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森の中にいる。
夜の森。うっそうとした森だ。
その森に、今は雨が降っていた。
僕の目の前には、幼い頃の僕。
母に置き去りにされたのだろう、ぽつんと立っていた。
幼い僕は、僕を見上げた。
「いかないで」
気付くと、幼い僕の後ろに、あの女の子が立っていた。
女の子も言った。
「いかないで」
瞬きをすると、森の中ではなくなっていた。
小綺麗な廊下に、格子のはまった覗き窓のある扉が並んでいる。僕はその中の一つの前に立って、格子越しに覗き窓の中を見ていた。
覗き窓の向こうには、才人がいた。黒髪で、まだ小柄な頃の才人。
「いかないで」
過去の才人も、そう言った。
と、いう夢を見た。
僕は目を開くと、じっと虚空を見つめていた。
今の夢は……。
――いかないで。
幼い頃の僕。あの女の子。そして才人。
――いかないで。
行かないで……。
それは一体誰に対して言っていることなのだろう。
あの三人は、僕に対して言っていたのだろうか。でも僕は誰のことも置いていった記憶はない。むしろ、僕は置いて行かれる側の人間だった。
――いかないで。
それは……僕が言うべき言葉だったのかもしれない。それを今、あの三人が、僕の代わりに口にしたのだろうか。まるで僕の幼い頃の言葉を代弁するように。
窓の外からは、ぽつぽつと雨の音がしている。
僕は時間を見た。まだ夜中の二時だった。
再び枕に頭を預け、目を閉じる。
――いかないで。
その言葉は、本当は誰の気持ちなのだろう。
僕には全く、分からなかった。
……才人が学校に来なかった。
雨音が入り込んでくる静かな教室の中で、僕は一人ホワイトボードの文字を書き写していた。僕だけではなく、講義を受けている学生の全員が同じようにしている。
才人は哲学科で、僕は心理学科なので、基本的には授業が同じになることはあまりない。けれど第二外国語とかの一般教養の授業では一緒になることが多かった。だから一日のうち、何度かは授業が一緒になる。
それなのに、今日はどの授業にも才人は現れなかった。
以前なら、素行不良なところのある才人のことだから、今日もサボっているんだなと思うだけで済んだだろう。でも……。
僕は授業を受けながら、こっそりスマホの画面を見た。才人からの連絡はない。そんな日もないわけではない。なのに何か胸騒ぎがして、このスマホの沈黙が何か意味のあることのように思えて仕方がなかった。
『才人、今日学校来ないの?』
先生の目を盗んで、メッセージを書く。
でもそれを送信するべきかどうか、なぜか迷ってしまった。ごく普通の質問だ。別に特別なことを訊いているのではない。それなのに、これを訊いて、その後返事がなかったらと思うと――。
『才人、今何してる?』
メッセージを書き直してみる。
けれどやはり、それを送信することができない。
『今日行ってもいい?』
もう一度書き直したが、これはすぐに消した。
僕はため息をつき、鞄の上にスマホを置き直した。何を書いても、送信していいのかどうか分からない。
――もうすぐ、あの人もこちらへくるの。
もうすぐ……。その「もうすぐ」が、まさに今なんじゃないのか。そんな嫌な想像が頭を離れない。
――いかないで。
夢の中の言葉が脳裏をよぎる。
それは、今僕が才人に対して言いたい言葉だった。
あの子のところに行ってしまったら、才人はどうなる。あのゲームをプレイし実況した人たちは、消息が分からない。ゲームに取り込まれるという噂もあるが、本当はどうなってしまうのか、僕は知らない。
僕は授業中、ずっとスマホに注意を払っていた。いつ才人から連絡があってもいいように。
しかし才人からの連絡なんて入ることもなく、この日の授業は全て終わってしまった。僕はノートや筆記用具を鞄にしまいながら、これから才人の家へ行こうかどうか、迷っていた。
もし普通に学校をサボっただけなら、街を遊び歩いているか、家でゲームをやっているかのどちらかだ。行ってみて在宅しているかどうかは五分五分といったところだろう。
でももし、才人の身に何か起こっていたのだとしたら?
僕は一体どうしたらいい?
僕は再度スマホを手に取った。LINEを確認してみるが、何の連絡もないことに変化はない。
僕は暫くどうするべきか考え込んでから、やっと指を動かした。
『才人、今どこにいるの?』
家にいるの?
