5
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『えなこ
うp待ってた!』
『tatamana
ろえさんまで失踪したかとw』
『みなー
今回短い。もっと長くしてほしいなー』
『Team killing
うぽつ』
『あるくちゃんねる
ろえさんには最後までいってほしい』
『駅巡り
謎の少女……! これからが楽しみ!』
『Uuna
まだそんなに怖くないですね。頑張ってください!』
『鈴木すず
この声のために生きてる!』
『みーた
大体みんなここまでは進むんだよなー。ここから更新が止まる人が多いから、ろえさんがんばれ』
ここ数日更新をしていなかったので、ようやく動画をアップした。するとすぐに反応があって、早速沢山のコメントがついていた。
どうやら『Lucy, close to you』をプレイしている他の実況者達は、途中で更新が止まる人が多いらしく、僕の動画に期待している人もいるようだ。
中でも気になるコメントが、『ここから更新が止まる人が多いから』。
つまり、これから何かが起こるということになるのではないか。以前のコメントでは『怖すぎて更新が止まる人が多い』という話だったが、おかしな夢や幻覚が起こっている今、更新が止まるのは恐怖のせいではないのではないかという予感がした。
ゲームが侵食してきているかのような、夢や幻覚。
もしその中でルーシーにつかまったらどうなるのか。もし現実に戻ってこられなくなったらどうなるのか。
今のところは短時間巻き込まれているだけで済んでいるが、今後このゲームが、僕にどう関わってくるのかは全く予想がつかない。
僕はコメントを見ながら、考えた。
もし……もし、これから何か起こったら。
そうしたら僕は、どうなってしまうのだろう?
暗い部屋の中、僕は机に突っ伏すようにして、じっとパソコンの画面を見つめていた。
そこには、『Lucy, close to you』のスタート画面。
録画はしていない。ただゲームを立ち上げて、その画面をじっと見つめているだけだ。明るいスタート画面に、オルゴールの静かなBGMが聞こえている。窓の外からはしとしとという雨音がしていて、まるでオルゴールと一緒に『Lucy, close to you』の世界を奏でているかのようだ。
スタート画面を見ながら、僕はふっと目を閉じた。まぶたの裏に残像が残る。
……このゲームを、続けるべきなのか。
分からなかった。
僕は目を開くと、傍らのスマホを手に取った。そこには母親からのメールが表示されたままになっていた。
『ひろえくん。
元気にしていますか。変わりありませんか。
こちらはよい天気がつづいていますよ。公園を散歩していたら、とても気持ちがよかったです。
一人でいてさみしくなったら、いつでも電話してくださいね。』
温かな笑顔が見えるような、優しい内容。穏やかな日常を象徴しているかのような、柔らかな言葉遣い。
このメールをくれるのは、いい母親だ。とても優しく、温かく接してくれる、いい母親。けれど、記憶に残っている母、夢に見る母は、無表情で、あまり話さず、ただぼんやりと暗い顔をしている。怒らない母だったが、笑いもしない母だった。
僕も昔、そうした子どもだった。無表情で、言葉を発さず、一人で暗い顔をしている。両親の寝室にあるアルバムの中には、そういう僕の姿が写り込んでいる。幼稚園の先生が何か病気があるんじゃないかと疑うほど、僕は他の子どもとは違った性質を持っていた。一人でいて、孤独を守る、という。それに食も細かったので、ほとんど食べるということをしなかった。そういうところも、僕を他の子と少し違った子だというふうに見せていたのかも知れない。
母は、そんな僕のことをどう考えていたのだろう。森の中に僕を連れて行った、母は。
でも僕は、母にとって僕がどういう存在であるかということは訊いたことがない。これからも訊くことはできない。訊きたいと思ったこともなかった。だって、僕と母との関係とは、そういうものだったからだ。
言葉を交わすこともなく、森の中に置いてくるということもまるでなかったことのように黙っていて、視線も合わない。それを当然のこととしていた。
僕はメールの返信ボタンをタップして、返事を書いた。
『いつもありがとう。元気だよ。こっちは雨続き。母さんこそ電話してきていいからね。』……。
返事を書いて、ため息が出た。机に突っ伏し、送信を押さずに、消した。
いい母親。優しい母親。
無言の母。暗い母。
どちらも僕にとっては真実の母親だ。どちらが本当の母親ということはない。だから返事を書いたなら、普通に送ればいい。でも僕は、この母親に対して、本当はどうしたらいいのか困っている。
分からないのだ。優しい母親というものにどう対応したらいいのか、僕は学習していないから。
オルゴールのBGMと、雨の音がしている。
静かな、綺麗な音。
ただのゲームだと思っていた。けれど今、これはただのゲームではないことを、僕に示して始めている。
――さみしいの。
――それはあなたもいっしょでしょ?
