6
6
「ねえおとうさん、おかあさんはどこへ行ったの?」
雨音がする隣で、僕が問う。
すると父は僕の前で少し妙な表情をした。それが一体何という感情を表す表情なのか、小さな僕には分からなかった。だから、おとうさんは変な顔をしている、としか思わなかった。
僕は普段は喋らない子どもだったが、この時はなぜか母の行方が気になって仕方がなかった。
僕を森の中へ置き去りにして去って行く――僕の前からいなくなるのが当然の、そんな母であると分かっていながら。でもそんな母であると分かっているからこそ、家の中から突然いなくなったことが不思議でならなかった。ここは森ではなく、家なのに、と。
雨音以外何も聞こえない家の中で、父は、僕の両肩を包むように掴んだ。
「おかあさんはどこにも行っていないよ」
「じゃあかえってくるの?」
「おかあさんはね、ずっと宏衛のそばにいるんだ」
「いつかえってくる?」
「宏衛、おかあさんは……」
「ぼく、さがしにいってくる」
「そんなことしなくていいんだ、宏衛。おかあさんは、ずっと宏衛のそばにいるんだから」
父が何を言っているのか理解できなかった。そばにいると言うなら、どうして近くにいないのか分からなかった。父は間違ったことを言っている。僕にはそう思えた。
窓の外では雨が降っていて、ぱらぱらという雨音が父の沈黙に重なって聞こえ、ベランダの手すりに雨粒が当たって弾けていた。
手すりに雨粒が当たるその音が、こんこん、こんこん、と響いた。
「おとうさん」
「うん?」
「おかあさんね、さよならって言ったよ」
父はまた僕には理解できない表情をした。
「だから、おかあさんはいなくなったんだよ」
「……宏衛……。……そんなことはないよ」
「いなくなったんだよ」
「そばにいるんだよ、宏衛。見えないかも知れないけど、そばにいるんだ」
「さよならって言ったよ。だから、いなくなったんだよ、おとうさん」
「……宏衛」
「おかあさんがおでかけするなんて、めずらしいね、おとうさん」
と、いう夢を見た。
僕はぼうっと目を開いた。あまりはっきりしない目覚めで、視界がぼんやりしていた。
時間を見ると、いつも目を覚ましている時間よりもだいぶ早い時間だった。通りで意識もあまりはっきりしていないはずだと思った。
僕はもう一度枕に頭を預けて、また暫くぼうっとした。
……夢を見るまで忘れていた。父とこんな会話をしたことを。
けれど、一度思い出せばはっきりと思い出せる。あの時の父の表情は特にはっきりと。それまで見たことのない表情で、変な顔をしていると思ったから、記憶に残ったのだ。今なら、あの時の父の感情を理解できるだろうか。
窓の外では雨が降っていて、雨粒がガラスに当たり、つー、つー、と流れていた。
「よう、宏衛」
帰りの準備をしていると、才人が僕の前に立ってひょいと片手を上げた。
才人はいつもの表情で、にっと僕に笑いかけている。その時あの時の父の顔を思い出した。本当の感情を隠そうとして、けれどそれに失敗している切ない顔。
才人は時々、笑った顔で本心を隠しているように思えることがある。本当は何を考えているのか、それを悟らせないように、あえて笑っている。そんなことが。僕はじっと才人の顔を見つめた。
するとそんな僕の顔がおかしかったのか、才人は笑い声を上げた。
「おい、何だよ? 変な顔してんな」
「変な顔? そうかな」
「そうだ。どうかしたか? ん?」
僕は鞄にノートや筆記用具を詰めながら、苦笑いした。
「なんか……色々あってさ」
「何だよ? 色々って」
「色々ね」
「お袋さんと喧嘩でもしたか?」
僕は笑った。
「そんなのしたことないよ」
「じゃあ何だよ?」
「ちょっとね」
「気になる言い方だな? 何だよ、何かあれば言えよ?」
「ありがとう」
僕は立ち上がって鞄を肩にかけた。すると才人は僕の肩を叩いた。
「マジで変な顔してんな。何だよ、何かあったんだろ?」
「別に……。たいしたことじゃないんだけどさ」
「お、何だ。聞くぜ」
「ちょっと昔の夢をね」
「お前、ついこの間もそんなようなこと言ってなかったか?」
「うん、言ったかも」
「深刻な夢か?」