あの子のところにいるの?
その両方の気持ちの混ざった問いかけだった。僕はゆっくりと深呼吸して、送信を押した。
返事があるか、どうか。
僕はスマホを額に押しつけながら、返事を待った。講義室からは既に人がいなくなっており、僕だけがいた。一人ぽつんと座っているだけの室内はとても静かで、雨音がよく聞こえた。
僕は待った。返事があるまで。
雨音を聞きながらそうしていると、やがて着信があった。
僕ははっとして、慌てて画面を見た。才人からか。それとも違う人からか。
『家だけど?』
才人からだった。
ごく普通の調子での返事。
家……。今は、家。
『今日学校に来なかったね』
『あー、うん』
『何してたの?』
『寝てたよ』
『寝てた? 普通にサボり?』
『なんか具合悪くてさー』
意外な返事だった。
『具合が悪い? どうしたの? 大丈夫?』
『大丈夫大丈夫』
『どう具合悪いの?』
『なんか変なんだよ』
『変って?』
『よく言えないけど、なんか変なんだ』
『どう変なの?』
『それが分からないんだよなー』
『今からそっち行こうか?』
『そこまでじゃないよ。別にいいって』
『やっぱり行くよ。なんか心配だし』
『心配性だなお前ー笑。分かった。じゃあ待ってるわ』
『うん。今学校だからすぐいけると思う。何か買っていってほしいものとかある?』
『別にねーわ。気を付けてこいよー』
『分かった』
僕は急いで立ち上がった。
具合が悪い? 何かが変?
才人に何が起こっているのだろう。
杞憂ならそれでいい。僕は学校を出ると、雨の中を才人のマンションへ向かった。途中スーパーの前を通りかかったが、何か手土産を買っていこうなんていう余裕はなかった。ただまっすぐに急いで行った。
雨粒が傘に当たって、ぽつんぽつんと絶え間ないリズムを刻んでいる。早足で歩くと傘で防ぎきれなかった雨が足にかかって、才人の家までの短い道程でも服が濡れた。
十階建てのマンションに着くと、エレベーターで七階まで上った。そして才人の家の前に立ち、インターホンを鳴らした。
「はいよー」
中からすぐに声が返ってきた。
僕はドアノブに手をかけた。相変わらず鍵はかかっていなくて、すんなりと開いた。
「才人」
部屋に入ると、才人はベッドの上に起き上がって、あぐらをかいていた。パジャマ姿のままだ。着替えずにずっと横になっていたのだろう。
「どう? 具合」
「別に、今は何とも」
才人は笑いながら肩をすくめた。
「ずっと寝てたの? 何か食べた?」
「何も食ってない」
「何か作ろうか」
「ええ? いいよ」
「作ってあげるよ。才人ほど料理うまくないけどね」
「だから、俺の腕前は普通だよ」
「どんなものなら食べられそう?」
「何でもいいよ」
「じゃあ、冷蔵庫見てみるね」
「悪いなー」
「いいって」
僕はキッチンに向かうと、冷蔵庫を開けた。中には食材が雑然としまわれている。どう具合が悪かったのかも分からないし、どんなものなら食べさせていいのかも分からなかったので、適当にうどんを作ることにした。
具を少なめにしたうどんを持っていくと、才人はベッドの上で煙草を吸っていた。
「煙草なんて吸って大丈夫?」思わず訊いた。
「ああ、大丈夫だろ」
「本当に?」
僕がテーブルにうどんを置くと、才人は煙草を消してベッドから下りてきた。
「体調不良って言っても、何て言っていいのか分からないからそう言っただけだしな。じゃ、いただきまーす」
うどんを食べ始めた才人の向かいに腰を下ろして、僕は才人をじっと見つめた。
「ねえ、才人」
「うーん?」
「今日、何かあったの?」
「別に何もないけど。何でだ?」
「だって具合悪いって言うし……」
才人はおかしそうに笑い声を上げた。
「だから、それはたいしたことないんだって」
「だって具体的なこと何も教えてくれないからさ」
「具体的なことねえ」
才人はうどんをすすった。
「ほんと、何て説明したらいいのか分からないんだよな。何て言うのか、うーん。やっぱ分かんねえわ」
「それじゃ何にも分からないよ」
「お前、ちょっと顔怖くない?」
才人は僕の顔をまじまじと見た。
「そんな顔すんなって。本当になんてことじゃないんだからさ」
「でもさ……」
「でも、ま、来てくれてありがとな。お前いいやつだなー」