――だから……あなたにも分かるはずなのに……。
――あなたに……助けてほしい。
あの少女は僕に何か訴えようとしている。いや、何か分からせようとしている。そんな気がする。ただのゲームの登場人物であるという以上に、何か一つの意思を持った存在として、僕に語りかけてきている気がする。
他の実況者達も、もしかしたら同じようにゲームから何らかの影響を受けていたのではないか。夢とも幻覚とも分からないゲームの中に入り込み、あの少女の言葉を聞いたのではないか。
――『ここから更新が止まる人が多いから』。
僕は体を起こした。
なぜ更新が止まるのか。
やはり、何かあったのではないか。
もしそうなら、何らかの痕跡が残っているかも知れない。
ゲームを閉じ、ブラウザを開く。僕の活動場所である、YouTubeへと飛んだ。
今自分が実況しているゲームの動画を見るのは、僕はしたことがない。他の実況者だって、大抵自分がプレイし終わるまで、他の実況者のプレイ動画は見ないのが普通だろう。でも今はそれが必要なことのような気がした。
他の人は、このゲームを普通にプレイしているのか。それとも……。
僕は『Lucy, close to you』を検索し、動画を探した。自分で上げた動画も出てきたが、他にもプレイしている人がいた。ぱっと見て見つけられたのは三人。
……見るべきか。
――見よう。
僕は一人目の実況者のプレイ動画をクリックした。
動画の説明欄に『かなりビビりです』と書いてあったが、その通り、最初の森の時点からかなりおっかなびっくり進んでいる。やがて病院に到着し、待合室の受付からランプを取る。
僕の場合はここで、初めて少女が『さみしい』と言うのを聞いた。
けれどこの動画では、実況している人がそれを聞いた様子はない。その後写真の部屋へ通じる廊下でルーシーと初めて遭遇し、対応できなくてゲームオーバーになっていた。画面が暗転し、雨音がする。そこに『コンティニュー』『タイトルへ』の選択肢が表示される。この人は恐怖で荒い息をつきながら、『コンテニュー』を選んで再挑戦していた。
その後も、この人がびくびくしながらプレイする様子が流れ続けていた。怖がっているからだろう、僕よりも探索はしていない。
二階に行き、空中庭園に出たところで、この人は不意にびっくりしたような叫び声を上げた。でも、別に驚くようなことは何も起こっていない。
きょろきょろと雨の降る庭園を見回して、『ああ……なに? 怖いよ……やめてよ』と呟いている。
僕は思わず身を乗り出した。
僕には何も聞こえなかった。けれど、多分間違いない。この人には何かが聞こえたのだ。
この人は更にびくびくしながら空中庭園を進んで、迷路の廊下へ来た。その時だった。
『さみしいさみしい言うのがずっと聞こえてるんだけど……。こわいよ』
――さみしい。
やはりそうだ。聞こえているのだ、この人には。
この動画は、迷路の廊下で再びルーシーと遭遇し、ゲームオーバーになったところで終わっていた。
続きが投稿されていたので、それも見てみる。
次の動画では、ひたすらに迷路の廊下をうろうろし、ルーシーと遭遇してはゲームオーバーになるのを繰り返していた。どうやらこの廊下は序盤の難所だったらしい。僕はあっという間に抜けてしまったのだが、僕の場合は運がよかったようだ。
そうしてコンティニューを繰り返していると、突然、動きが止まった。
そうして静止すること三分、ようやく動きがあった。
『ううぅ……こわいよ……。今ね、今ね、信じてくれないかも知れないけどね、後ろからね、ルーシーの音がしたの……。ゲームの音じゃなくてね、本当に、後ろから……。ちょっとこわい。こわすぎる……。今回はここまででいいですか?』
半分泣きながらそう言って、そこでセーブし、スタート画面に戻ってきて挨拶をしたところで、動画が終わっている。
続きを探してみたが、投稿されていなかった。ここで更新が止まっているようだ。
今見た動画の日付を確認してみると、投稿から三週間は経っていた。一つ目の動画と今の動画とで三日しか間隔が開いていないから、かなりの間放置していると言っていいだろう。
僕は二人目の実況者、三人目の実況者と、『Lucy, close to you』の動画を見た。
