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Lucy, close to you  作者: 蓼丸エコウ
4/10



  4



 絵本を見ている。

 幼い兄と妹が、両親に森に置き去りにされる物語。

 夜の暗い暗い森の中。

 けれど兄が道に光る石を置いてきたので、それをたどって家へ戻ることができた。

 幼い兄妹が帰ってきたことを、父は喜ぶが、母は不満そうにする。

 だから、兄妹はまた森の中に置き去りにされた。

 今度はパンくずを置いてきたが、それは森の鳥たちに食べられてしまい、幼い兄妹は家への道が分からなくなってしまう。

 家へ戻れなくなったことを悲しむ兄妹を眺めながら、小さな僕は、どうして道を覚えていないのだろう、と不思議がった。

 目印なんてわざわざ置かなくても、自分の記憶を頼りにしていけばいいだけなのに、と。



 と、いう夢を見た。

 僕は体を起こして、ぼうっと今の夢を思い出していた。

 随分とはっきりした夢だった。それはきっと、僕自身の経験から来ている夢だったからだろう。僕も小さな頃、この絵本を読んでいた。『ヘンゼルとグレーテル』。懐かしい絵本だった。

 今日は窓を閉めて寝たが、それでも雨の音が入ってきていた。それなりに強い降り方らしい。

 僕は枕元のスマホを取って、天気予報を見た。今日はずっとこんな調子で降り続く、と予報されていた。

 僕はベッドから下りてカーテンを開け、外の様子を見てみた。窓に雨が当たっている。風はないようだったが、確かに大きな雨粒が次々に降ってきていた。

 雨が強いだけ雲も厚いらしく、外はあまり明るくないようだ。

 僕は窓の外を見ながら、『ヘンゼルとグレーテル』の結末がどんなものだったかをぼんやりと思い出した。

 無事に家に戻れた幼い二人を、父は喜んで迎えてくれた。

 母は死んでいた。



「でこぴん」

「痛っ」

 突然才人に額を弾かれて、僕は思わず声を上げた。

 授業が終わり、先生が教室を出て行ってから、暫くしてのことだった。椅子に座ったままの僕の前に才人が立ち、急に額を弾いたのだ。

「痛いなあ……。なに? 結構本気でやったでしょ、今」

 抗議すると、才人はにやにや笑った。

「ああ、本気でやったぜ。ぼーっとしてたからさ。効いたか? 俺のでこぴん」と言って、また弾くまねをする。

 僕はそれをよけて、ため息をついた。

「痛かったよ、何で? もう……」

「相当効いたみたいだな。どうだ? 眠気は飛んだか?」

「眠気?」

「眠そうにぼーっとしてたぜ? 授業中ずーっと」

「眠そうだった? そうかな?」

「半分まぶたも閉じてたし。半寝状態だったんじゃないのか?」

「そうだったかな……?」

「おいおい、自覚なしかよ。相当だな」

 才人はおかしそうに笑い声を上げた。

 しかし、ぼうっとしていたのは確かかも知れない。今も机の上にはノートや教科書が開きっぱなしだし、目の前に才人が立っているのにも気付かなかった。

「ゲームばっかやって、夜更かししてるんじゃないのか?」

「そんなことしないよ。僕は才人と違って自制がきいてるんだから」

「まるで俺がだらしないみたいな言い方だな。俺は夜型なだけだ」

「ふうん。そうだね」

「でこぴん」

「痛っ」

 また額を弾かれたので、僕はのけぞった。けれど、今度はそれほど本気ではなかったようなので、声を上げたほどの痛みではなかった。戯れ程度の衝撃だった。

 才人は僕の反応に楽しげな笑みを見せた。

「さ、帰るぞ」

「分かった。ちょっと待って」

 僕は荷物を鞄にしまうと、ようやく立ち上がった。二人で廊下に出ると、並んでエレベーターへ向かう。大学の建物はやや高層なので、階段よりもエレベーターの方が便利だ。

「最近、変だな」

 唐突に、才人はそんなことを言ってきた。

「変って?」

「お前。最近変じゃないか?」

「別にいつもと変わらないけど」

「そうか? ぼんやりしてる時間が増えてる気がするぜ」

「ぼんやり……?」

 身に覚えがなかった。

「そうかな」

「どっか別の世界に行ってるみたいだぞ」

「別の世界ね……」

「何か悩み事か?」

「悩み事……。そうだなあ」

 少し考えて、僕は口を開いた。

「昔のことを思い出すことなら、増えたかな」

「何だよそれ。いきなり老け込んだこと言いだしたな?」

「何? 老け込んだって。そんなんじゃないよ」