才人はからから笑いながら、そう言った。僕はそれに何も言うことができず、ただ才人がうどんを食べるのを見つめ続けていた。
才人がうどんを食べ終わると、食器を片付けてあげた。才人は自分でやると言ったが、半病人にそんなことをさせるわけにはいかなかった。
そして戻ると、才人はまた煙草を吸っていた。この短時間に二本目を吸うなんて珍しかった。
「そんなに吸うなんて珍しいね」もう一度同じ場所に座って、僕は言った。
「ん? ああ……」
才人はややぼんやりと返事をして、煙草を口に当てた。
「まあ……なんとなくな」
「才人ってさ……」
「うん?」
「二十歳になってすぐに吸い始めたけど、何で?」
「何でって?」
「何となく気になって」
「そうか? うーん、そうだな……」
才人はもう一度煙草を口に当てて、暫くそうしていた。そしてため息のように煙を吐くと、ちょっと困ったような、不思議な笑い方をした。
「煙草ってさ、吸ってる人見ると、何かから逃げてるみたいに見えるよな」
「逃げてる?」
「そ。口にこんなもの当てて、煙吸って。何考えてるのか分からない顔してさ。そんな顔見てて、もしかしたら何も考えてないのかも知れない、考えることから逃げてるのかも知れない、って思ってさ」
才人は自分の足下を見ながら、指に煙草を挟んでいた。そこから立ち上る煙が、風のない室内で心細く揺れていた。
「だから、俺もそうしたかったんだ」
「……逃げたかったってこと?」
「まあ……そうかな」
「何を考えたくなかったの?」
「……色々。色々だ」
と言うと才人は煙草を口に当てて、煙を吐いた。口元に煙を漂わせながら、ふふっと笑った。
「何言ってんだろ、俺」
「いいよ。何でも言いなよ」
「マジでいいやつだな、お前」
才人はあははと楽しそうに笑って、もう一度煙草を吸った。
「お前ってさ」
「なに?」
「いい声だよな」
「なに? いきなり」
「いや、改めてそう思ってさ」
「いい声? そうかな……」
「自分では分からないかも知れないけど、ほんと、いい声してるよ」
「うーん」
僕は思わず喉に手を当てていた。
「分からないなあ」
確かに、動画のコメントでは「いい声だ」「癒やされる」といった意見をもらうこともある。でも、こうして面と向かって言われることは稀だった。だからか、今までバーチャルだったものが現実に現れてきたかのような奇妙な感覚を覚えて、僕は不思議な感じがした。
才人はにっと笑った。
「なあ、ちょっと、何か言ってみろよ。早口言葉」
「なんで?」
「何でもいいから」
「どうしたの? 急に」
「いいから」
才人から促されて、僕はやや照れながら早口言葉を口にした。
「生麦生米生卵(なまむみ、なまもめ、なまままも)」
言えなかった。
「あっはっは」相当おかしかったのか、才人は大きく笑い声を上げた。
「言えないよ、早口言葉なんて」
僕はつい赤くなった。
「いやー、いい声で噛んだなー」
「呪術師手術中(じゅじゅちゅち、しゅじゅちゅちゅう)。うーん、言えない」
「いやいや、いい声、いい声」
才人は笑いながらそう言って煙草を消した。いつもの通りに携帯灰皿に吸い殻を放ると、それを机の上に置いた。
「あー、なんか元気出たわ」
「こんなので元気出ていいの?」
「いいだろ別に。ああ、おかしい。いい声で噛むとめっちゃおもしろいな」
才人は本当に機嫌良くそう言った。パジャマ姿でいると何となく病人らしく見えるが、本当に元気になったようだった。
「ま、ほんと、来てくれてありがとな。正直ありがたかったわ」
「どういたしまして」
「今日お前これからどうする? 泊まってくか? 世話できないけど」
「いいよ、具合の悪い人のお世話になるわけにいかないしね」
「そうか?」
「それに明日は学校だし。才人、明日はどうする?」
「あー、そうだなー」
才人は上目遣いになって考え込んだ。
「明日になってから考えるわ」
「まあ、あまり無理しないようにね」
「そうする」
才人はにやっと笑った。いつも通りの表情だった。
どう具合が悪かったのかは分からないが、どうやら本調子に戻ったようだ。そういう才人の普通の顔を見たら、僕も安心できた。
「じゃあ、あんまり長居にならないうちに帰るね」
「おーう」
「何かあったら連絡してきてよ。家近いんだし、すぐに来るからさ」
「ん。ありがとな」