いずれも、三パートくらいで食堂を抜け、落書きのされた廊下へ到達している。そこに暖炉で拾った鍵を絵の鍵穴へ使い、少女のイベントを見るところまでは一緒だ。その後、動画の締めで喋っていることが僕の気を引いた。
二人目は、『ちょっと最近怪現象が起こってるんですよねー。これを集中してやり過ぎてるからかな?』と笑って終わり、三人目は、『次投稿できるか分からないです。ちょっと問題があって……』と断りを入れて終わっている。そして二人とも、ここ数週間全く動画を投稿していないし、コメントにも反応していない。
少女のイベントを見るところまでは進めている。だが、そこから先が投稿されていない。
僕はもっと他に動画がないか探してみた。すると他にも数人『Lucy, close to you』を実況している人が見つかった。だが、どんなに進んでいても少女のイベントを見るところまでで動画が終わり、以降一切動画の投稿がない。しかも全員、『さみしいって聞こえる』『おかしなことが起こっている』といったことを言っている。
僕は唇に手を当てて考え込んだ。
他の動画投稿サイトを見てみれば、もっと多くの動画が見つかるかも知れない。けれど、僕はもうこれだけで充分だと思った。
何かある。
このゲームをプレイした人たちには、何かが起こっているのだ。
プレイ中に聞こえる『さみしい』という幻聴。何かは明言していないが、何かが起こっているというせりふ。僕が今経験していることと、おそらく同じだ。
この人達にも、ゲームの中に入ったような幻覚があったのかも知れない。……いや、入ったようなではない。ゲームの中に入り込んだのだとしか考えられないことがだ。
そして、少女のイベントを見た後から、更新がない……。
これは重大なことだという気がした。
僕もそこまで到達している。『みんなそこまでは進める』というところまで。
このイベントを見たら、更に何かが起こるのか? それとも、あの少女と出会ったことが問題なのか?
僕はブラウザを閉じた。
……鍵を開けて、少女と出会った。
全員、その後の投稿がない。つまりネット上の消息は不明。
思わず視線が『Lucy, close to you』のアイコンに向いた。デスクトップに表示されている、天気雨に降られている椅子の絵。パッケージの絵を小さくしたものだ。
あそこから進めれば、何かが起こる……?
プレイしてみれば分かる。
けれど、プレイしてしまったら?
もしかして、これをプレイした人たちは、みんなゲームの中に取り込まれてしまったのではないか。そんな奇妙な予感が胸の中に渦巻いた。
……プレイするべきなのか。
何が起こっているのか、何が起こるのかは、そうしてみないと分からない。しかし……。
僕はそこではっとした。
これをプレイしているのは、才人も同じだ。
才人はどこまで進んだのか?
僕は慌ててスマホを手に取り、才人へLINEを送った。
『才人、ルーシーってどこまで進んだ?』
急いで送る。
すると、すぐに返事が来た。
『なんで?』
『実は僕もやってて、どうなのかなって気になって』
『あっそう。まだ最初だよ』
『今どこ?』
『家だけど』
『そうじゃなくて、どこまで進んでるの?』
『だから、そんなこと訊いてどうするんだよ』
『教えてよ。僕は食堂を抜けたところまで進んだ』
『食堂? まだそこまで進んでないかも知れない。あんまいじってないし』
その返事に、僕はほっとした。
『じゃあ、そのまま進まないで』
『何でだよ』
才人からの返事は当然のものだった。
『よく分からないんだけど、そこから先、進めなくなるみたいだから』
『何で? バグでもあんの?』
『だと思う。とにかく、先には進まないで』
『別にいいだろ、バグくらい。進めなくなったら、その時言うわ』
『才人、頼むよ』
『何だよ、頼むって笑。そこまでのことなのか?』
『うん』
『何なんだよ笑。先越されたくないとか?』
『そんなとこ』
『あっそ。じゃあいいわ。他のゲームでもやっとく』
『ありがとう』
『別にー』
僕はほーっとため息をついて、スマホを置いた。
……これで、多分、才人は大丈夫だろう。
気になるのは、少女のイベントまで到達しなくても動画の更新が止まっている人がいることだ。だから、そこまで行かなくても何か起こる可能性はある。でも確実に何かあるのは、少女のイベントまで進んだときだ。そこまで進めなければ、何もなくすむかも知れない。