「年いくと思い出に浸るって言うだろ」

「浸る……そういう感じじゃないんだよね」

「じゃあどんな感じなんだ」

「昔の夢を見たりとか、ふとしたときに思い出したりとか」

「ふうん? どのくらい昔?」

「ちっちゃい頃」

「幼稚園とか?」

「うん、そのくらいかな」

「お前の幼稚園時代? あー、なんか想像つくぞ。無口だっただろ?」

 才人はいたずらっぽい顔でそう言った。

「よく分かったね」

 肯定すると、才人はからから笑った。

「活発なお前って想像つかないもんな」

「僕もそんな自分は想像できないね」

「なんかさ、絵本ばっか読んで、あんまり周りの子どもと交わってない感じだよな」

「言い当てるね」

「うわ、当たってるのかよ」

「当たってる」

 そこでエレベーターの前にたどり着いた。下りのボタンを押して、ゴンドラが来るのを待つ。

「それでさ……あんまりにも一人を好んでるもんだから、何か問題があるんじゃないかと思われて。幼稚園の先生が、病院に連れて行った方がいいんじゃないですかって。そんな話を母にしていた記憶があるな」

 何の気なしにそんな話をしてから、僕ははっと驚いた。自分が過去を話すような人間だと思っていなかったので、意外になって驚いたのだ。

 才人はそれを聞いて何を思ったのか、「ふうん」と言って何やら妙な表情をした。表情らしいものはないのだが、無表情とも違う、何か微妙な表情だった。

「で、病院に連れて行かれたのか」

「まさか」

 僕は笑った。

「そんな母じゃなかったよ」

 僕はこの発言を、かなりぎりぎりの発言だなと思った。「そんな心配は杞憂だと思う母だったよ」とも、「そんな心配をするような人間味のある母ではなかったよ」とも、どうとでもとれる発言だったからだ。

 才人は無表情のような、けれどそうではない表情をしながら、また「ふうん」と言った。それきりで、僕の言い方について何か突っ込んで聞いてくることはなかった。

 近くにいたのか、ゴンドラはすぐにやってきた。僕達はそれに乗り込んだ。ゴンドラの中には数人学生が乗っていて、それぞれに談笑している。

 少しの間妙な沈黙が続くと、才人はにやっと笑って肩をすくめた。

「お前も苦労してるな」

「別に苦労って程じゃないよ」

「でもそういうふうに人から勘違いされるの、迷惑だろ」

「まあ、迷惑だけど」

「俺なら嫌だね。はっきりと嫌だ」

「随分言うじゃん」

「人の勝手で病気にされたらたまったもんじゃない。俺ならキレてる」

「うーん、でもまだ小さかったから、僕は別に何とも思わなかったな」

「ああ、まあ、子どもってそうだよな。寛容なのか、馬鹿なのか」

「馬鹿なんじゃないの」

「確かに、馬鹿だな」

 僕達は目を見合わせて、笑った。

 一階に着くと、僕達はゴンドラを下りた。

 その時隣に違和感がして、僕は隣を見た。

 才人がいなかった。

「才人?」

 後ろを見てみるが、やはり才人はおらず、ゴンドラに同乗していた他の学生の姿もない。

「才人?」

 周囲は無人のために静寂だった。

 おかしい。何かおかしい。

 突然無人になるなんてあるはずがない。

 焦って周りを確認する。まるでくるくる回るような動きになってしまったが、それだけ見回しても誰もいない。

「才人……」

 息が細くなった。

 ……おかしい。おかしい。

「才、」

 靴底がじゃりりと音を立て、僕はさっと寒気がした。

 足下を見ると、かなりの年数放っておかれたようなひび割れた床だった。僕がいるのはもはや大学の校内ではなく、『Lucy, close to you』の病院の中だった。

 しかも前回セーブした地点、落書きの鍵穴に鍵をさし込み、扉が現れた場所だった。エレベーターがあったはずの場所には扉があり、開け放たれたそこからはまっすぐに伸びた廊下が見えている。

 ――これは。

 どうして? 夢なのか? 夢なら悪い夢だ。

 僕は自分が緊張しているのを感じた。どうすればいい。分からない。

 ――カサカサカサ……。

 背後から、もはや耳慣れた音がした。

 反射的に後ろを向く。

 ルーシーが迫ってきていた。

「あ――」

 逃げなければ。早く、逃げなければ――。

「――おい!」

 その時ぐいっと横に腕を引っ張られ、僕はよろめいた。はっと気付いたときにはもうルーシーの姿はなく、場所も大学の校内だった。エレベーターの前に僕はいて、立ち止まっている僕の横を学生達が通り過ぎていく。