僕は鞄を持って立ち上がると、不意に気になって再び才人の顔を見た。
「ねえ、才人」
「うん?」
「あのさ、変なこと訊くかも知れないけど……」
才人はおかしそうにからから笑った。
「最近お前変な質問ばっかだから。いいよ、何だ?」
「十歳くらいの……黒髪の女の子と、会ったことない?」
「何、それ」
才人はきょとんとした。
「じゃあ、会ったことないんだ」
「ないなあ」
「夢に出てきたことは?」
「夢に? 何だよ、そんなんが出てきたら何かの暗示とか象徴とか、そういうことなのか?」
「そういうんじゃないけど」
「そうだな、最近変な夢が多い気もするけど、でも女の子は出てこないなあ」と言って、才人はにやっと笑った。「どうせ女の子なら、同い年くらいがいいよ。十歳じゃちょっとなー。年下過ぎるぜ」
「ええ?」
突然そんな日常的なことを言ったので、僕は半分面食らうのと同時に、くすっと笑ってしまった。
「才人らしいね」
「お前が変なこと言うから彼女ほしくなってきた。あー、彼女ほしい」
「またすぐに別れるかもよ?」
「それならそれだ」
「あ……それとさ、才人」
「ほいほい?」
「『ルーシー』……っていう名前、YouTubeで見たことない?」
「ないけど。それが?」
「ううん。いいんだ。ちょっと最近気になって」
「その『ルーシー』って、ゲームのキャラじゃなくて?」
「ううん」
「ゲーム実況者とか?」
どうして才人がゲーム実況者だと発想したのか分からなかったが、僕は首を振った。
「歌い手、かな」
「へえ。お前、歌い手なんて聴くんだ」
僕は曖昧な顔をして、返事を控えた。別にきちんと聴いてみたわけではないからだ。
才人はそんな僕の顔をじろじろ見てから、何に気付いたのか、にやっと笑った。
「ああ、そうか。今『Lucy, close to you』やってるから、同じ名前の人間が気になったのか」
「まあ、そんなとこ」
「ふうん。偶然だな」
才人は特に意に介していないようだった。けれど、その名前の一致が偶然ではないことを僕は知っている。
『ルーシー』の姉が、『Project fragile』として、『Lucy, close to you』を作った。そしてその中に登場する女の子の声を、『ルーシー』があてたのだ。
才人にそこまでのことを話すべきか迷った。けれど、僕は結局迷っただけで、何も言わなかった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「おう。気を付けて帰れよ」
と言って、才人は窓の外を見た。
「今日も雨だなー。このところずっと雨だ」
「そうだね」
「じゃ、うどんありがとなー」
「どういたしまして」
僕は才人に手を振ると、才人の家を後にした。
才人のマンションから出ると、先程よりも辺りが暗くなっていた。傘からの雨の滴りがより灰色に色づいて見える。
僕は歩きながら、もう一度才人の部屋を見上げた。ごく普通の様子だったが、本当はどうだったのか。今日は一体どうしたのか。実際のところは何も分からなかった。
十階建てのマンションの壁を、雨が流れていく。その灰色の建物をもう一度見上げて、僕はまっすぐ前を向いた。
自分のマンションに帰ってくると、エレベーターで四階へ上がった。才人の部屋に比べると、やはり低い位置だという感じがする。
玄関に入ると薄暗かった。奥の部屋と廊下を隔てる扉も閉まったままだし、雨なので外の光もほとんど入ってこないからだ。
僕はいつも通り傘を開いたまま玄関に置いて、靴を脱いだ。部屋に入ると本当に暗かった。ソファに荷物を置き、カーテンを閉める。その時ちらりと窓の外を見てみたが、雨が窓を濡らして、外がよく見えなかった。
僕は夕食を作り始める前に、机に向かって『Lucy, close to you』のパッケージを手に取った。
天気雨の降る花畑、真ん中にぽつんとある古びた椅子。
裏には、これを作った『Project fragile』の文字が小さく印字されている。
歌を歌い、『Lucy, close to you』のデモ版を実況していた『ルーシー』。その姉が、この『Project fragile』のメンバー……。