楽観的な考えなのか。そうかも知れない。
僕はもう一度スマホを取って、才人にLINEをした。
『才人』
『はい?』
『幻聴、どう?』
『どうって?』
『聞こえてる?』
『お前が気にすんなって笑』
『なんか気になって』
『何でだよ笑。実は心配性だったのか?』
『何が聞こえてるの?』
それには、暫く返事がなかった。
僕は少しだけ待って、大胆なことを言った。
『さみしい、って聞こえるんじゃない?』
返事を待った。
やっと着信音が鳴ったのは、随分と経ってからだった。
『それはお前だろ笑。じゃ、ゲームするから』
有無を言わさぬように、一方的に会話を打ち切る返事だった。僕はそれに何も言うことができず、再びスマホを置いた。
椅子の背もたれに背を預けて、ため息をつく。
……幻聴。
さみしいと訴えてくる幻聴。
最初に幻聴の話を始めたのは才人の方だった。どうして僕にそんな話をしようと思ったのか、いまだに分からない。けれど僕には、才人にも同じ幻聴が聞こえているんじゃないのかという気がしていた。
目を閉じると、窓の外から雨音が聞こえてくる。さあさあというささやかな音だった。
僕はそのまま雨音を聞いていた。すると雨音が別の場所からも聞こえてきて、僕ははっとして目を開いた。
窓を見る。カーテンの閉まった向こうから、雨音が入ってきている。でも、この家のどこか、別の場所からも雨音のようなものが聞こえてくる。
僕は電気を消したままの部屋で、薄暗い中を探った。椅子に座ったまま見回してみると、その音は廊下の方から聞こえてくるような気がした。
……また、『Lucy, close to you』の世界が、こちらに干渉してきているのか。
そんな気がして心臓がどきどきした。もしそうなら、少女のイベントまで進んでしまった僕は、一体どうなるのか。
他の実況者がどうなってしまったのか、全く分からない。でも、全員更新が止まっている……。
僕は廊下を見つめたまま、椅子から立ち上がった。
廊下に出ると、雨音のようなものは近付いた。
……風呂場から?
僕は風呂場の前に立った。
音は確かに、この中から聞こえている。そう思うと、この雨音はシャワーの音なんじゃないかと思った。
扉にそっと手を当て、開く。
すると、シャワーから水が出ていた。
扉を開けたら『Lucy, close to you』の世界に飛ぶんじゃないかと予想していた僕は、そうはならなくてややほっとした。しかし、勝手にシャワーが作動するなんて。
僕はシャワーを浴びないように気を付けてコックを閉めた。
まるで雨のように降り注いでいたシャワーはそれで止まった。それにしても、どうして独りでに作動したのだろう。
僕は風呂場を出て、扉を閉めた。そうして部屋に戻ろうとしたとき、再びシャワーの音がした。
また? どうして。
とにかく、もう一度止めなければならない。
そして扉に手をかけたとき、はっとした。
……何だか違う。
シャワーの音ではない。
僕は扉を開けずに、じっと中の音を聞いた。
……雨だ。
雨の音に聞こえる。今度は本当に、雨の音のように。
この先は風呂場ではない。雨の降るどこかなのだ。
――どうする。開けるべきなのか。
ゲームを続けるべきかどうかという問題と同じように、ここを開けるべきかどうかという問題が立ち上がっている。
ここから先は、『Lucy, close to you』の世界だ――僕は無条件にそんな予感がし、緊張に震えた。
ゲームの中に飛び込んでその先を見るか、ここを開けずに日常を守るか。いや、開けずにいれば守れるのだろうか? そんな選択をしても、どちらにしろゲームは僕を取り込むだろう。今までもそうだったように。
僕は上目遣いに風呂場の扉を見た。
どこに行くかは分からない。けれどこのゲームは、僕に何かを訴え、分からせようとしている。そんな気がする。僕はそれに、無関心でいていいのか。……いや、そんなことは……できないのではないか。
――……助けて。
――さよなら。宏衛。
この扉の向こうから聞こえる、雨の音。
このゲームが一体何なのか、僕には分からない。でもどうしてか僕の過去を見せ、過去に入り込み、僕に語りかけてくる。