 才人は僕の腕を放すと、呆れたような笑い方をした。

「おい、何だよ、急に心ここにあらずみたいになって」

「え……」

「やっぱり変だな、お前」

「変……」

 僕は額を触った。冷や汗が出ていた。

「……そうかも知れない」

「だろ? 一体どうしたんだよ」

「……分からない。急に……変なものが見えて」

「はあ。変なもの? 幻覚ってやつか?」

「幻覚……、なのかな」

「大丈夫か? お前」

「……うん。大丈夫」

「顔色悪いな」

「大丈夫」

 ……大丈夫。

 ……本当にそうだろうか?

 今のは、一体何だったのか。幻覚。幻覚ならそれでもいい。むしろ幻覚であってくれた方がいいくらいだ。

 けれど、まるでもう一つの現実に引き込まれたような、あの感じは何だ。

「……さみしいの」

「え?」

 後ろから声がした。

 女の子の声だ。

 僕はばっと後ろを見た。

 エレベーターのゴンドラの中に、黒髪の女の子がうずくまっていた。膝を抱えて、まるで孤独に耐えているかのような姿勢だった。

「……それはあなたもいっしょでしょ?」

 エレベーターが閉まった。

 ……何なんだ。本当になんなんだ。

 僕は首を振りながら後退っていた。そんな僕の無意識の行動に、才人はまた腕を掴んできた。それで僕はやっと我に返った。

「宏衛」

「……ああ」

「どうしたんだよ。本当に。様子が変だ」

「いや……何だか……」

「大丈夫じゃないな」

 と言うと、才人はにっと笑った。

「今日、うち来るか?」

「え?」

「来いよ。もてなしてやるからさ」

「え……何で?」

「何でもだ。だって妙だぞ、お前。うちにきて泊まってけ。気晴らしになる」

「でも明日……」

「明日は休みだ。土曜だぞ」

 才人はうかがうような、意地悪を企むような笑みを見せて、僕の顔を覗き込んできた。

「それとも、明日何か用があるのか?」

「あ……ううん、ない」

「ないんだろ?」

「うん……」

「じゃあ来い」

 僕はまだ才人に腕を掴まれたままでいたが、そのことを忘れて、下を向いた。才人が何のために僕の腕を掴んだのかも、意識になかった。

「でこぴん」

「痛っ」

 額を弾かれて、僕はのけぞった。

 才人は掴んだ僕の腕を揺すって、笑い声を上げた。

「おい、戻ってこい」

「痛いなあ。でこぴんしなくたっていいじゃん」

「戻ってきたか? ん?」

「戻ってきたよ」

 僕はようやく笑った。そこで才人は腕を放した。

「じゃ、来いよ」

「分かった。何ご馳走してくれるの?」

「んー、そうだな。麻婆豆腐」

「いいよ」

「決まりだな」

 僕達は笑い合うと、大学を出た。才人の家に行く前にスーパーに寄って、材料を買った。雨の降り方は朝と同じくらいで、大粒の雨が降っていた。

 才人の家は、僕の家よりも大学に近い。歩いても五分かからないくらいだ。才人が住んでいるマンションも学生用マンションで、他の居住者も大体僕達の大学の人間だ。ただ僕が住んでいるところと比べてやや背の高い建物で、十階建てになっている。才人の部屋はそこの七階にあった。

 エレベーターでないと上れない高さなので、静かなゴンドラに乗って七階まで行った。

「お前がうちに来るのは久しぶりだな」

 家の鍵を開けながら、才人はそう言った。

「そうだね」

「ほら、入れよ」

 僕を先に入れて、才人は後に入った。当然のように、鍵はかけない。

 それぞれの傘を玄関のドアノブに引っかけて、僕は改めて施錠されていない鍵を見た。

「才人、何で鍵かけないの?」

「はあ?」

 聞こえなかったのか、才人は不思議そうな顔で振り返った。

「何だって?」

「いや、いつも鍵かけないから。何でかなと思って」

「何でそんなことが気になるんだよ」

「普通はかけるものだからさ」

「鍵かけんのが嫌いなんだよ。それだけだ」

「ふうん」

 僕はそれ以上追究しなかった。重大なことのようにも思えるし、些細なこだわりにも思えて、判断がつかなかったからだ。

 才人の家は僕の家と比べるとこぢんまりとして見える。キッチンは玄関の横で、廊下は短く、廊下と居室を隔てる扉はない。廊下の両側にはそれぞれクローゼットとユニットバスへの扉があり、一人暮らし用のコンパクトな間取りという感じがした。