僕は結局『ルーシー』には何の接触も試みなかった。もし連絡を取ろうとするなら、『Project fragile』の方が先だろうという気がしたからだ。噂によると、全員が行方不明になっているらしいが、もちろんただの噂だという可能性もある。
けれど、一体何と言って連絡を取ったらいいのか。「このゲームはおかしい。一体何なのか」? 僕はそんなことをいきなり言うのだろうか。いや、それでは相手に何の話も通じない……。
そもそも僕がこのゲームの関係者と接触したいのは、あまりにも不可解な現象が起こりすぎているからだ。だから、このゲームの正体を知りたい。そして、どうすればおかしな現象が起こらなくなるのか、それを知りたいのだ。
だってこのままだと、何が起こるのか分からない。才人の話だとゲームに取り込まれるそうだが、あながちあり得ない話ではないとさえ思える。放っておけば何か起こるのは間違いないという気がするし、ならば、逃れるために何か行動をするべきなのだ。
――もうすぐ、あの人もこちらへくるの。
女の子の言葉が甦る。
もうすぐ才人があちらへ行く……。
僕は額を抱えた。抱えながら、指の隙間からゲームのパッケージを見つめ続けた。
暫くそうしてから、僕はパッケージを置き、パソコンを立ち上げた。ブラウザを開き、『Project fragile』のホームページを検索する。
簡単にヒットした。僕は緊張した指先で、そのリンクをクリックした。
現れたのは、天気雨の降る明るい花畑。そこに、『Project fragile』と書かれている。その下には『チームコンセプト』『最新作』『ゲームリリース』『メンバー』『Blog』『コンタクト』といった項目が並んでいる。
『チームコンセプト』をクリックしてみると、「あなたが夢に見た、幼い頃の甘い記憶。もう戻らない、もう二度と手に入らない優しい記憶。そういうものを求めるように、廃墟を探索するゲームを制作しています。」……といった文章が書かれていた。『最新作』の項目では『Lucy, close to you』の特設サイトが作られていて、「チーム・Project fragile初のホラーゲーム」と紹介されていた。
『ゲームリリース』にはこれまでの作品が最新順に並べられている。基本的にはサウンドノベルか探索アドベンチャーといったジャンルのものが多いようだ。
『メンバー』のページを見てみると、五人の名前が書かれていた。
代表の『YOU』。
グラフィック担当の『Ryousuke』。
プログラム担当の『ななつの子』。
ストーリー担当の『めめ』。
音楽担当の『エヴァン』。
紹介欄には担当が書かれているが、それぞれにお互いの作業を手伝ったりすることもあるようで、厳密にこの分担だというわけではないそうだ。
……この五人の中に、『ルーシー』の姉がいる。
名前を考えると『Ryousuke』が一番可能性が低い気がするが、名前なんてどうとでも名乗れる。名前だけで判断することは難しい。
そして、全員が行方不明であるという噂がある……。ならば『ルーシー』は? 本当に全員行方不明になっているのか?
分からないことだらけだ。僕は『Blog』のページを見てみることにした。もし本当に全員が行方不明になっているのなら、ブログの更新も止まっているはずだからだ。
ブログのページを見てみると、「代表のYOUが書いています。新作情報や日々の雑感などを気ままに更新」とあった。
最後に投稿された記事は、「雨が続きます」というタイトルで、三日前に書かれたものだった。
――三日前?
では、このブログを書いている『YOU』という人は、行方不明になっていない? 少なくとも、三日前までは普通に生活していた跡がある。最新記事に書かれているのが、雨が続いていて洗濯物がどうとかという、普通の日常の話だったからだ。
……『YOU』は、生きている。少なくとも、行方不明にはなっていない。
記事をさかのぼってみると、他のメンバーに関する記述は二月前に書かれたものが最後だ。「『Lucy, close to you』発売記念♪ みんなで飲み会♪」という記事。全員の写真が載っているようだが、なぜか六人いる。顔はイラストで隠されているが、服装を見ると、女性が四人、男性が二人だ。よく記事を読んでみると、「妹のルーシーも参加! 声優役、よく頑張りました♪」……。
妹のルーシー?
では、『YOU』が『ルーシー』の姉なのか?