「いや、そこまでは」
僕は肩をすくめると、才人と共に教室を出た。
「最近多いんだ。昔の夢を見ること……」
「嫌なことか?」
「嫌……。嫌と言うより、何だろう……。どう思ったらいいのか分からないな」
才人は僕の横顔をじっと見て、何か考えているようだった。そしてにっと笑って、僕の肩に手を置いた。
「昔何があったか分からないけどさ、あんまりため込むなよ?」
「ありがとう」
僕も微笑み返す。
「悩むなよー? 宏衛」
「優しいね」
「ああ、そうだ。俺は優しいんだよ」
「自分で言うの? それ」
僕はくすくす笑った。
「才人はどうなの?」
「どうって? 俺か? 俺は別に悩みなんてねえよ」
「えー、本当?」
「本当だ。むしろお前だろ、お前何かあったら悩みそうだもんなー」
「酷いなあ。そんなに深刻になるタイプじゃないよ」
「でも昔の夢を見て、どう思ったらいいのか分からないんだろ。それって悩んでるってことじゃないのか」
「悩んでる……ってことなのかな」
僕がぼんやりとした調子で言うと、才人はおかしそうに笑った。
「お前、自覚なしか?」
「自覚ないかも」
僕もつられて笑う。
「自覚ないのは深刻だなー」
「でも本当に、悩んでるって感じじゃないよ」
「そうかあ?」
そこでエレベーターに到着して、ボタンを押してゴンドラを呼んだ。ゴンドラはすぐに来たので、それに乗って一階へ向かった。
「お前さ」
ゴンドラの中で、才人がぼそっと声をかけてきた。
「なに?」
「最近変なことよく言うよな」
僕はそれに一瞬黙り込むと、ふふっと息を漏らして苦笑いした。
「そうかも」
「どうかしたのか? 昔のことを思い出すとか何とか言うし、時々おかしくなるし。やっぱり何かあったんじゃないか?」
「何か……っていうほど重大なことじゃないよ。て言うか、いきなり妙なこと言い出すのは才人も一緒でしょ」
「俺が? 何か言ったか」
「覚えてない? ファミレスでさ、幻聴が聞こえるって言い出したんだよ」
「ああ……あれか。別に意味なんてないよ」
「そう? いきなりどうしたのかと思ったけど」
「何だよ、そんな些細なこと気にしてんのかよ」
「うん。いまだに気にしてる」
「お前どんだけだよ」
才人は肘で僕を小突いた。
「別に意味ねえよ」
「僕に何か言いたいことがあって、そんなこと言い出したのかと思ってた」
「ああ、まあ、でも別にいいよ」
「え? じゃあやっぱり何かあったんだ」
その時一階に着いたので、僕達はエレベーターを降りた。
「あったけど、別にいい。特に重要な話でもないしな」
「なに? 言ってよ」
「いいよ別に」
「気になるじゃん。言って」
「たいしたことじゃないって」
「言ってよ」
食い下がると、才人はにやっと笑って、僕の両頬をつまんだ。
「たいしたことじゃねーよー」
「ちょっと、何するの」
僕は思わず笑って、さっと才人の手を払った。
才人はまだ笑ったまま、今度は僕の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。
「ちょっと才人」
「気にしすぎだってのー」
「やめてよ」と言って、やっと才人の手から逃れる。
才人はからから笑っていた。
「気にすんなよ、マジで。たいしたことないんだから」
「そこまで言われると逆に気になるな」
「気にすんなよー」と言って、また手を伸ばしてくる。
「ちょっと、もうやめて」
笑いながらよけると、才人も楽しそうに笑った。
そして一通り笑うと、才人はふうと息をついて、にっと笑った。
「ところでさ」
「なに?」
「お前さ、俺に、先進めるなって言っただろ。『Lucy, close to you』」
「ああ……うん」
「お前は?」
「僕?」
「お前は進めるのか?」
「え? うん……そうだな」
僕は考え込んだ。
僕は進んでしまった。『みんなそこまでは進める』というところまで。だから、今後何か起こるかも知れない。先をプレイすれば、確実に何か起こる、そんな予感もする。だから、この先をプレイするべきかどうか分からないのが本心だった。
「分からないな……」
僕は正直に言った。
「俺はさあ、宏衛」