 久しぶりに足を踏み入れた才人の部屋は、以前来たときとあまり変わっていなかった。ぱっと見ると、雑然とした印象。実際僕の部屋よりは散らかって見えるので、その印象は間違っていないと思う。

 机の上も、パソコンの周りに色々なものが置かれている。僕はその中の一つに見覚えのあるゲームのパッケージを見つけた。天気雨の降る花畑に、椅子がぽつんとある絵だ。

 ――『Lucy, close to you』。

 僕は思わずそれを拾い上げて、まじまじと見た。

「才人、このゲームやってるんだ」

「ん? ああ」

 鞄を床に置きながら、才人は返事をした。

「この前言ってた、今やってるゲームってこれ?」

「ばれたか」

 才人は何か観念したような笑みを見せた。

「どう? これ」と、思わず訊いた。

「どうって、まだ分からないな」

「始めたばっかり?」

「そんなところだ」

「バグがあるって言ってたけど」

「ああ、うん、まあ」

 才人は曖昧な返事をした。

「どんなバグ?」

「よく分からない」

「分からない?」

「まあ、いいだろ、そんなことは。もう作ってきていいか」

 才人はどうも、あまりこのゲームの話を僕としたくないようだった。

「ああ、うん」

 僕もゲームのパッケージを机に戻して、やや不明瞭な返事をした。

 じゃあと言って才人が行ってしまってから、僕は再び『Lucy, close to you』のパッケージに目を落とした。僕としては、才人がこのゲームにどんな印象を持っているのか気になった。だから何か少しでも話を聞きたかったが、才人が話を避けるのにそれを無理に聞き出そうとすることもできなかった。

 才人の部屋にソファはないので、部屋の真ん中にあるローテーブルの前に座った。そのローテーブルの周りにも、ベッドの周りにも、何かしらの物がある。片付けないと言うよりは、必要な物がすぐに取れるようにそうしているのだろう。

 暫く待っていると良い香りがしてきて、やがて才人が完成した料理を運んできた。僕もテーブルに並べるのを手伝うと、早めの夕食が始まった。

 料理を口に運びながら、僕は改めて、才人の料理の腕前に感心した。

「才人って料理うまいよね」

「そうか?」

「僕とは違うね」

「一体普段何食ってるんだよ、お前」

 才人は笑い声を上げた。

「この程度で料理うまいとか言ってたらだめだろ」

「僕、中華は作らないからさ」

「こんなの、スーパーで売ってる材料を混ぜて火を通しただけだろ」

「そうかな」

「料理なんて大抵そうだろ。混ぜて火にかけるだけだ」

「才人って意外と家庭的なところあるよね」

「どこが」

「料理上手なところとか」

「お前、それだけで家庭的とか言うなよな。料理とか普通だから」

「でも自炊しない人だっているでしょ。才人は実家でもよく料理してたの」

「うちは自分が食べるものは自分で作るんだよ。生活リズム全員違うから」

「え? へえ……そうなんだ」

「だから家族と同居してるっていうより、ルームシェアしてるようなもんだ。誰とも顔合わせない日だってあるくらいだぜ」

「ふうん。それってさみしいね」

「別に」

 才人は本当に何でもないように肩をすくめた。

「お前はどうなんだよ」

「僕?」

「今一人暮らしだろ。料理しないのか」

「するよ」

「じゃ、俺と同じじゃないか。それでよく俺のこと家庭的とか言えるな」

「いや、でも……僕の場合は実家離れてから自炊始めただけだから。それまでは母親が作ってくれてたしね」

「ああ、噂に聞く、自動的に飯が出てくるっていう、あれか?」

「自動的?」

 僕は笑った。

「自動的ね。確かに」

「いいねえ。うちの母親は全然だめだ、そういうの」

「だめってことはないんじゃないの。生活リズムが違うだけなんでしょ」

「生活リズムって言うより、避けられてんのかもな」

「避けられてる?」

 不意に出てきたその言葉に、僕は驚いた。しかし才人は僕の声に答えなかった。ただ笑った顔のまま、料理を口に運んでいる。僕は何だか追究していいものやら悪いものやら分からなくて、黙り込んでしまった。