……雨の音。
僕は意を決して扉を開けた。
「……こっち。来て」
その瞬間少女の声がした。
扉を開けた先は、どこかの廊下だった。天井が崩れていて、そこから雨が降り注いでいる。廊下の両側には窓があり、それも割れているので、そこからも水滴が入り込んでいた。
これは一体どこの廊下なのだろう。
その廊下の向こうに、奥へ向かって走って行く、あの少女の姿が見えた。
「待って」
僕は思わず声を上げた。しかし少女は立ち止まることなく、奥へ奥へと走って行く。
僕は雨の降り注ぐ廊下へと足を踏み出した。雨が髪や肩を濡らしていく。少女はずっと前を走り続けて、突き当たりの扉にさしかかったところで姿を消した。
僕もそこまでたどり着くと、息をつきながら扉を見た。
扉。一体どこへ続いているのだろう。
ドアノブに手をかけ、開く。
その向こうも、天井が崩れて雨の滴っている廊下だった。ただ、両側が鉄格子の部屋になっていて、まるで刑務所のような雰囲気だった。
いや、でも、ここは『Lucy, close to you』の世界なのだから、これは病室なのかも知れない。
僕は扉をくぐった。朽ちた病棟の中を進む。雨がしっとりと僕の全身を濡らし、頬に雨水が伝った。
少女の姿は見えない。こっち、と言って、まるで僕を導くように走って行ったのに。僕にどうしてほしいのか、僕にどこへ行ってほしいのか、全く分からない。けれどこの廊下はまっすぐなので、直進するしかない。
僕は鉄格子の病室を見つつ進んだ。
ベッドと便器が置かれているが、それだけだ。他には何もない。崩れた天井から雨が降り込んでくるので、朽ちた床に水がたまっているのが見えた。
暫く進むと、突き当たりにまた扉があった。
この先は、どうなっているのか。あの少女はいるのか。
ドアノブに手をかけ、扉を開ける。
するとその先は、見違えるように綺麗な廊下だった。雨も降っていないし、朽ちてもいない。
よく掃除の行き届いた緑色の床で、真ん中に白いラインが引かれている。雨が降り込んでいないので静かで、照明は消灯されている。光源と言えば非常口への誘導灯くらいで、かなり薄暗い。
よく見ると、廊下の壁に巡らされた手すりに、ぽつんぽつんと消毒薬が設置されていた。手を消毒するためのアルコールのポンプだ。
廊下の両側には等間隔に扉があって、それには格子のはまった覗き窓があった。
……この見た目は、病院だ。
まるで実在する病院のようだ。
ただ、病室らしい扉の覗き窓に格子がはまっているのが気になった。これは本当に病室なのだろうか。
そう思って、近くの扉に歩み寄ってみた。
扉の横にはネームプレートがあって、そこに名前が書かれている。これは患者の名前ということなのだろうか。やはり、これは病室なのだろうか。
僕はその扉の覗き窓を覗き込んでみた。格子の向こうにはベッドと便器だけがあり、他には何もない部屋があった。かなり狭い部屋のようだ。ベッドには拘束用らしいベルトが放置されているが、室内は無人だった。
扉に手をかけて開けようとしてみるが、鍵がかかっていて開かなかった。
隣の部屋も同じだ。
僕は一つ一つの病室を確認して歩いた。
部屋の見た目はどれも同じだ。ベッドと便器と拘束ベルトがあり、無人で、施錠されている。書かれている名前だけが違う。
僕は名前を読んでいった。『斉藤勝』、『江波貫太郎』、『須田洋一』……。男性の名前ばかりだ。男性病棟なのだろうか。『菊池宗弥』、『小宮山東二』、『鈴木孝則』、……『栗木才人』。
――栗木才人。
僕ははっとして足を止めた。
栗木才人。
どうして、才人の名前がここに?
僕は思わず覗き窓を覗き込んだ。
その中は、ベッドと便器のある、殺風景なものだ。拘束ベルトがベッドに放り出されているのが見える。しかし、中は無人だった。
もっとよく中を見てみるが、全く人の気配がない。
僕はため息をついて扉から離れた。
才人の名前がここにある。これは一体、何を意味するのか。
才人は昔、中学生の頃だったか、入院していたことがあるという。まさか、僕が今いるのは、才人が入院していたというその病院なのだろうか?
けれどどうしてだろう。これまでは僕に関する過去ばかりが現れていた。それなのに急に、才人の過去が現れるなんて……?