「うん?」
「実は、お前にも進めてほしくないんだよな」
「え?」
思いも寄らない話だった。
「どうして?」
「なんか……なんかさ」
才人は妙な笑顔のまま言いよどんで、それからにやっと笑った。
「うまく言えねえわ」
「どうして僕に進めてほしくないの?」
「うまく言えない」
「それは……その」
つまり、才人も『Lucy, close to you』に何かを感じ取っているのではないか。そんな予感がし、僕は内心ざわざわした。
「あのゲームが、何かおかしいって……才人もそう思うってこと?」
「俺もって? ああ、お前、あのゲームの噂知ってるんだ」
「噂?」
「あれ? 知らないのか?」
「うん。知らない」
「まあ……こんなの鵜呑みにするのもおかしいけどさ。あれを作ったメンバー、全員行方不明らしいぞ」
「……行方不明?」
聞いたことのない話だった。
と言うより、僕は今まで、あのゲームを作った人間のことを全く考えたこともなかった。
言われてみればそうだ。あれが存在するということは、あのゲームを作った人間がいるということだ。当然の話だ。初めてそれに気付いて、何だか新鮮な驚きを感じた。
しかし、その人間達が行方不明とは、一体どういうことなのだろう。
「それ……本当?」
「さあ。何しろネットの噂だからな」
と言って才人は肩をすくめた。
「才人はどう思うの?」
「どうって?」
「その噂、本当だと思う?」
「さあ。どうだかな。一人なら分かるけど、全員行方不明なんて考えられないし。所詮噂って感じかな」
才人はあまり本気にしていないような様子でそう言った。
でも僕は気になった。このゲームをプレイした実況者達の消息が分からないことを考えると、何だか無関係とは思えなかった。
「他には、何か知らない? ルーシーに関する噂……たとえばさ、ほら、あれをプレイすると何か起こるとか」
「何か起こる? うーん、そうだな」
才人は考え込んで、ああ、と呟いた。
「そう言えばさ、……お前、ゲームの実況動画とか見るか?」
「うん……まあ、たまに」
「『Lucy, close to you』のプレイ動画、ほとんどの実況者が更新止まってるんだってさ。だからか知らないけど、あれをプレイするとゲームに取り込まれるって噂が広がってるらしい」
「ゲームに取り込まれる……?」
「まあ実況者がみんな妙なこと言って更新止まってるもんだから、それで視聴者がおもしろがってそんな噂広めてるんだろうけど」
そういう実況動画なら僕も見た。僕はやや身を乗り出すようにして、才人の顔を覗き込んだ。
「ねえ、その実況者達、どうなったの?」
「知らねえよ。でも更新が止まってるのは事実みたいだな」
僕は言うべきか迷って、改めて才人を見た。
「あのさ……才人」
「うん?」
「僕も、『Lucy, close to you』、おかしいと思うんだ」
「おかしいって?」
「僕も見てみたんだよ、『Lucy, close to you』の実況動画。そうしたら確かに、みんなおかしなことを言ってた。さみしいって聞こえる、おかしなことが起こってる、って」
「それで?」
「才人、隠さずに教えてほしいんだ。才人はあれをプレイしてから、何も起こってないの?」
今度は才人がまじまじと僕の顔を見た。僕の真意を探るようでもあったし、何か別のことを考えているようでもあった。
暫くそんなふうに僕の顔を見てから、才人は急に吹き出した。
「何だよ、そんなこと訊いて」
「才人もバグがあるって言ってたよね。本当に、それはバグなの?」
「どういうことだよ?」
「どんなバグ?」
「どんな? そうだな……」
才人は明後日の方を見て考え込んでいた。そして、にやっと笑った。
「まあ、いいじゃん。バグはバグだろ」
「幻聴があるって言ったのは?」
「だから、それは気にするなって」
僕は真剣な顔をして才人を見た。
「ねえ、才人」
「何だよ?」
「変な夢を見ない?」
「変な夢?」
「そう。何というか、まるで……『Lucy, close to you』の世界に入ったような、変な夢」
「何でそんなこと訊くんだよ?」
「僕は見るから」