その可能性が濃厚だった。
その『YOU』がまだ普通にブログを更新しているということは、少なくとも『ルーシー』の姉はまだ無事だということになる。他のメンバーはどうなっているのか、噂通りなのか、それとも何も起こっていないのか。ブログでは何も触れられていないので分からない。
僕は今度は『コンタクト』の項目を見た。
そこには、「Project fragileへのお問い合わせ」と、「代表YOUへのお問い合わせ」の二つがあった。「Project fragileへのお問い合わせ」の下には、専用のメールアドレスが書かれている。対して、「代表YOUへのお問い合わせ」には、メールアドレスと、電話番号。この電話番号は個人のものなのか、携帯かスマホの番号のようだった。
――電話番号。
ここにかければ、『Lucy, close to you』のことが、分かる。
僕は心臓がどきどきした。
ここにかければ何かが分かる。
このゲームが一体何なのか。
あの女の子は何なのか。
起こっている現象を止めるにはどうしたらいいのか。
何かが分かるかも知れない。
心臓がどきどきする。
進める。前に進める……。
その時、鞄に入れているスマホが着信を告げた。
僕はソファの方を向いた。そう言えば、鞄からスマホを出していなかった。一体誰からだろう。
僕は心臓を落ち着けてから、日常に気持ちを戻して、そっと立ち上がった。
さっき会ったばかりだし、まさか才人ではないだろう。もし才人であったとしたら、何か忘れ物でもしてきたのだろうか。そう思いながら、僕はスマホを見た。
スマホに入っていたのはLINEのメッセージで、才人からだった。
『宏衛』
ただ、それだけが表示されていた。何なのだろう。
『なに?』
『ごめん』
『何が?』
『俺、嘘ついたよな』
『嘘って?』
『俺も何が本当なのか分からなかった。でも、何だか嫌な感じがするんだ。だから、今のうちに、言っておく』
『どうしたの?』
突然、一体何を言い出したのだろう。
僕はじっとスマホに見入った。
『宏衛。仲良くしてもらって、嬉しかったよ』
『いきなりどうしたの? 嘘って何?』
『俺、明日、行けないかも知れない』
緊張で指が滑った。簡単な一言を送るのに、二回も打ち間違えた。
『どうして?』
やっと送れた簡単な言葉。
それに対する返事は暫くなかった。
『ひろえ』
『なに?』
『ごめん おれ ほんとうは』
『才人、どうしたの』
『おまえにいいたいよ ぜんぶ でももう じかんが』
『才人、落ち着いて』
才人に何かが起こっている。
僕はそう確信した。焦って額が冷たく冷えて、かあっと頬が熱くなる。
『今そっちに行く』
『じかんがないから これだけいう もうあのげーむにはかかわるな』
――あのゲームには関わるな。
『今家だよね? 今行くから』
『ひろえ ともだちになれて うれしかったよ』
――才人!
僕はスマホだけを握って、部屋の扉から飛び出した。
しかしそこは廊下ではなく、才人の部屋だった。僕の部屋よりも少し雑然とした、あの部屋だ。
え?
どうして――。
僕は思わず立ち止まった。
才人の部屋には、才人がいた。
才人は先程までのパジャマ姿でなく、きちんと部屋着を着て、机に向かっていた。こちらに背を向けてパソコンを見ている。髪の毛の隙間から、横顔が見えていた。
その表情は、あまりにも楽しそうで、同時に安らかだった。
そしてそのパソコンから流れてきているのは、聞き覚えのある声だった。
『皆さんこんばんは、カタロエです。今日はこの実況をやっていこうと思います』――。
……僕の、声。
才人は片肘をつきながら、とても楽しそうに僕の実況動画を見ていた。後ろに立っている僕には気付いていないのか、それとも存在自体が見えていないのか、一人で部屋にいる人のように、安心しきって動画を見ていた。
才人は動画を見ながら、僕が所々で挟む字幕や効果音に笑い声を漏らし、緊張する場面では食い入るように画面を覗き込んだ。
……才人が、見ている。僕の動画を。どうして?