「……置いていかないで」
不意に声がして、僕ははっと顔を上げた。
少し若いが、才人の声だった。
「……置いていかないで」
「才人?」
僕は再び覗き窓を覗き込んでみた。
すると部屋の真ん中に、病人服らしいものを身につけた少年が立っていた。うつむいていて顔はよく見えない。黒髪で、長身でもないが、顔の輪郭で分かる。あれは、才人だ。
「才人」
「……どうして置いていったの」
僕は思わず覗き窓の格子を掴んでいた。
「才人」
「……置いていかないで、置いていかないで、置いていかないで……」
「才人、僕だ。僕の声、聞こえてる?」
「どうして置いていったの……」
才人は僕の言葉には全く反応しなかった。
「おかあさん……」
「才人、聞こえる?」
「……どうして、おかあさん、どうして……」
「才人」
僕はドアノブに手をかけた。するとドアノブが回って、扉が開いた。
「才、」
しかし、扉を開けた先には誰もいなかった。
誰もいないどころか、そこは朽ちて、天井から雨が降り込んできている病室だった。扉を開けた瞬間にそこは今までいた病院ではなくて、鉄格子の病棟に戻っていた。
雨が僕の髪や両肩に降りかかる。
「才人……」
呟くと、後ろから足音がした。
じゃり、ぴしゃり、じゃり、ぴしゃり……と、水浸しの朽ちた廊下を歩く音だ。
振り返ると、僕の後ろを才人が歩いて行くのが見えた。明るい赤茶色に髪を染め、身長の高い、現在の才人の姿だ。才人はこちらを見てはいなかった。僕などまるでいないかのように、まっすぐに廊下の奥の方へ進んでいく。
「才人!」
僕は鉄格子の病室から飛び出して、才人の後を追おうとした。しかし廊下に飛び出した瞬間、才人の姿は消えていた。
「才人……」
才人は奥へと進んでいた。ではそちらに行けば。
僕は廊下の奥へ進んだ。そこにはぼろぼろになった扉があった。才人はこの向こうへ行ったのではないか。そんな予感がして、僕はばっとその扉を開けた。
「うわっ!」
その瞬間大量の水を浴びて、僕は思わず後退った。反射的に目を閉じ、顔をぬぐう。前方からはじゃーという音がしていた。
目を開けると、目の前は風呂場で、シャワーヘッドから大量の水が出てきていた。
僕は呆然とした。
全身が濡れていたが、雨で濡れたのか、シャワーで濡れたのか、もはや分からなかった。
僕は数回息をつくと、シャワーのコックを閉めた。シャワーヘッドから、名残の水滴がぽつんぽつんと滴った。それが僕の頬にあたり、つーっとあごに向けて流れていく。
……今のは、才人の過去?
朽ちた病棟は『Lucy, close to you』の世界だろう。けれどあの綺麗な病院は、才人の記憶にあるものなのかも知れない。何より少年時代だと思われる才人の姿があったことが、気になった。
僕はぽたぽたと水滴の落ちてくる髪の毛をバスタオルで軽くぬぐって、部屋に戻った。パソコンの隣にはスマホが置かれている。僕はそれを手に取った。
『才人、今いい?』
LINEを送ると、暫く経ってから返事が来た。
『寝てた。なに?』
これからゲームをすると言っていたのに、寝ていたという返事が来たのが気になった。
『ゲームしてたんじゃないの?』
『寝落ちした』
『寝落ち?』
『そ。最近たまにある』
それはただの寝落ちなのだろうか。
僕は妙に疑り深くなっている自分を感じた。だが、『Lucy, close to you』の世界で才人の姿を見たことが気になって仕方がなかった。寝落ちしたというその時に、『Lucy, close to you』の世界に入り込んでいたのではないのか。そんな考えが頭に重くのしかかってくる。
『ねえ、寝落ちしててさ、何か変わったことなかった?』
『変わったことって?』
『変な夢を見たとか』
『何なんだよさっきから笑』
『何もない?』
『変わったことなんてそうそう起こるかよ笑』
『何も夢見なかった?』
『何でそんなこと聞きたいんだよ』
『うーん、何となく』
『夢なら見たけど、言うほどの夢じゃないよ』
『どんな夢?』
『だから、言うほどじゃないって』
『昔の夢?』
『いや、何でそんなしつこいのお前笑』
『うーん、ちょっと僕も気になる夢を見たから?』
『それこそどんな夢だよ笑』
『才人が出てきた』
『俺たち仲良いなー笑』
『才人は?』
『些細な夢過ぎて忘れたよ笑』
はぐらかされている。そんな気がした。