才人は僕をからかうように笑った。
「お前、ゲームのやり過ぎなんだよ」
「才人。大事な話なんだよ」
才人は笑顔のまま肩をすくめると、ふいふいと首を振った。
「どうしたんだよ、お前。あのゲームに何があるって?」
「でも才人、あれをプレイすると、ゲームに取り込まれるって……」
「おいおい、噂だろ? 何だよ、真に受けたのか?」
「うん、真に受けた」
「お前って純真だなー」
「何だか、それって本当のことなんじゃないかって感じがしない?」
「どうってことでもないだろ。噂なんだし」
「それは本当にただの噂なのかな? ねえ才人、もし何かあったら……」
「何もない」
才人はにやっと笑った。
「あるわけないだろ」
「本当に?」
「ないと思うぜ。第一、現実的じゃないだろ。ゲームに取り込まれるなんて」
「まあ……そうだけど」
「あんまり気にすんなよ。今は昔の夢を見るだのなんだのって、そのことも気にしてんだからさ。俺はそっちの方が心配だぜ」
「そっちの方がって……」
僕はそう言ってから、才人を見ながらふうとため息をついた。何だか、このまま話していても平行線のような気がした。
僕が黙ったので、才人は僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「お前、マジで変なことばっか気にすんなよ? ゲームがどうとかじゃなく、自分のことも大事だぜ」
「ああ……そうだね」
「そうだ」
才人はにやっと笑った。
校舎を出ると、やや大粒の雨が降っていた。傘をさすと雨の重さがかかってきて、少し重たく感じた。
校門での別れ際、才人はもう一度僕をつつくように小突いた。
「マジで、何かあったら言うんだぜ」
「ありがとう。言うことにする」
「そうしろ」
「才人も何かあったら言ってきていいんだからね」
「なんかこの会話、女子みたいだな」
「ほんとだ」
僕達は笑い合って、それぞれの方向へ別れた。
僕は家へ帰ると、夕食を作る前に『Lucy, close to you』のパッケージを取り出した。それを持って、椅子に座る。
……今まで思いも寄らなかった。これを作った人たちがいるということに。
才人の話によると、全員行方不明になっているという噂があるらしい。これをプレイした実況者達のネット上の消息が不明なのと、どうしても無関係という感じがしない。
僕はパッケージの裏に書いてある、制作者の名前らしいものを見た。
――『Project fragile』。
これを調べれば、何か情報が出てくるかも知れない。全員が行方不明という噂に関する話も。
僕はパソコンを立ち上げた。
検索サイトで検索をかける前に、念のためYouTubeに行ってみることにした。僕の動画に、このゲームに関する新しい噂話がコメントされているかも知れない。
そしてYouTubeのトップページに行くと、おすすめの動画が一番上に列挙されていた。僕は最初気にしなかったのだが、ふと視界に見覚えのある名前があって、はっとその動画のサムネイルを見た。
チャンネル名は『ルーシー』。
動画のタイトルは、『【紹介動画】Lucy, close to you【デモ】』。
そうか、『Lucy, close to you』の実況動画を沢山見たから、それで関連動画としてこれが出てきたのか。まだ再生回数は数百回くらいだ。チャンネル登録者も三百人くらいで小規模だし、あまりにも隅っこの動画だから、先日の検索に引っかからなかったのかも知れない。
しかし、普通の実況動画ではなく紹介動画で、しかもデモとは、どういうことなのだろう……?
僕はやや震える手で、その動画をクリックした。
すると最初に表示されたのは、いつも見ている『Lucy, close to you』のスタート画面。オルゴールのBGMも同じだ。そのオルゴールの音に重なって、この動画の制作者の声がした。
『皆さん初めまして、ルーシーです』
女の子の声だった。
しかも聞き覚えがある。
――さみしいの。
そう訴えてくる、あの女の子。あの子と声がそっくりだ。
名前が『ルーシー』で、こんなにも声が似ている。そんなことが、偶然あるものなのだろうか?