才人は最後まで僕の動画を見終わると、動画の下にある高評価ボタンをクリックした。
僕は呆然とそれを見つめていた。
「……お前の動画、よく見てたよ」
背後から才人の声がした。
僕ははっと振り返った。僕の後ろには机に向かっているもう一人の才人がいた。鏡に映したように同じだ。机に座り、パソコンがついているところも。その才人は椅子を回してこちらを向いて、才人には珍しい微笑むような顔をしていた。
「大学でお前と初めて会ったとき、すぐに分かったよ。あ、カタロエだ! って」
才人はくすくす笑った。
「だって、その声だもんな。間違うわけねえよ。それに、名前も片井宏衛だし。なあ、片井宏衛だから、カタロエ、ってつけたんだろ?」
何が起こっているのか分からないながらも、僕は戸惑いながら頷いた。
すると才人は呆れたように首を振った。
「やっぱりなー。そういう安直な名付け方、お前らしいよ。でも……おかげで、すぐに分かった」
「才人……僕のこと、知ってたの?」
「知ってたよ。だって十万人の視聴者を抱えてるんだぜ、お前。それだけ登録者がいれば、もう大手だ。俺がゲームの実況動画見てたらさ、おすすめで表示されてきたっておかしくないだろ?」
才人はどこか微妙な笑みを見せた。まるでこれが最後のような、別れを意識したような、そんな笑みだった。
「……応援してた。お前のこと」
……これは、本当に才人がそう言っているのだろうか? 今目の前にいる才人は、本物の才人なのだろうか?
僕には分からなかった。でも、この才人は本物で、話していることも本心だと思いたかった。
「だってさ、俺、お前の声に支えられてたんだ。お前の声は、そういう声なんだよ。人を支える声なんだ」
「……才人」
「何があっても、どんな過去があっても、お前の声を聞けば落ち着いた。お前、すごいよ、ほんとにさ。ほんとにすごい」
僕は何も言うことができなかった。ただ才人を見つめていた。背後では、もう一人の才人が別の動画を見始めていた。
『皆さんこんばんは、カタロエです。えーと今回はですね、こちら。リクエストがありましたのでね、こちらをやっていこうと思います』
「お前の動画で、色々なゲームを知ったよ。お前の動画を見て買ったゲームも沢山ある。そうだな、『Lucy, close to you』も……」
才人は下を向いて、何かしみじみと考えるように、小さくうんうんと頷いた。
「でさ……。それをやってから、過去が現れるようになってきたんだ。女の子の声で幻聴もした。さみしい、さみしい、ってさ」改めて、こちらを見る。「お前にも、あったんだよな。でもさ、俺……俺も同じだよって、何だか言えなかったんだ。だって言うんだぜ、幻聴がさ、さみしいのはあなたも一緒でしょって。そんなのさ、そんなの……認めたくないよ。もう乗り越えたと思っていたことなのに、もう一度、面と向かわないといけないようなのはさ……。だからさ、そんなのないみたいに、お前には嘘ついてたよな……。自分で認めたくないから、お前にも言えなかったんだ」
才人は上目遣いに僕を見た。
「ただ……幻聴が聞こえ始めたのはあのゲームをやってからだった。だから、あれを実況してるお前にも何かあるんじゃないかって確認したくて、幻聴の話なんかしちゃったんだよな。気になってさ……変な噂も聞いてたし。お前に何かあったら嫌だったんだ」
変な噂というのは、『Lucy, close to you』をプレイした人がゲームに取り込まれるというあれだろう。才人は自分の身に起こっていることを考えて、僕のことまで心配になったのだ。だから、幻聴の話をして、僕の様子を探った……。
僕はただ才人の話に聞き入った。何も言うことができなかった。
僕が無言でいると、才人はくすりと笑った。
『今回は森の中からの脱出という感じですね。何だか僕、森の中に行くの多いなあ。建物の中に入れても、それまでは森の中を通っていくことが大半だし。不思議だね。ね』
「……お前のこの声、ほんと、いいよな。本当に……」
才人はしみじみとそう言った。
すると、背後でカチャリという音がした。思わず振り向くと、もう一人才人がいて、扉をくぐって部屋を出て行くところだった。
「才人」
僕は思わずその才人の後を追っていった。背中では相変わらず僕が実況している声と、それにくすくす声を漏らしている才人の声がしていた。
「待って」
才人の後を追って扉をくぐると、その先は見覚えのある病院の風景だった。緑の床と、並んでいる鉄格子のはまった扉。
才人の姿はない。
どこへ行ったのか。僕はきょろきょろしながら足を踏み入れた。