 才人は肘をついて、にやっと笑った。

「でも母親が料理作ってくれるような家庭だったら、実家離れてホームシックになったりしないのか」

「しないかな。今のところ。母親がまめで、しょっちゅうメール来るし」

「仲いいな」

「そうかな」

 気を遣ってくれてるだけだよという言葉は、飲み込んだ。

 食事を済ませると、才人は食器を片付けてゲーム機を出してきた。

「何かしようぜ」

「何があるの?」

 訊くと、才人は格闘ゲームやアクションゲームを出してきた。ゲーム機本体の中にもソフトがダウンロードされていたので、結局その中の一つを遊ぶことになった。高校が舞台のサウンドノベルで、新聞部の主人公が、怖い話を六人の生徒から聞いていくという形式のゲームだ。本当は七人目もいるはずなのだが、なぜか現れず、仕方なく集まった六人から話を聞き始める……というところから話は始まる。基本的にはホラーだが、時々おかしな話が混じっていたり、選択肢によっては笑える展開になったりもする。

「これ懐かしい」

「だろ?」

 早速主人公の性別を選ぶ。主人公の名前は任意で付けられるが、デフォルトのままにした。

 一人目の生徒の話が始まり、才人と二人でふざけながら遊んだ。僕はホラーゲームと言えばアクションばかりやるが、たまにはこうしたサウンドノベルもいいと思った。

 進めていくと、全員の生徒から話を聞き終わった主人公が、夜の学校から帰るという話になった。その学校の廊下が病院の廊下のように見え、僕はふと才人の入院の話を思い出した。

 けれど、今はそんな話をするような雰囲気でもなかったので、僕は思い出したことを忘れるように才人と笑い合った。

 そうして二人で遊んでいると、才人がふと後ろを向いた。そして何かを探すようにきょろきょろしてから、また画面に向き直った。と思うと、また後ろを見た。妙な動きだった。

「どうしたの?」

「いや、別に」

 と言って、才人は前を向いた。

「ちょっと声が……」

 ぼそりと言った。

「声? 隣の人?」

「かも知れないな」

「もしかして幻聴?」ふと思い出したので、訊いてみた。

「幻聴?」

「前に言ってたやつ」

「ああ……」

 才人は苦笑いした。

「そうかもな」

「女の子の声がするっていう」

「そうだな」

「今も聞こえた?」

「ああ」

「どんなこと?」

「何で? 空耳みたいなもんだろ。気にすんなよ」

 才人が避けようとしているのを感じた。そもそもファミレスで幻聴の話を始めたのは才人だったが、内容についてははぐらかそうとするのを、僕は不思議に思った。

 でも「幻聴の話をしたのはそっちなのに、どうして避けるのか」とも言えなかったので、僕は瞬きをして黙っていた。

 そして思い出したのは、自分の身に起こっている不可解な現象だった。幻覚なのか、夢なのか。現実かどうかも分からない、ゲームの中に入ったような、あの感覚。

 もしくは……そう、ゲームが現実に侵食してきているかのような、あの感じ。

 それともゲームに侵されているのは現実ではなく、僕なのか。

「最近さ……」

 僕は思わず、ぽつりと声を出していた。

「うん?」

「最近僕もあるんだよね」

「何が?」

「幻覚って言うのか……変な感じのやつ」

「ああ、学校で様子おかしくなってたな」

「それでさ……」

 言うべきかどうか迷って、僕は才人の机の上に視線を滑らせた。パソコンの横に置いてある、『Lucy, close to you』のパッケージ。ここからだと見えないが、その天気雨の降る花畑を思い出した。そこには古びた椅子が一脚あって、イベントでは、女の子が座っていた。

 そして言ったのだ。

「さみしい、ってさ」

 ――さみしいの。

「さみしいって、言うんだ」

 才人は横目で僕を見た。またあの、無表情のような、けれどそうではない、微妙な顔をしていた。

 僕はその才人の瞳と目が合って、思わず探るような目をした。才人はどうなんだ、という言葉が、自分の視線に混じった気がした。

 才人は暫くそのままの表情で僕を見て、不意ににやっと笑った。

「やっぱりホームシックなんじゃないのか、お前」

「え?」

「だからそんなのが聞こえるんじゃないの」

「まさか」

 僕もつられて笑っていた。

「さみしくなんかないよ」

 ――あなたもいっしょでしょ?