心臓がどきどきする。緊張に息が細くなった。
『いつもは歌を歌っているんですけど、今回は初めて、ゲームの実況に挑戦してみようと思います』
聞けば聞くほど、あの女の子と声が似ている。と言うより、同じだと言っても差し支えないくらいだ。
『ルーシー』は、ちょっとくすっと笑って、先を続けた。
『ゲームの名前は、『Lucy, close to you』です。私のお姉ちゃんがインディーズでゲームを作っていて、それに私も参加させてもらったんです。それで、今回デモができたので、私のチャンネルでもご紹介させていただこうと思って、こんな形にしました。ホラーゲームなんですけど、まだこれはデモなので、そんなに怖くないと思います。それでは、始めていきまーす』
と言って、ゲームをスタートさせる。
すると、ゲームのスタート地点は森の中ではなかった。写真の沢山飾ってある、あの広い部屋だ。
『ルーシー』はちょっと部屋の中を見回すと、扉を開けて写真の部屋を出た。
その先は食堂だった。
沢山並んだテーブル、食器のワゴン、カウンター……。
そこを進むと、僕がプレイしたときにルーシーが出てきた扉から、食堂を出た。
扉の先は廊下だった。左右に扉や曲がり角が沢山あり、迷路のような構造をしている。
『ルーシー』は廊下をまっすぐに突っ切った。そして突き当たりで左折し、更に行く。すると開けた場所に出た。
そこはダンスホールだった。
天井がドーム状で、ガラス張り。所々割れていて、その隙間から雨が滴り落ちてきているのが分かる。
壁際にはソファがいくつかあり、奥には扉が二枚。メインの出入り口だろう大きな扉と、給仕が出入りするためらしい小さな扉。
『ルーシー』はメインの大きな扉の方へ行った。
ダンスホールを出たところはまた廊下だった。ただし広くて、左右の壁はガラス窓になっており、両側の部屋の様子がよく見えるようになっている。
両側の部屋は、どうやら大部屋の病室だ。いくつもベッドが並んでいるが、ベッドにはマットもカーテンもなく、骨組みだけのようだ。
突き当たりには扉があった。
『ルーシー』がその扉をくぐると、その先は礼拝堂だった。ベンチが並んでいる。礼拝堂の奥には扉があった。
『ルーシー』は礼拝堂の奥の扉を開けた。短い廊下には扉が三枚並んでいて、『ルーシー』はその内の一番奥の扉を開けた。
そこは懺悔室だった。椅子があり、罪を告白するための小窓がある。
そこに『ルーシー』が足を踏み入れたら、場面が変わった。
そこは森だった。
雨が降っている、夜の森だ。
しとしとと雨の降る音がしている。
道らしいものが通っているが、どうやら切り通しのようだった。
進んでいくと、遠くの方に家が見えた。
『Lucy, close to you』のスタート画面のあの家屋だ。
『ルーシー』は家の前に立った。
立派な家だが、家のどの部屋にも明かりは点いておらず、無人のようだ。
『ルーシー』は暫く家の扉を眺めると、それを開けた。
すると、そこは病室だった。
奥の方に窓があり、雨が当たって水滴が流れている。その窓の真下にベッドがあり、ベッド脇にはドレッサー。そして、部屋の真ん中で、あの女の子がこちらに背を向けてうずくまっていた。黒髪をした、まだ十歳かそのくらいの、あの女の子。
女の子はクレヨンを手に握っている。床に絵を描いているのだ。
『ルーシー』はそっとその女の子に近付いていった。
すると、女の子は絵を描き続けながら、こちらに体を向けた。そして顔を上げ、こちらのほうを見た。
無表情にこちらを見つめてくる。
女の子はクレヨンを握ったまま、ぽつんと口を開いた。
『……さみしいの』
やはり、あの言葉だった。
『このさみしさをどうしていいのか、分からないの。それはあなたもいっしょでしょ?』
そして、女の子はすっとこちらを指さしてきた。
いつものように。あの家族写真や、ロケットペンダントの写真の少女のように。
『うしろ』
女の子は言った。『ルーシー』と、全く同じ声で。