『そっか。ごめん、変なこと訊いて』
『別にいいって』
と言うと、才人はからかうような表情をしたキャラクターのスタンプを送ってきた。それに続けて、
『お前、実は今さみしいんじゃねえの?笑』
『そんなことないよ笑』
『そうか?』
『ありがとう。じゃあ、またね』
『はいよー』
『あんまり寝落ちしてると風邪ひくよ』
『お前はおかんか笑』
そこでこの会話は終わり、僕はため息をつきながら天井を見た。
頬や肩が、冷えて冷たい。このまま濡れていては、風邪をひくのは僕の方だ。急にそんな気がして、僕はシャワーを浴びに行った。
風呂場を開けるとき、やや警戒した。けれど勝手にシャワーが出ていることもなく、扉を開けてもどこかへ飛ぶということもなかった。
頭から温かなシャワーを浴び、僕は考えた。
これまで僕の過去ばかりだったところに、才人の過去が入り込んできた。これは一体どういうことなのか。
しかも才人の過去まで導いたのは、あの少女だったような気がする。「こっち。来て」。確かにそう言って、僕を導くように奥へ奥へと走って行ったあの後ろ姿。僕に才人の元へ行かせて、一体何をさせたかったというのだろう。
さみしいと訴えてきて、助けてと言い、こっちに来てと才人の元へと導いた。
――……一体、何なんだ? 一体……。
僕には分からなかった。
耳にはひたすら、雨のようなシャワーの音が降り注ぎ続けていた。
――カサカサカサ……。
……音がする。
この音は何だっただろう……。
――カサカサカサ……。
この音は……。
――ルーシー。
僕ははっとして目を開いた。
ベッドに潜り込み、眠りに落ちてから暫くしてのことだった。
部屋の中は真っ暗だ。窓の外からは、雨のさらさら降り続く音が聞こえている。その音に混じって、どこからかルーシーの音がする。
――カサカサカサ……。
音がどこからしているのかは分からない。けれど、ふと部屋の一部が明るいのに気付いて、僕はそちらの方を見た。
机の上のパソコンがついていて、画面がこうこうと光を放っている。
寝る前にきちんと電源を落としたはずだ。なのに、勝手に起動している。
僕はベッドから下りて、パソコンの前に立った。
表示されているのは、『Lucy, close to you』のスタート画面だった。
オルゴールのようなBGMは、不気味と言うよりも悲しみや切なさを感じさせる。
――さみしいの。
そう、正確には、さみしさを。
スタート画面を見ていると、表示されている項目のうち、『メモリー』が目についた。なぜだかそれが気になって、マウスを握り、そこをクリックした。
するといつもの病室の画面に遷移したが、そこには今まで集めたアイテムは漂っていなかった。代わりに、部屋の真ん中にあの少女が立っていた。うつむき、黒髪を垂らして。
『……さみしいの』
少女の声がスピーカーから聞こえてきた。
『……助けて』
――助けて。
まるで僕に訴えかけてきているかのように、そう言った。
僕はじっと少女を見つめた。少女は助けてと言ったきり、黙り込んでいる。静寂が暗い室内に満たされて、僕の息づかいだけが妙に大きく聞こえてきた。
……この子は何なのだろう。この子は……。
ゲームのキャラクターであることは間違いないのだろう。けれどそれ以上に、現実の存在であるかのように、僕に語りかけてくる。僕にはこの子がただのキャラクターだとは、どうしても思えなくなっていた。
「……ねえ、君は……」
僕は思わず声をかけていた。
「君は、誰なの? 僕に何をしてほしいの?」
『……助けてほしい』
思いもよらず反応があった。会話ができる。それが分かると、僕は今までになく緊張した。
「誰を? 君を助ければいい?」
『……助けてほしい……』
「誰を助ければいいの? 君を助ければいい?」
『助けてほしいの……ずっと、ずっと助けてほしかった……』
語りかければ反応があるものの、微妙に会話がかみ合わない。僕の言葉が届いているというより、お互い一方的に言葉を発しているだけのような感じになっている。本当に僕の声が聞こえているのかどうか、僕は不安になってきた。
「誰を助ければいいの?」
僕はもう一度同じことを問いかけた。
『私達を……助けて』
「私達? 君と、誰を?」
『さみしいの……。このさみしさをどうしたらいいのか、分からないの……』
また会話かがかみ合わなかった。