「そうか?」

「違うよ」

 才人はからかうように笑って、僕を肘で小突いた。

「さみしくなったらいつでも来いよ? 相手してやるからさ」

「どうもありがとう」

 才人はちらりと時計を見た。

「そろそろいい時間だな。風呂どうする?」

「どうするって?」

「シャワーでいいか? 風呂に浸かりたければお湯溜めるけど」

「いいよ、シャワーで」

「じゃ、シャワーな。先に使っていいぞ」

「ありがとう」

 僕が立ち上がると、才人はゲーム機を片付け始めた。そして思い出したように手を振った。

「あ、ちょっと待て。歯ブラシ出すから」

「いいの?」

「いいのって、お前歯も磨かずに寝る気かよ」

 僕はくすっと笑った。

「それはきついかも」

「だろ? 待ってろ、出すから」

 と言うと、才人はキッチンの棚から、使い捨てらしい歯ブラシセットを出してきた。多分近くの百円ショップで買ったものだろう。

「ほら」

「こんなの用意してるんだ」

「結構人が泊まりに来るからな」

「じゃあ、ありがたく」

「ああ」

 シャワーを借り、歯を磨いて戻ると、才人は床で煙草を吸っていた。部屋はざっと片付けられていて、ベッドの横に簡易の布団が敷かれていた。

 才人の足下には携帯灰皿があった。才人は喫煙者だが、それほど本数を吸わない。大抵日に二本か、多くても三本くらいだ。だから、きちんとした灰皿ではなくて、携帯灰皿を代用するだけで充分なようだ。

「才人、上がったよ」

「ん? ああ」

 才人は携帯灰皿に吸い殻を放って立ち上がった。

「じゃ、俺も浴びてくるかな」

「うん」

 才人はピアスを外し、パソコンの横に無造作に置いた。才人がシャワーを浴びに行くと、僕は思わずパソコンの横を見た。ピアスのそばにある、ゲームのパッケージ。『Lucy, close to you』。改めてそのパッケージを手にとって、まじまじと見た。

『その廃病院には、噂があるんだって……。

 さみしい記憶を、消してくれるって。』……。

 パッケージの裏に書いてある文句を読む。

 さみしい記憶を消してくれる……。

 ――さみしいの。

 ――それはあなたもいっしょでしょ?

 語りかけてくる少女の声。

 ――さよなら。宏衛。

 つられて母の最後の言葉が甦ってくる。母はそう言って、いなくなった。

 僕は母がそう言ったときの状況を思い出そうとした。けれど、畳の感触ばかりが甦ってきて、なかなか鮮明に思い出すことができなかった。

 窓の外からは雨の音がしている。夜になっても、大粒の雨が降り続いているようだった。あの時はどうだったろう。あの時は……。

 そうしていると、才人がシャワーを浴び終わったのか、ユニットバスの方からごそごそという音がした。

 僕は慌ててパッケージを置いて、布団の上に座った。やがてすぐに才人が戻ってきた。

 そして何もせずに布団の上にいる僕を見て、おかしそうににやっと笑った。

「お前、何もしないでずっとそうしてたのかよ」

「ぼーっとしてた」

 僕は嘘をついた。

「暇じゃねえの? そこら辺にあるものいじってても良かったんだぜ」

「大丈夫」

「あっそ」

 僕は鞄からスマホを取り出して、それを見た。才人とは別の友人からLINEが来ていた。それに返事をしていると、才人もベッドに座ってスマホをいじり始めた。すると、才人から下らないスタンプが送られてきた。

 思わず笑った。

「ちょっと、何? これ」

「変なスタンプ」

 と言って、また送ってくる。僕はおかしくて笑いながら、才人の膝を叩いた。

「ちょっと、やめてよ。今返事書いてるんだから」

 しかし、才人はにやにや笑いながらスタンプを送り続けてきた。

「ちょっと、書けないから」

「邪魔してやる」

「やめてよ」

 才人の手からスマホを取り上げようとしたが、よけられた。代わりに僕はまた才人の膝を叩いた。こんな些細な戯れが楽しくて、母の最後を思い出そうとしたことが薄らいでいった。

 ふざけ合っていると、いつの間にか日付が変わっていた。そろそろ眠ろうという話になったので、才人が部屋の電気を消すと、急に外の雨音がはっきりと聞こえてきたような気がした。