そこで画面は暗転し、スタート画面に戻ってきた。天気雨の降る花畑の向こうに、あの家屋が見えている画面だ。
スタート画面に戻ってくると、『ルーシー』が照れたようにくすくす笑うのが聞こえた。
『何だか恥ずかしいなー。あの女の子の声、私があてたんです。さて、これはデモ版なので、マップも部屋の配置もめちゃくちゃです。ちゃんとした製品版にはきちんと敵が出てくるんですけど、これには出てきませんでした。実は、まだ敵のグラフィックも制作中だからなんです。まだまだ制作途中なこのゲームですが、完成したらきっとおもしろいゲームになると思いますので、皆さん期待して待っていてください。……私も、歌の動画をもっと頑張ってあげていかないと。それでは、初めて歌声以外の声を晒しましたが、私も出演しているこのゲーム、ぜひぜひよろしくお願いしますね。それでは、ルーシーでした。ありがとうございました。またねー』
動画はそこで終わった。
僕は呆然としていた。
今の動画の、マップ。
あれは、僕が実況中に見た、あの現実のような夢……あれと同じ順序、同じ配置ではなかったか。
写真の部屋、食堂、廊下、ダンスホール、両側に病室のある廊下、礼拝堂、懺悔室、雨の森、家屋、最後の病室。
同じだ。全く同じ。
あの時は実況を撮ろうとしたものの、スタート画面しか録画されておらず、代わりに僕は奇妙な夢を見た。
――さみしいの。
――あなたもいっしょでしょ?
――うしろ。
あの女の子が病室にいたのも、口にした言葉も、全て同じだ。
同じ、なのだ……。
これは一体どう考えたらいいのだろう。
僕は呆然としながらも、『ルーシー』のチャンネルをクリックしてみた。
投稿されている動画は、どれも童謡や唱歌、クラシックの歌曲を歌ったもののようだ。ボーカロイドや、流行の曲を歌ったような、いわゆる『歌ってみた』の動画ではない。だからあまり動画やチャンネルを見る人がいないのかも知れない。
チャンネルの説明欄には、こうあった。
『初めまして、ルーシーです。
このチャンネルでは、私ルーシーが気ままに歌ってみた動画をアップしています。
ボカロ曲や流行のポップスもいいけれど、昔の曲もとってもいいものです。
皆さんにも、そういう曲の良さが少しでも伝わるように、頑張っていきます。
よろしくお願いします♪』
歌が専門のチャンネルであることは間違いないようだ。今の『Lucy, close to you』のデモ版実況でも声を聞いていて分かったが、確かに澄んだ綺麗な声をしている。
僕は投稿されている動画のうち、一つをクリックしてみた。流れてきたのは『グリーンスリーヴス』で、澄んだ声がとても似合っていた。
僕はそれを聞きながら考えた。
『ルーシー』……。
この人は、『Lucy, close to you』を作った人間の、妹……。
噂では、ゲームの制作者、『Project fragile』の人間は全員行方不明だという。では、この人は?
最後に動画が投稿されたのは、今から二月前だ。元々あまり更新頻度の高い方ではなかったらしく、これだけでは現在消息不明になっているのかどうかは分からない。
逆に、『Lucy, close to you』のデモ版を実況した動画は、八ヶ月に投稿されている。
そして『Lucy, close to you』が発売されたのは、二月前。『ルーシー』の最終更新と大体同時期だ。これも何か関係があるのだろうか?
――この人と連絡が取れないだろうか?
唐突にそんな考えが浮かんだ。
『Project fragile』と連絡を取るのが先か、それとも『ルーシー』と連絡を取るのが先か。
どちらを先にした方がいいのか判断がつかなくて、僕は迷った。
動画投稿者と連絡を取り合うには、動画やチャンネルにコメントを書き込む以外に、パーソナルメッセージというものがある。メールのようなもので、個人的な用件を相手に送れる。コメントと違ってどこにも公開されないので、本当にパーソナルな用件の時に向いている。
連絡をしてみて……反応があるだろうか?