『……あなたも、そうでしょう……?』
「僕も……?」
『あなたも、ほんとうはさみしいんでしょう……? だから、あなたには分かるはずでしょう……?』
僕は首を振った。
「僕に……何が分かるって?」
『……さみしいの……。だから、ここに……来てほしい』
「来てほしい……?」
『ここに来て、助けてほしい……。でも、助けてほしいのは、あなたもいっしょでしょ……?』
僕はそれには無言だった。何も言うことができず、ただ少女を見つめていた。
少女も黙り込んだ。
僕は何を言えば少女が答えてくれるのか分からず、かなり言葉を探した。
「ねえ……、一つ、訊いてもいい?」
少女は微動だにせず、うつむいたままだ。
「どうして、僕を才人の過去まで導いたの?」
『……さみしいの』
「どうして、こっちへ来てと言ったの?」
『……近くに来てほしい……』
僕の質問に答えているような、違うような、微妙な言葉だった。
『来てほしいの……。こっちへ来て、……助けてほしいの……。今度こそ、こっちへ来て、今度こそ……助けて……』
今度こそ……。
少女の言っていることはよく分からなかった。まるで僕が、以前に誰かを助けられなかったような言葉だ。
「君は、その……」
僕は言うべきか迷って、
「僕のことを知っているの?」と、訊いた。
『私は……』
僕は少女の言葉を待った。
『……私は……あなたを知ってる……』
「知ってる? 僕を?」
『……助けて……』
「待って。君が僕を知ってるって?」
『今度こそ……助けて……』
「今度こそって、どういうこと?」
『私はあなたの……さみしさを知ってる。あなたは私の、さみしさを知ってる……』
少女が何を言っているのか、ますます分からなかった。
「君は誰?」
『あなたはずっとさみしかった……』
「君は、誰なの?」
『……助けて……』
――カサカサカサ……。
その時ルーシーの音がした。
僕ははっとして周囲を見回した。どこから聞こえているのか分からない。
『助けて……うしろにいるから……。今度こそ、助けて……』
画面の中では少女がうつむいたまま、そう呟いている。
後ろにいる。後ろに……。
――うしろ。
それは一体どういうことなのか。
ルーシーの音がし続けている。見回してもどこからなのか分からない。
後ろ、後ろ、後ろ……。
少女の言葉が頭の中で反響している。
僕の後ろに、あの少女がいる?
後ろにいるのは、一体誰だ?
――カサカサ、カサカサ……。
――ルーシー。
僕は後ろを見た。
その瞬間僕は息をのんだ。
ルーシーが、天井に張り付いている。
濡れた髪の毛が重力を無視したように顔に張り付いていて、目は見えない。けれど僕を見つめているのは分かる。
僕は後退った。脚が机にぶつかる。
ルーシーがこちらに向けてゆっくりと手を伸ばしてきた。
僕はとっさに廊下へ飛び出した。外に、外に出て逃げなければ!
僕が廊下に出ると、ルーシーは天井から下りてきて床や壁を這いながら迫ってきた。カサカサという音が間近に聞こえる。
僕は焦って玄関のドアノブに飛びついた。しかしいくらガチャガチャとひねっても、全く開かない。どうしてと思うと、鍵をかけっぱなしだったことを思い出した。焦りと緊張で震える手で、鍵を開ける。これで出られる。
そしてドアを開けると、目の前にルーシーがいた。
「はっ――!」
僕は飛び起きた。
突然目が覚めたことについて行けず、今自分がどこにいるのかも分からなかった。荒い息をつき、顔に触れる。額からは冷や汗が出ていた。
暫くじっとしているとだんだん冷静になってきて、現実感が戻ってきた。
僕はベッドの上にいた。
部屋の中は暗く、パソコンも起動していない。窓の外からは雨のさあさあという音が入り込んできていて、静かだった。
……今のは、夢だったのか。
僕はため息をつきながらベッドから足を下ろした。
……夢……。本当に……?
分からなかった。
思わず机の上のパソコンを見た。
今まで見ていた夢は、本当にただの夢だったのか。あの少女と会話をしたことも、全て。
――うしろにいるから……。今度こそ……。
僕は深く息をついて、顔を覆った。
あの少女は、僕のことを知っていると言った。
本当に、それは本当にそうなのだろうか?
僕には全く分からなかった。
どこからどこまでが夢で、『Lucy, close to you』の世界で、現実なのか、何もかも。