 僕が横になってからも、才人はベッドに寝そべりながら、スマホをいじり続けていた。その明るい画面が才人の顔を照らして、青白く浮かび上がらせた。

「寝ないの?」

「まだ起きてる。言ったろ、俺は夜型なんだ」

「暗い中でいじってると目悪くするよ」

「大丈夫」

「電気点けてもいいよ」

「別にいい」

「目に悪い」

 と言って片手でスマホの画面を遮ってやると、ふっと才人の顔が見えなくなった。才人の笑い声が闇の中から聞こえる。

「お前はおかんか」

「目悪くしても知らないよ」

「いいだろ別に」才人がよけると、またぱっと明るくなる。

「だめ」

「おかんかよマジで」

「やるんだったらフィルターかけなよ」

「分かったよ」

 才人が画面を暗くするフィルターをかけると、スマホの画面はぼんやりとした光量になった。この明るさでは才人の顔も見えず、部屋の中は真っ暗だった。

「はい、いいだろこれで」

「いいよ」

「じゃ、お前は寝ろ」

「はいはい」

 僕達はお互いくすくす笑い合って、僕は枕に頭を預けた。暗闇の中で、才人が画面をタップする、とん、とん、という音が聞こえる。

 僕は目を閉じる直前、才人が不意に顔を上げ、周りを見回すような動作をするのを見た。また幻聴が聞こえたかのようなその動きに、僕はぼんやりと、今も何かが聞こえているのかも知れないと思った。もしかしたら、才人にも僕と同じ言葉が聞こえているんじゃないのか――そんな気さえした。



 ……寒い。

 冷たくて、固い感触がする。

 僕ははっと目を覚ました。

 周囲は薄暗い。けれど、自分が今布団の中にいないことだけは分かった。

 体を起こし、見回す。ここはどこだ。そう思っていると、ぼんやりと周りが見えてきた。

 僕が倒れていたのは、布団の上ではなくて、冷たい床だった。朽ち果てた床。

 僕は反射的に、自分がまた『Lucy, close to you』の中に入っていると感じた。この現実感。間違いなかった。

 けれどここが何の部屋なのかは分からなかった。ゲームの中でも見たことがない。朽ちている室内ではあったが、どうもあの廃病院ではないような気がする。どこかの洋館の一室のような、そんな雰囲気がある。窓があり、そこからはしとしとと雨音が聞こえていた。

 周りが見えてくると、確かにここは洋館の一室かも知れないと分かった。テーブルがあり、食器棚か分からないが棚がある。壁に絵画が掛かっていて、その絵は黒髪の少女を描いたものだった。

 僕は立ち上がって、その絵の前に立った。

 あの少女だった。「さみしいの」と訴えてくる、あの少女。

 その少女は、どこかのベランダに立って、その手すりに片手を乗せながらこちらを見ていた。その表情はとても悲しげで、何かを言いたげな様子だった。

「……さみしいの」

 絵を見ていたら後ろから声がして、僕ははっとしてそちらを見た。

 テーブルの向こうに、あの少女がいる。

 少女はうつむいていたが、僕が息をつくのに合わせるように、ゆっくりとこちらを見た。

「……それはあなたもいっしょでしょ? ……だから……」

 ――だから?

 あなたもいっしょでしょ、という言葉に、続きが出たのは初めてだった。

 だから?

 だから、何だ?

「だから……あなたにも分かるはずなのに……」

「分かる……? 何が……?」

「……助けて」

 少女は僕の問いには答えなかった。

「あなたに……助けてほしい」

「僕に……?」

 少女が何を言っているのか全く分からなかった。

「君は誰なの? どうして、その……僕にそんなことを?」

「……さみしいの。みんな……さみしいの」

 少女には僕の声は届いていないのか。

 少女は僕を指さした。

「……うしろ」

「後ろ……?」

「うしろを見て……」

 僕の後ろには、この少女の絵が掛かっているはずだ。僕は少女に言われるまま、後ろを見た。

 するとその絵は少女の絵ではなくなっていた。

 描かれているのはマンションのベランダだった。それも僕が昔住んでいたマンションの。

 広い和室からベランダが続いている。そのベランダの灰色の手すりに、僕はさっと背中が寒くなった。

「……おねがい……」

 少女が言う。

「おねがい……助けて……」

「……さよなら。宏衛」

 後ろから母の声がした。

 僕はばっと少女がいた方を見た。

 しかしそこには母はおらず、少女の姿も消えていた。

 それに僕がいる場所は、もはや洋館の一室ではなくなっていた。

 森だ。

 夜の森。

 ささやかな夜風に、木々が葉ずれを起こしている。

 そして僕の目の前には、小さな頃の僕が背中を向けて立っていた。

 小さな僕は周りを見回して、まっすぐに歩き出した。獣道とも言えないような道なき道だ。けれどどこへどう行けばいいのか分かっているかのように、迷いなく足を進めていく。

 この場面には見覚えがあった。

 小さな僕は森に置いて行かれ、一人ぽつんとたたずんだ後、記憶にある道順に従って家へ戻るのだ。

 小さな僕は僕に気付いていないのか、こちらも見ずに草むらをかき分けて歩いて行く。

 僕はそれを追っていった。

 見覚えのある森。

 見覚えのある道。

 小さな頃、こうして森に置き去りにされることがよくあった。僕を森へ連れてくるのは必ず母で、母は何も言わずに僕を車に乗せ、一言もなく森の中へ連れていき、無表情のまま一人で帰って行く。僕もその姿を何も言わず、表情も動かさずに見送って、母がいなくなってからようやく家へと歩き出す。母の残り香も既に消えた、草と土のにおいばかりの道を。