現状、まだ分からなかった。それに相手が僕のことを知っている可能性はあまりないような気がする。僕はゲーム実況者で、『ルーシー』はいわゆる歌い手だ。作っている動画のジャンルが全く違う。それなのにいきなりパーソナルメッセージを送ったら、不審がられて何の反応ももらえないかも知れない。
僕は悩んだ。
それに、何と言ってメッセージを送ればいいのかも分からない。それは『Project fragile』に対しても同じだ。
僕は両肘をついて、額を覆った。
その時だった。
「……見つけてくれた……」
あの女の子の声が背後から聞こえた。僕ははっとして後ろを向いた。
僕の後ろに、あの女の子が立っていた。何か訴えるような悲しげな顔をして、じっと僕のことを見ている。
「見つけてくれた……私のこと……」
「君は……」
僕は椅子を回して、きちんと女の子の方を見た。
「君は、『ルーシー』……なの? それとも……『ルーシー』とは別の存在なの?」
「あなたに見つけてもらえて……嬉しい……」
僕に……。
それは一体どういうことなのだろうか。
この子は、僕に対して何か特別な思い入れでもあるのだろうか。もしそうなら、それはどうしてなのだろう。
しかし、『ルーシー』の動画を見たことが、この子の言う「見つけた」ことになるのなら、この子は本当に『ルーシー』なのかも知れない。
『ルーシー』が声を吹き込んだ、女の子……。
僕は慎重になって訊いた。
「君は、一体何者なの……?」
女の子は暫く何も言わなかった。
「私……さみしいの……。私は置いて行かれてしまった……。まだ、一緒にいてほしかったのに、置いて行かれてしまった……」
僕の質問には答えてくれなかったが、何だか質問を繰り返すよりも、この子の話に付き合った方がいいような気がした。
僕は頷いた。
「うん……それで?」
「一緒にいてほしかった……。一緒にいて、私のさみしさを、助けてほしかった……」
「……うん」
「でも……私のさみしさは、他の人のさみしさも引き寄せてしまった……」
「引き寄せた?」
「……あなたの……さみしさも……」
女の子がそう言うと、何かぱりぱりという音がした。僕ははっとして足下を見た。
床が、朽ちた床に変わっていく。あの『Lucy, close to you』の床に。
僕は思わず立ち上がった。
『Lucy, close to you』は床だけではなく壁や部屋全体まで飲み込んで、どこか広い部屋へと僕を連れて行った。
何もない部屋だ。全体が灰色で、とても寒く感じる。
唯一あるのは奥の窓くらいで、そこに雨が当たって水が流れていた。ぱらぱらと雨の降る音が聞こえている。
「あなたのさみしさの……原因も……」
雨音の中で、女の子が言う。
「さみしいの……お願い、助けて……」
「僕は、どうすればいい? どうすれば君を助けられる?」
「さみしさが……私の中に入ってくるの……お願い、助けて……このさみしさから……助けて」
と言って、女の子は姿を消した。
「待って!」
僕はもういないその虚空に手を伸ばした。しかし再びあの子が現れることもなく、雨の音だけが聞こえていた。
僕は息をついて辺りを見回した。すると背後に扉があった。
ここを開けたら、何が起こるか分からない。けれど僕はそっとドアノブに手をかけて、少しずつ扉を開いた。
すると、目の前を誰かが通り過ぎた。
扉の薄い隙間から見えただけなので、一瞬誰だか分からなかった。けれどどこか見覚えのあるそのシルエットにはっとして、僕は扉から出た。
扉の先は、同じような扉の並ぶ廊下だった。左右に通路が延びていて、両側の突き当たりにも扉がある。
僕は左を見た。そこに、今通り過ぎていった人が歩いているのが見えた。
明るい赤茶色の髪、高い背丈。間違いない。才人だった。
「才人!」
僕は声を上げ、才人に追いつこうとした。けれど才人はこちらを振り向かず、聞こえていないかのように歩き続ける。そして僕の手がその肩に触れる寸前に、突き当たりの扉を通っていってしまった。