廊下はしんと静まりかえっていて、病室の中にも人の気配はない。扉の横には相変わらずネームプレートがあって、男性の名前が並んでいた。
廊下を進んでいくと、やがて、『栗木才人』と書かれた扉にさしかかった。
僕は格子のはまった覗き窓を覗き込んだ。
中には、誰もいない。便器とベッドと、拘束ベルトがあるだけだ。
「俺は……ここに置いて行かれたんだよな」
背後から声がした。
振り向くと才人が立っていた。顔は笑っていたが、どこか悲しそうなふうに見えた。
「母親がさ、もう……限界だったんだ。あの人に何があったか、俺は覚えてない。ただ、色々あったんだろ。それで、限界になった母親の精神状態が、俺にも影響があったらしくてさ……。俺の言動がおかしくなったらしい。俺にはおかしいなんていう自覚はなかったんだけどさ、そんな俺を見ていて、母親は更に追い詰められちまった。だから俺をここに放り込むしかなかった」
才人はふふっと笑って、ゆっくりと周りを見回した。
「この頃が一番キツかったな……。本当、キツかった。でもここを出られてから、お前をネットで見つけて、俺はお前の声に支えられてた。お前の動画の更新、本っ当に、楽しみだったな」
「才人……」
「……本当に、お前の声には支えられてた」
この声は背後からだった。扉の向こうから。
僕は今度はそちらを向いた。覗き窓の向こうに才人が立っていた。
「……本当に、支えられてたよ、宏衛」
「才人」
僕は思わず扉に手をかけた。するとドアノブが回って、扉が開いた。
その先は、また同じ廊下だった。緑の床、並んでいる覗き窓のある扉。
「才人……」
僕は廊下を進んだ。そしてまた『栗木才人』の名前のある扉の前で立ち止まった。
覗き窓を覗き込むと、中に才人が立っていた。
「お前と仲良くなれて、本当に嬉しかった」
「才人」
僕はもう一度病室の扉を開いた。
するとその先はまた同じ廊下だった。等間隔に並んだ扉も沈黙したまま。
僕は再び廊下を進んだ。そして『栗木才人』の病室の前に立って、覗き窓から中を見た。
しかし、そこにはもう才人はいなかった。
念のためドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。
開くと、また同じ廊下が延びていた。ただし、廊下の奥の方に、才人が立っていた。
その後ろには、手足が長く、黒髪が顔に張り付いた巨大な少女がいた。
――ルーシー。
「才人!」
弾かれたように、僕は走った。
ルーシーが才人に両腕を伸ばす。
「ありがとな、宏衛」
ルーシーの腕が才人を包み込む。
「楽しかった」
「才人!」
僕はめいっぱいに腕を伸ばした。もうすぐ指先が才人に触れる。けれどその瞬間僕の指が触れたのは、固い感触だった。
いつの間にか僕は自分の部屋に戻っていた。目の前にあるのはルーシーの腕でも才人の姿でもなく、部屋と廊下を隔てる扉だった。
「才人……!」
僕は扉を開け、スマホを握ったまま廊下に出た。傘を拾い上げ、玄関から飛び出すと、エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け下りた。
外はまだ雨が降っていた。僕は降り込める雨の中、全速力で走った。雨がはね、傘の下に入り込み、服を濡らす。髪も顔も雨の滴がかかって、冷たく頬を伝っていった。
才人のマンションに着くと、エレベーターで七階へ上り、急いで才人の部屋へ飛びついた。
「才人!」
相変わらず鍵のかかっていない扉。
僕は才人の家の中へ飛び込んだ。
「才人!」
乱暴に靴を脱ぎ、傘を玄関に放り出し、半分濡れた体で部屋の中へ駆け込む。
才人の部屋の中は雑然としている割に、静かで、ひっそりとしていた。人の気配がないせいだった。
才人の姿がない。
「才人! 才人!」
いくら見回しても、どれだけ部屋の中を回っても、才人はいない。
「才人……!」
ふと見ると、ベッドの上にスマホが置かれていた。さっきまでいじっていたらしく、画面はついたままだ。僕はそれを拾い上げた。
画面には、僕とのLINEのやりとりが表示されていた。そして送信されなかった、書きかけのメッセージがあった。
『ありがとう ひろえ』
手が震えた。雨で濡れた手に力が入って、スマホが揺れる。
全身が震えた。脚に力が入らなくなり、僕はその場にうずくまった。
雨に降られた髪の毛が、才人のスマホを濡らす。僕の髪の先から滴る滴が落ちて、画面をつー、つー、と滑っていった。
僕は二つのスマホを握ったまま、声にならない声を漏らした。
才人……。
――いかないで。
行かないでほしかった。
窓の外からはしとしとと降り続ける雨音がしていて、世界に灰色の水のカーテンを掛けていた。