あなたの声を励みにしていたんです。プレイしてくれるかも知れない、ただそれだけで勇気をもらえたんです。私達はみんな、理由があって家族とは生活できない人間達です。だから、妹の母親に会いたいという言葉が、とても重く感じられました。叶えてあげたい……そう思いました。だから、ゲームに出てくる女の子も妹をモチーフにデザインして、声も妹に吹き込んでもらいました。女の子の名前も、妹の活動名であるルーシーにしました。全部妹のために……。ゲームの中のあの子は、妹そのものです。この子がカタロエさんに声をかけてもらえるように願いながら、みんなであの女の子を作りました。『Lucy, close to you』は、さみしがり屋のこの子のために作ったゲームだったんです。あなたにプレイしてもらえるかも知れないというだけで、この子にとっては大きな勇気になったから……。全てそれだけの理由でした」

「僕の声は……そんなにたいした声じゃ」僕は戸惑って、ついそんなことを言っていた。

「自分では分からないものではありませんか。自分のどんなところが、人を支えているかなんて」

 と言って、椎名さんは両腕をさするようにした。朽ちた病室はひんやりとして寒く、石の床から冷気が立ち上ってきて底冷えがした。

 椎名さんは妹の顔を見た。寒さのせいか血の気が引いて、青白い顔色だった。

「……一年以上かけて、ゲームは完成しました。ゲームを作っている間、この子は母親に会いに行くのを我慢していました。そして完成し……発売の翌日、この子は一人で母親に会いに行きました」

「……あなたは、行かなかったんですか」

 椎名さんは首を振った。

「私は……行きませんでした。もう限界なのと言われたことが、こたえていたんです。私は妹よりも十年長く母の姿を見てきました。母が悩み、苦しんで、泣く姿を。だから会いに行くのが怖かったんです」

「……そう、ですか」

「そしてこの子は会いに行って……帰ってきました。それは酷い顔でした」

「酷い顔?」

「何があったのと訊きましたが、琉宇は何も言いませんでした。口もきけないくらいのことがあったんだと思います。私達は何かあったんだと分かりながら、どう声をかけてあげたらいいのか分かりませんでした。この子は部屋にこもってしまって……その夜でした。この家が『Lucy, close to you』に取り込またのは。そしてみんなはいなくなり……妹の部屋はゲームの中の病室に変わっていました。残されたのは私だけでした。どうしていいのか分かりませんでした。ただ……全てのきっかけは、この子が母に会いに行ったことなんじゃないのかとは思いました。何しろ、その夜にあんなことがあったんですから。だったら、こんなふうに『Lucy, close to you』の世界に閉じこもってしまったこの子を、何とかして助け出さなければいけないのではないか。他にどんなことができるのか分かりません。でも、それ以外にないような気がしたんです」

「妹さんを……助ける? でも、どうやって……」

「私にも分かりません。ですが、多分……いえ、きっと、助けられるのはあなただけなんじゃないかと思うんです」

「どうしてですか?」

「あなたがこの子の支えだったからです」

 椎名さんはそう言って僕を見つめた。

「『Lucy, close to you』というゲームも、あなたにプレイしてほしくて作ったゲームでした。そんなゲームの中に、妹はこもってしまった……。だったら、この子はカタロエという人を待っているんじゃないか。そう思えたんです」

 椎名さんはそこで再度首を振った。

「もちろん、私にも何かできないのか、考えました。ですが妹に何をどう語りかけても何も起こらなくて……。私には何もできませんでした。なら私はどうして残されたのだろうと思いました。私にできることは何なのか、何のために一人残されたのか、そう考えたとき……あなたのことが浮かびました。妹が必要としているのは、私ではない。もしかしたら、あなたなんじゃないのかと。そう思うと、妹が『Lucy, close to you』の中に閉じこもってしまったことも何だか納得できたんです。あなたにプレイしてもらいたい、あなたの声で、ルーシーに、妹に、言葉をかけてもらいたい。そんな願いのこもった世界なんですから」

 椎名さんは繰り返すようにそう言った。

「だったら私は、あなたを待つために一人残されたんだと思いました。それに思い至ると、すぐにでもあなたに連絡を取りたいと思いました。でも……何と連絡を取っていいのか、分かりませんでした。突然妹を助けてくださいと言って、通じるわけがない……。そう思うと迷いました。ですから、私はただ、カタロエさんが、あなたがゲームをプレイしてくれるのを願うしかできませんでした。あなたの動画をチェックして、ずっとその時を待っていました。そしてあなたは……このゲームを、プレイしてくれました」

 椎名さんはまた首を振った。今度は悩んでいる様子だった。

「それだけで救われた思いがしました。妹にも教えてあげたかった。プレイしてくれたよと。これで現実が変わると思いました。でも……やっぱりどう言って連絡したらいいのか、分からなかったんです。いきなり妹を助けてくださいなんて、言えなくて」

 椎名さんの言っていることはよく分かった。突然このゲームを作ったという人間から『妹を助けてくれ』というメッセージが届いたとして、そのメッセージの意味することを、僕は理解できただろうか。いや、怪しいだろう。

「だから私は、結局待つしかありませんでした。来るかどうかも分からないあなたからの連絡を……」

 椎名さんは改めて僕を見た。

「でもあなたは連絡してくれました。私達を……見つけてくれた」

 僕は椎名さんを見つめ返した。椎名さんの目からは疲れたようなさみしさが、にじみ出ていた。

「助けてください。妹を……。お願いします。もうそれしか方法がないんです」

 ……見つけてくれた。

 椎名さんも、椎名琉宇――ルーシーも、僕にそう言った。

 僕は目を閉じて考え込んだ。

 見つけてくれた。

 ――さみしいの。

 ――こっちに来て。

 ――あなたに……助けてほしい。

 ルーシーは、僕にそう言ってきたのではなかったか。ならば、本当に僕のことを待っていて、助けを求めているのかも知れない。いや、それは疑うべくもないのではないか。思い返せば、ルーシーはずっと僕に呼びかけていたではないか。僕は最初それがどういう意味なのか理解できなかったが、今なら、多分、分かることができるかも知れない。助けてくれと言うのなら、僕にできることは、それ以外にないはずだ。

 僕は目を開いた。

 椎名さんは僕のことをじっと見つめていた。

 窓の外からは雨音がしていた。それが現実の雨なのか、『Lucy, close to you』の雨なのか、僕には分からなかった。


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