「才人!」
僕もそのドアノブを握って、扉をくぐった。
その先も全く同じ廊下だった。左右に扉が並び、突き当たりにも扉がある。才人は既にかなり奥の方を歩いていて、走っても追いつけるかどうか、分からないくらいだった。
「才人!」
僕は走った。けれど追いつけずに、才人は再び突き当たりの扉を通って姿を消した。
僕も才人の後を追って扉をくぐった。
その先も同じような廊下だった。奥の方に才人の後ろ姿があり、走っても追いつけない距離を歩いている。
それでも僕は走り、才人の背に手を伸ばした。しかしやはり才人は突き当たりの扉をくぐって姿を消してしまった。僕はもう一度ドアノブを掴んで扉をくぐった。
その先も同じ廊下だった。才人がずっと向こうを歩いているのも同じ。
――これは。
無限に続く廊下。絶対に追いつけない背中。
どうなっているのか。
「……もうすぐなの」
どこからともなく、あの女の子の声がした。
「もうすぐ、あの人もこちらへ来るの……。あの人のさみしさも、私と一緒になるの……」
「一緒になる……?」
「もうすぐなの……もうすぐあの人も、こちらへ来る……」
そこで女の子の声は聞こえなくなった。才人は突き当たりの扉をくぐってしまって、いなくなった。
僕はぐっと奥歯をかみしめた。そして今一度、突き当たりの扉へと駆け寄った。
ドアノブに手を当て、扉を開く。
そしてその先は、僕の部屋だった。
ベッドと机とソファだけがある、モデルルームのような部屋。
……戻って、来たのか。
けれど安心することはできなかった。あの子の言ったことが気になる。
もうすぐ、こちらへ来る。
才人がもうすぐ、あの子のところへ行く。
僕は急いで鞄からスマホを取り出した。
いつもは才人の方から下らないLINEが来ているのだが、今日はまだ才人からの連絡はなかった。僕は焦る指先をなだめながら、才人へLINEを送った。
『才人、今いい?』
それに対する返事は暫くなくて、待っている時間が相当に長く感じた。
『どうした?』
ようやく返事があった。僕はまだ焦る指を震わせて、文字を打った。
『何してるのかなーと思って』
『お前、それ訊くの好きだなー笑』
『で、何してたの?』
『寝てたよ』
『この時間に?』
『寝落ちだよ。最近多いって言っただろ』
心臓が緊張するのを感じる。その眠りは、本当にただの眠りなのかと。
『何か夢見た?』
『あー、変な夢見た』
『どんな?』
『同じような廊下をずーっと歩き続ける夢。意味わかんねーよな笑』
『その廊下を歩いて、どこに行くつもりだったの?』
『さあ』
『分からないの?』
『夢だしなあ笑』
……夢。
その夢は、本当に夢だったのか?
でもどこかのほほんとしているような才人を更に追究することもできず、僕はそれ以上何も訊くことができなかった。
『変な夢見たら、気を付けてよね』
ただ、それだけを言った。
『何だよそれ。心理学科の忠告ってやつか?笑』
『そんなとこ』
『分かったよ。じゃあなー』
『うん、じゃあ』
LINEはそこで終わってしまった。
僕はスマホを握ったまま、天井を仰ぎ見た。
――もうすぐあの人も、こちらへ来る。
才人が、行ってしまう?
行ってしまったら、どうなってしまう?
ゲームに取り込まれるという噂。
その噂は、本当かも知れない。だったら、才人は、どうなってしまう?
僕には分からなかった。何も予想することができず、ただ、じっと天井を見つめた。
机の上では、パソコンがYouTubeを表示したままになっている。
僕はそれを見ると、椅子に座った。キーボードに手を触れて、カチャカチャとそれを打った。
そして白い画面に表示された、短い言葉。
『あなたは、誰?』
『ルーシー』のチャンネルへのパーソナルメッセージだった。
しかし僕はそれを送信せずに、ただじっとその言葉を見つめ続けていた。心の中で問い続けるように、ずっと。