 小さな僕はずっと森の中を歩いた。やや歩くと、車の通れそうな道に出た。母はいつもこういう所で車を降り、僕の手を握って、森の奥へと連れていくのだ。

 小さな僕は車の轍の残る道に沿って歩き出した。下り坂で、少し歩きにくい。

 僕は小さな僕を追いかけた。頭上はまだ木々の枝葉が覆っている。

 ……そうだな、と思った。いまだに夢に見るほど、こんなことがよくあった。母に森に置き去りにされ、僕は何も言わずに道を戻り、家へ帰っていく、そんなことが。

 当時住んでいたのは築年数の経った古いマンションだった。家に戻ると大抵明け方近くなっていることが多くて、僕は薄明かりの中、階段を上っていくのだ。そして五階に着くと、背伸びをして自分の家のドアノブに手をかける。僕が帰ってくるのが分かっているかのように、いつも鍵は開いていた。

 母はあまり眠らない人だったので、僕が帰ってくると居間の畳の上で座り込んでいることが多かった。そして僕が帰ってきたことに特に格別反応をすることもなく、僕を森へ置き去りにしてきたことなどなかったかのように、しんとして黙り込んでいた。長い黒髪が、その沈黙を包み込むように母の背に流れていたのを覚えている。

 母が何も言わないので、僕も何も言わなかった。僕も、母から森に置き去りにされたことなどなかったかのように、何も。

 そうしていつも通りの一日が始まるのだ。

 どうして僕を森へ置いていくのとも訊いたことがないし、そんな疑問を抱いたことすらない。母が僕を森へ置いてくることは、僕達の間では当然のことだったのだ。そしてそんなことなどなかったかのように家に帰り、家に帰った後もそんなことなどなかったかのように黙っているのも、当然のことだった。

 今も、目の前で、森の中を、小さな頃の僕が家へ向かって歩いている。昔、僕は、こうして森の中を歩きつつも、何も疑問にも思わず、何も考えてはいなかった。ただ家までの道のりを記憶から引き出して淡々と歩いていただけだ。空間を把握し、道を覚えるのが得意だったのは、この頃からそうだった。この特性がなかったら、僕は森の中から出ることはもちろん、家へ帰ることなどできなかっただろう。

 気付くと、小さな僕の姿は見えなくなっていた。歩いていた場所は車の轍の残る道だったはずだが、今は道幅も狭くなり、ぬかるんでいた。

 雨が降っていた。

 ぬかるんだ道の向こうに、洋館が見える。『Lucy, close to you』のスタート画面の洋館だ。

 僕はそこに行くのが義務ででもあるかのように、洋館に向かって歩き続けた。

 洋館の前に立つと、雨が全身をしっとりと濡らした。髪の毛から、まるで涙のように、雨粒が頬を伝った。

 僕は小さな頃家に帰ったときにそうしたように、そっとドアノブに手をかけた。そして薄く開いた扉から、懐かしい畳の香りがした。



 ……僕はゆっくりと目を開いた。

 頭を枕に預け、横になり、布団にくるまっている。

 ……夢か。

 僕はため息をついた。

 体が冷えていた。頬に触れると、雨に濡れた後のような、泣いた後のような、冷えた湿り気が残っていた。髪の毛もしっとりと濡れている。布団の中で腕に触れると、袖も肩も濡れていた。

 僕は体を起こした。全身が濡れていて、寒かった。

 ……濡れている。

 夢で雨に降られたのと同じように、濡れている。

 びしょびしょではないが、体が冷えて震えた。

 どうして濡れているのかとは、僕はもはや疑問は抱かなかった。それは、雨の中を歩いてきたからに違いなかった。

 あのゲームのせいだ。あのゲーム――『Lucy, close to you』。やはり、あのゲームはおかしい。

 隣のベッドの上を見えると、スマホを放り出して、才人が眠っていた。

 僕と同じように『Lucy, close to you』をプレイしている才人。

 才人には、何も起こっていないのだろうか。それとも――。

 僕は才人の寝顔を見ながら、自分の濡れた頬にもう一度、触れた。


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